新派

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新派(しんぱ)は、1888年(明治21年)に始まった日本の演劇の一派。当代の庶民の哀歓を描いた演目が多い。現在活動中の劇団は、『劇団新派』である。

目次

[編集] 略歴・概要

1888年(明治21年)12月、角藤定憲が大阪で、『大日本壮士改良演劇会』を始めた。これが新派元年とされている。1891年3月、川上音二郎で、『改良演劇』の座を興した。同年11月、伊井蓉峰浅草で、「男女合同改良演劇」『済美館』を旗揚げした。1892年7月、山口定雄一座が浅草に登場した。

板垣退助の『自由党』に属した角藤と川上の演劇は、少なくとも初期は自由民権思想の宣伝で、『壮士芝居』『書生芝居』などと呼ばれた。伊井と山口とは政治に関わらぬ演技派で、山口は河合武雄喜多村緑郎ら、女形を育てた。

1896年(明治29年)4月、伊井があらためて『伊井蓉峰一座』を組織し、生涯、座長を続けた。同年9月、川上一座を脱退した高田実らと、京阪で公演中の喜多村緑郎らが合流し、大阪で『成美団』を結成した。彼らは以降、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰』、菊池幽芳の『己が罪』、泉鏡花の『滝の白糸』など、新派の古典とされる演目を上演した。(『金色夜叉』、『滝の白糸』は、川上らが初演していた。)

劇団と俳優の集散を伴いながら新派は人気を高め、歌舞伎本丸歌舞伎座に出演し、また、歌舞伎俳優が新派の演目を演じることもあった。歌舞伎を『旧劇』、『旧派』、こちらを『新派』と呼び分ける習いも、1900年代初めに定着した。

1904年(明治37年)から翌年にかけ、大阪から戻った高田実、喜多村緑郎らが『本郷座』を本拠に一座を組み、川上一座・伊井一座・本郷座一党が鼎立した。合同公演もした。本郷座では、佐藤紅緑が1906年から1914年まで、座付作者を勤めた。

1907年(明治40年)、角藤定憲と山口定雄とが没し、川上音二郎が1911年、高田実が1918年に世を去って、新派は伊井蓉峰・河合武雄・喜多村緑郎の『三頭目時代』となり、かたわら井上正夫一座が台頭し、花柳章太郎・大矢市次郎・柳永二郎らが成長した。『三頭目』は一座を組むことも、別に興行することもあった。

『三頭目』一座の座付作者は、1919年から1927年まで真山青果、以降川村花菱・瀬戸英一であった。

1923年(大正12年)の関東大震災の直後、水谷八重子が新派に初参加し、1927年以降常連となった。1931年(昭和6年)の『三頭目』以下の大合同で、瀨戸英一の『二筋道』が大当たりしたが、その続篇を公演中の1932年に伊井蓉峰が没し、「喜多村・河合」の座と井上一派とが別に興行し、ときに合同した。

その1932年末から、川口松太郎が新派の台本を、書くようになった。

1939年(昭和14年)、花柳章太郎・大矢市次郎・柳永二郎・伊志井寛が、川口松太郎・大江良太郎をも同人として、劇団『新生新派』を結成し、残った喜多村・河合らの『本流新派』と井上正夫の『井上演劇道場』と、鼎立した。

1942年、河合武雄が没し、そして太平洋戦争の混乱期となり、『本流新派』と『井上演劇道場』は解散した。

戦後の1945年10月から、『新生新派』は興行を再開し、喜多村緑郎や井上正夫も参加していたが、1949年1月、分裂して乱れ、花柳章太郎の収拾により1951年12月、新派は単一劇団に合同した。その『劇団新派』は、発足を1949年としている。

2009年はそれから60年である。発足時の幹部、井上正夫、花柳章太郎、大矢市次郎、伊志井寛、初代水谷八重子、柳永二郎らも、次の世代の三代目市川翠扇霧立のぼる森雅之、花柳喜章、菅原謙次らも世を去って、二代目水谷八重子波乃久里子安井昌二、英太郎、紅貴代らが、新派をになっている。また歌舞伎界との交流も古くから盛んで、現役では五代目坂東玉三郎十五代目片岡仁左衛門十八代目中村勘三郎らの歌舞伎役者たちが新派の舞台に出演している。

