日本における死刑

日本における死刑の最新ニュースをまとめて検索!

ウィキブックス
ウィキブックス刑法各論関連の教科書や解説書があります。

本稿では、日本における死刑(にほんにおけるしけい)の概要、歴史を述べる。

日本死刑法定刑のひとつとして位置づけている国家であり、その方法は絞首によると規定されている(刑法11条1項)。

目次

[編集] 日本における死刑の傾向

日本の刑法では、内乱罪及び外患罪が存在し、最高刑は死刑が規定されているが、現在までいずれの罪状で死刑が適用された事例が存在しない。特に後者は適用事例すら存在しない。クーデター未遂事件である二・二六事件1936年)の処罰は陸軍刑法の叛乱罪によるもので、首謀者も一般死刑囚とは違い銃殺刑に処せられた。また政府や裁判所は内乱罪の適用に消極的であり、内乱罪適用事件は五・一五事件神兵隊事件の2件のみあるが、いずれも内乱罪で処刑された者はない。なお、昭和時代初期までは大逆罪のほか治安維持法適用による政治犯の処刑(スパイとされたリヒャルト・ゾルゲ等)もあったが、政治犯を処罰するのは日本国憲法で認められた国民の権利に反するため、現在では人命を奪う暴力的な事件を引き起こした者のみに死刑が適用される。

[編集] 死刑判決の言渡し

法定刑に死刑のある犯罪は以下のとおりである。裁判所裁判官)は、法廷に提出された証拠をもとに、過去の判例(いわゆる永山基準など)もあわせて検討し判決を下す。

通常、刑事裁判では、主文を先に朗読した後に判決理由の朗読が続くが、判決が死刑である場合には、被告人の心理状態を考慮し主文朗読が後回しにされることが多い。このため、判決公判の冒頭に主文朗読がなされずにまず判決理由の説明が行われることは、「死刑の可能性が非常に高い」と裁判の当事者や報道機関等が判断する材料となる(例外もある)。この場合、マスコミ速報では「極刑が予想される展開」などと報じられる。

上記のように日本の刑法および特別法では、他者の生命を奪わなくても死刑になりうる犯罪類型がある。しかし、戦後の判例で確定した死刑判決は、致死の結果を生じた場合に限定されており、現在死刑が適用されるのは故意に行った犯罪行為によって他人の生命を奪った者のなかでも、特に生命を以って償うべきであると裁判所が認定した犯罪者に限定されているといえる。

[編集] 死刑の量刑基準

公判のなかで被告人が反省の弁を述べなかったり、犯罪の共謀者と罪のなすり付け合いをしている場合も死刑判決が出るケースが多い。また1979年に発生した福岡病院長殺人事件は、殺害を実行した2人が院長1人を殺害した事件であったが、凶悪な累犯を重ねた共犯として、ともに同等の厳しい責任を認定し死刑が確定した。保険金目的の殺人など営利目的の殺人に対しても厳しい判決が下されるケースが多い。また、強盗殺人や強姦殺人の場合、被害者が1人でも死刑となるケースがある。

仮釈放中の無期懲役受刑者による強盗殺人事件について最高裁は1999年12月10日に「別の強盗殺人罪で仮釈放中に再び強盗殺人を犯したケースは死刑が相当」であるとして、累犯による刑加重であるとして下級審が下した無期懲役判決を破棄し、死刑の適用を求める判例を出している。また無期懲役ではないが殺人の前科があり、その後強姦した女性が告訴した事を逆恨みした結果殺人を犯した者について、死刑が確定して4年後という比較的早期に処刑されている(詳細は「JT女性社員逆恨み殺人事件」を参照のこと)。このように殺人の前科があるものが再犯で殺人事件を犯すと死刑になる事例が多い。

