日明貿易
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日明貿易(にちみんぼうえき)は、日本の室町時代に日本が中国の明王朝に行った貿易を指す。貿易の際に、許可証である勘合符を使用することから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。李氏朝鮮との日朝貿易や南海貿易と並ぶ。
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[編集] 歴史
1368年に朱元璋(洪武帝)が建国した明朝は、東アジアで活動していた倭寇(前期倭寇)の禁圧を日本に対して要求し、さらに朝貢を勧めるために使節を派遣する。日本では足利氏が奉じる京都の北朝と吉野朝廷(南朝)が対立する南北朝時代で、北九州で活動していた南朝方の懐良親王は明に朝貢し、「日本国王」に冊封されていた。
室町幕府3代将軍の足利義満は、九州へ今川貞世(了俊)を派遣して南朝勢力を駆逐し対明交渉を開始するが、1380年には明で胡惟庸の獄が起り胡惟庸との通牒を疑われたこともあり、日明関係は成立しなかった。義満は1392年に南北朝合一を行い、1399年(応永6)には独自に私貿易を行っていた大内義弘を応永の乱で討つ。 1401年(応永8)に博多商人肥富の献策で、僧祖阿と肥富を使節として明へ派遣する。翌年に義満を「日本国王臣源」に封じる内容の国書を持ち帰国するが、明使の在日中に靖難の変で永楽帝が即位すると、再び国書を送り日本と明の間に国交が成立する。
義満死後の4代将軍足利義持や前管領の斯波義将らは朝貢形式に不満を持ち、1411年(応永18)貿易を一時停止するが、6代将軍足利義教時代に復活する。応仁の乱以降には堺を本拠とする管領家の細川氏や、乱で兵庫を得た大内氏、博多や堺などの有力商人が経営するようになった。
1523年(大永3)の寧波の乱の結果、大内氏が権益を握り、1536年に大内義隆は遣明船派遣を再開する。1551年(天文20)に義隆が家臣の陶晴賢による謀反(大寧寺の変)によって滅亡すると、後を継いだ大内義長(大友義鎮の弟)は、1556年(弘治2)と翌年に兄・大友義鎮とともに貿易再開を求める使者を派遣する(『明実録』)が、明側は義長を簒奪者と看做してこれを拒絶、また1557年に義長が毛利元就に討たれて大内氏が名実ともに滅んだ事によって、貿易再開の見込みが絶たれ、東アジアでは倭寇(後期倭寇)による密貿易が中心となった。
[編集] 形式
室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢する形式で行われた。制限貿易で、1401年(応永8)から1549年(天文18)まで19回に渡り行われる。1404年(応永11年)以降は倭寇と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合符を所持した勘合船に限られるようになり、1432年(永享4)に宣徳条約で回数などが規定される。勘合符には「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した。日本→明は「本字勘合」、明→日本は「日字勘合」が使用された。遣明船には博多や堺などの有力商人も同乗し、明政府の許可を得た商人との間で私貿易が行われていた。
勘合貿易が行われるようになると倭寇は沈静化する。輸入された織物や書画などは北山文化や東山文化など室町時代の文化にも影響した。
[編集] 商品
この貿易において、日本の銅は国内よりも非常に高値で明に輸出された。この理由としては、中国の歴史上慢性的とも言えた銅の不足の他に、日本の銅には銀が少なからず含有しており、当時の日本にこれを抽出する技術を持っていなかったが、明はそれを持っていたためである。結果、「銅にしては高いが銀にしては安い」価値で交易されていた。
[編集] 年表
注:派遣年次(明暦)、派遣者(正使)、の順。
- 1401年(建文3) 幕府(祖阿)
- 1403年(永楽元) 幕府(堅中圭密)
- 1404年(永楽2) 幕府(明室梵亮)
- 1405年(永楽3) 幕府(源通賢)
- 1407年(永楽5) 幕府
- 1408年(永楽6) 幕府
- 1408年(永楽6) 幕府
- 1410年(永楽8) 幕府
- 1433年(宣徳8) 幕府
- 1435年(宣徳10) 幕府
- 1453年(景泰4) 幕府
- 1468年(成化4) 幕府・細川氏・大内氏
- 1477年(成化13) 幕府
- 1484年(成化20) 幕府
- 1495年(弘治8) 幕府・細川氏
- 1509年(正徳4) 細川氏(宋素卿)
- 1512年(正徳7) 細川氏・大内氏(了庵桂悟)
- 1523年(嘉靖2) 大内氏(謙道宗設)
- 1523年(嘉靖2) 細川氏(鸞岡瑞佐)
- 1540年(嘉靖19) 大内氏(湖心硯鼎)
- 1549年(嘉靖28) 大内氏(策彦周良)
[編集] 関連項目
最終更新 2009年11月22日 (日) 09:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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