支那事変

支那事変の最新ニュースをまとめて検索!

支那事変(しなじへん)とは、1937年(昭和12年)から始まった大日本帝国(日本)と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘(宣戦布告は両国とも行わなかった)である。

支那事変という呼称は、日本政府が定めた公称である[1]が、現在は日中戦争と呼ばれている。当項目では「支那事変」という「呼称」について解説する。

戦闘の詳細については「日中戦争」を参照

戦争と事変の違いについては「事変」を参照

[編集] 概要

支那事変は、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国華北地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那、現中国の華中地方)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、次第に日本と中華民国戦争の様相を呈していった。

1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。

特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。

事変の長期化と共にアメリカやイギリス援蒋ルートを通じて重慶国民政府蒋介石政権)を公然と支援。日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府汪兆銘政権)を承認した。

1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」[2]と決定した。

日本では初め北支事変(ほくしじへん)、後には支那事変(しなじへん)の呼称を用いた[1]。新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。日華事変の呼称は汪兆銘の要望によるものと言われる[要出典]

戦後は徐々に「日中戦争」という呼称が広まった。これは日中双方が「事変」としていたが、事実上の戦争であるとの歴史学会による学説、さらに主として日本教職員組合など教育現場やマスコミが、占領軍(GHQ)や中華民国中華人民共和国(建国前)両政府の「中国を侮蔑するニュアンスを含む」とする意向をうけて「支那」という言葉の使用を避けた為である。

詳細は「支那」を参照

現在「支那事変」の呼称を使用するのは、防衛庁防衛研究所戦史室(現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)や準公式戦史である『戦史叢書』などで歴史資料を引用する場合、厚生労働省援護局で高齢の対象者に判りやすく説明する場合[要出典]靖国神社や各県の護国神社での呼称使用の場合にほぼ限られている。

[編集] 脚註

  1. ^ 1937年(昭和12年)9月2日閣議決定、事変呼称ニ関スル件「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」
  2. ^ 昭和16年12月12日閣議決定 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月6日 (金) 21:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【支那事変】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!