[編集] 公演

何年何月興行の中の演目を1件と数え、1888年12月から2009年8月までの、延べ1800余件[1][2][3][4][5]から、件数順に並べる。

[編集] 演目

演目の右は、原作者名で、小説を台本化した脚色家ではない。

  1. 婦系図泉鏡花
  2. 明治一代女、川口松太郎
  3. 鶴八鶴次郎、泉鏡花
  4. 滝の白糸、泉鏡花
  5. 残菊物語村松梢風
  6. 風流深川唄、川口松太郎
  7. 不如帰徳富蘆花
  8. 日本橋、泉鏡花
  9. 二筋道、瀬戸英一
  10. 明日の幸福、中野実
  11. 金色夜叉尾崎紅葉
  12. 月夜鴉、川口松太郎
  13. 皇女和の宮、川口松太郎
  14. 遊女夕霧、川口松太郎
  15. 十三夜樋口一葉
  16. 兄いもうと、室生犀星
  17. 己が罪菊池幽芳
  18. 浪花女、溝口健二
  19. 女将、北条秀司

[編集] 原作者

括弧内の数字は、全件数中のパーセントである。

川口松太郎(18)/泉鏡花(7)/北条秀司(6)/八木隆一郎(5)/中野実(4)/樋口一葉(2)/瀨戸英一(2)/永井荷風(2)/川村花菱(2)/花登筺(1)/村松梢風(1)/徳富蘆花(1)/谷崎潤一郎(1)/真船豊(1)/里見弴(1)/林房雄(1)/北條誠(1)/矢田弥八(1)/尾崎紅葉(1)/菊池幽芳(1)/佐藤紅緑(1)/石坂洋次郎(1)/三島由紀夫(1)……

[編集] その他

久保田万太郎は、1938年から1963年の没まで、多くの脚色・演出を手掛けた。

[編集] 脚注

  1. ^ 「柳永二郎:『木戸哀楽 新派九十年の歩み』、読売新聞社(1977)」の「年表」、(約1750件)
  2. ^ 国立劇場文化デジタルライブラリー
  3. ^ 明治座 過去の公演一覧
  4. ^ 劇団新派公式サイト
  5. ^ 早稲田大学演劇博物館 現代演劇上演記録

[編集] 参考図書

  • 柳永二郎:『木戸哀楽 新派九十年の歩み』、読売新聞社(1977)
  • 岡本綺堂:『明治劇談 ランプの下にて』、岩波文庫(1993) ISBN 9784003102626
  • 川島順平:『日本演劇百年のあゆみ』、評論社(1968)

[編集] 朝鮮の新派劇

新派劇
各種表記
ハングル 신파극
漢字 新派劇
平仮名
(日本語読み仮名)
しんぱげき
片仮名
(現地語読み仮名)
シンパグク
  

朝鮮には日韓併合条約締結直後の1910年代に流入して人気を集めた。初めて新派劇を導入した時は、言語だけ朝鮮語に変えて公演するだけで、日本新派を直輸入した。したがって翻案台本を初めとして演劇のすべての要素が日本新派の要素をそのまま移植して来たのだった。

朝鮮での新派劇発展過程も、やはり日本の例に似て進んだ。初期には日本式軍事劇が多く、探偵劇を経て、結局最も大きな人気を呼んだのは、家庭悲劇を扱ったメロ物だった。趙重桓の『長恨夢』、李海朝の『鳳仙花』が代表的だ。朝鮮時代の伝来小説の中で家庭悲劇的要素を盛った『薔花紅蓮伝』、『謝氏南征記』なども公演された。

新派劇には家父長制のような旧時代的要素が多かったので、近代的認識が本格化された1920年代には、改良新派という名前で変形されたし、1931年に劇芸術研究会が創立され、新劇と確実に区分されるジャンルになった。新派劇も先進的な新劇の影響を受けて発展のための努力がなされた。

1935年東洋劇場設立以後、体系的な公演体制を稼動しながら、商業的な成功で全盛期を迎えた。李瑞求、朴珍、宋影、金健、朴英鎬、崔獨鵑などが、新派劇専門作家で人気を集めた。素材は家庭悲劇と史劇が主潮を成した。この時期の代表作は、興行に大きく成功した林仙圭の『愛にだまされ金に泣き』だ。

朝鮮戦争前の1940年代後半まで公演されてから消滅した。朝鮮戦争後には新派劇というジャンル自体は化石化されたが、新派劇が抱いていた要素は映画やドラマなど他のジャンルに残存している。

[編集] 関連項目

  • 東洋劇場

[編集] 参考資料

  • 서연호 (2000年12月26日).〈3.신파극의 수용과 대중화〉,《우리연극 100년》.ソウル: 현암사.ISBN 8932310769

最終更新 2009年11月2日 (月) 16:16 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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