日下義雄
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日下義雄(くさか よしお、嘉永4年(1851年) - 大正12年(1923年)2月18日)は、明治時代から大正時代の政治家、実業家。
会津藩の侍医の石田龍玄(常雄)の長男として生まれる。父は農家の出身だが、幼年より医学を学び公家の側醫格となり士分に登用され七人扶持を賜った。父の龍玄は特に内科の名医として名声があり、貧しきものには無銭にて薬を処方した。母は中村為七郎の娘のちえ子。幼名は五郎。初名は石田伍助。弟に白虎隊二番士中組の1人で飯盛山で自刃した石田和助がいる。妻は水野忠精の娘。
藩校日新館で学び、鳥羽伏見の戦いに従軍。会津戦争では、大鳥圭介らと行動をし、落城前に会津を脱出し、箱館戦争に加わった。捕虜となり増上寺で謹慎の時に石田義雄と名乗る。のちに赦免され、会津出身を隠すため日下義雄と改名した。長州藩日下家の養子になったともいわれている。
明治4年、井上馨の知遇を得て、彼の推挙で岩倉欧米使節団に同行して、アメリカに留学する。そして、帰国後ヨーロッパを視察し、ロンドンで経済学を研究した。日本に帰国後は内務省などに勤務し、太政官権大書記官などを歴任し、一等駅逓官となったのち明治19年2月25日に長崎県令(7月19日より知事に名称改称)となった。同郷の官吏の北原雅長を抜擢し選挙で初代長崎市長として当選すると日下が構想していた長崎市の水道事業を完成させた。また、中島川上流中川郷の地に吉野桜数千本を植えて夜桜の名所としたり、保健衛生上の観点から長崎市およびその周辺の土葬を禁止したりした。そして、明治22年12月26日に辞職した。
明治25年8月20日に福島県令となった。同県出身者として初である。明治28年7月16日に海外経験がかわれて弁理公使(外国大使)となる。
明治32年(1899年)7月15日、彼は渋沢栄一などの実業家の協力や地元の資本家らと岩越鉄道株式会社を設立し、郡山と会津若松間を開通させた。第一銀行常務取締役などの民間の役員を歴任し、衆議院議員を2回当選している。大正12年に没する。墓所は谷中霊園。
最終更新 2009年9月16日 (水) 04:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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