新興キネマ
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新興キネマ(しんこう-、1931年 改組 - 1942年1月 合併)は、第二次世界大戦前の映画製作会社である。
[編集] 略歴・概要
前身は大阪にあった帝国キネマ(帝国キネマ演芸)。
1931年(昭和6年)、現在の東京都中央区八丁堀に本社を構え、営業を開始した。大泉に撮影所があった。大谷竹次郎や白井信太郎らが設立に深く関わっており、事実上松竹の傍系会社であった。監督には伊丹万作、溝口健二、新藤兼人、俳優には片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、山田五十鈴らが在籍した。子役時代の森光子も同社に籍を置いている。初期には嵐寛寿郎の寛プロや入江たか子の入江プロとも提携し、作品を配給した。また、後の大映社長となる永田雅一が京都撮影所長を務めていた。
1939年(昭和14年)3月29日には演芸部が発足、吉本興業からミスワカナ・玉松一郎、香島ラッキー・御園セブン、益田喜頓、坊屋三郎らを引き抜き一時は大騒動に発展する。背景には吉本の所属芸人があまりにも多くなり、少々の活躍ではギャラアップや劇場での出演順のランク上昇などが認められなくなっていたことが挙げられる。また新興では当初から芸人が異なるエリアの劇場をローテーションする興行体制を予定したことや、映画製作による収益等も見込んでギャラ等を計算したため、芸人にとっては大幅な待遇改善・ギャラの上昇につながった。坊屋三郎は後に当時のことを「吉本では10日毎に新ネタを要求されていたのが新興では(大阪・京都・神戸の劇場を10日毎にローテーションするため)新ネタは1ヶ月毎でよくなりきちんとした作家も付く。独立したショーが用意され一流のバンドやダンサーもつく。おまけに月給も90円から300円に上がるとなると、これでOKしないのはバカだよ」と語っている[1]。
これに対し吉本側も芸人たちの新興側の劇場への出演を禁じる仮処分申請を行ったり、暴力団を使って実力で興行を阻止しようとしたりといった方法で対抗したが、既に日中戦争が始まっているという時節柄もあってか京都府警・大阪府警が調停に乗り出す。結局同年5月22日に両社の間で和解が成立し、正式に芸人の移籍が認められた。さらに1941年(昭和16年)には、漫才作者として有名な秋田實が吉本興業から同社に移籍し文芸部長に就任している。
1942年(昭和17年)、戦時統合によって、日活の製作部門、大都映画と合併して「大日本映画」となる(戦後の大映 →現在の角川映画)。
[編集] 関連項目
- 帝国キネマ演芸 - 新興キネマ - 大映
- 大衆文芸映画社
- 不二映画社
- 嵐寛寿郎プロダクション(嵐寛寿郎) - 1931年より提携
- 阪東妻三郎プロダクション(阪東妻三郎) - 1931年より提携
- 入江ぷろだくしょん(入江たか子) - 1932~35年提携
- 片岡千恵蔵プロダクション(片岡千恵蔵) - 1935~36年提携
- 高田稔プロダクション(高田稔) - 1934年~36年提携
- 東映東京撮影所 (新興キネマ東京撮影所)
- 東映京都撮影所 (新興キネマ京都太秦撮影所)
[編集] 脚注
最終更新 2009年4月27日 (月) 18:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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