母親が子供を殺害した場合は、死刑にならない場合が殆どであり、子供に障害がある場合には、殺害された子供には責任がないにもかかわらず、執行猶予になるのケースも散見される。また同様に寝たきりの者を介護していた親族が殺害した場合には、情状酌量によって起訴猶予される場合すらある。このように、死刑適用の基準が一定していない。

死刑もその他の刑罰と同様、罪刑法定主義に則った明快な基準の必要性が法曹界で議論されてきた。従来は、どの程度の罪状に対して死刑を適用するか、罪状による適用範囲の重複はあるが、最高裁は概ね以下のような基準を示していた。

  • 3人以上殺害した場合は、死刑の可能性が高いが、著しく情状酌量される状況である、従犯である、真摯に反省している、初犯である、再犯の可能性が無い、更生の見込みがある、前記の条件が重なる場合は無期刑の可能性も少しはある。
  • 2人殺害した場合は、殺害の動機の悪質性、殺害方法の残忍性、主犯か従犯か、真摯に反省しているか、初犯か再版か、再犯の可能性が無いか、更生の見込みがあるか、前記の条件を総合的に判断し、死刑か無期刑か有期刑か量刑判断が異なる。
  • 1人殺害した場合は、有期刑や無期刑の可能性が高いが、殺害の動機が著しく悪質、殺害方法が著しく残忍、全く反省していない、再犯や累犯である、再犯の可能性が高い、更生の見込みが無い、前記の条件が重なると死刑の可能性も少しはある。

以上の基準によれば、「日本における判例では、3人以上殺害していなければ死刑にならない」との認識を持つかもしれないが、死刑の適用は裁判所の裁量であり、実際には当てはまらない判例も多い[1]。また、運用は時代背景とともに変遷があり、1947年~1963年と1966~1970年は毎年10人以上に死刑確定判決があり、1949年には第二次世界大戦後では最多の77人に死刑確定判決があった。また、1960年代以降の略取・誘拐事件では、身代金目的で誘拐し人質を殺害した場合は、被害者が一人であっても死刑が宣告された(例として 吉展ちゃん誘拐殺人事件等)。その一方、死刑確定判決は1971~1987年と1989~2003年は10人未満、死刑執行は1977~1989年は1~4人、1990~1992年は0人、2000~2006年は1~4人だった。

警察庁や法務省の統計によれば第二次世界大戦後の殺人率は1954年をピークに長期的に減少傾向であるが、殺人・犯罪に対する厳罰化を求めるマスメディアの報道・世論の影響で、2人殺害にも死刑判決が数多く出されるようになり、更には、1人殺害の事件でも死刑判決が出されるケースが見られるようになった。例えば、2005年には女子短大生1人を殺害した被告人(三島女子短大生焼殺事件)に、2006年には幼女1人を殺害した被告(奈良小1女児殺害事件)に、2007年の長崎市長射殺事件の一審判決においても被害者が1人の殺人事件でそれぞれ死刑判決が下された(長崎市長射殺事件の二審判決は無期懲役)[2]。更に、2009年3月18日には、闇サイト殺人事件(被害者が1人の殺人事件)で2人の被告人に死刑判決が下されている[3]

死刑確定判決は2004は14人、2005年は11人、2006年は21人、2007年は23人、2008年は10人、死刑執行数は2007年は9人、2008年は15人に増加している[4]。なお、少年法第51条1項により、18歳未満の年齢で犯罪行為を行った少年に対しては死刑に処することができない(死刑相当の場合は無期刑が下される)と規定されており、これまでは、少年法が適用される20歳未満の者についても死刑判決が回避される傾向にあり、前述の永山基準の枠組みでは誰が見ても死刑以外に選択肢がない場合だけ死刑が出来るという基準であった。しかし、光市母子殺害事件の最高裁判決は「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」とし、犯行時18歳であっても「原則として死刑適用」という新たな判断の枠組みを提示した。また、民法および刑法で規定されている成人の年齢を現在の20歳から18歳に引き下げる検討も行われている。もし実現すれば光市母子殺害事件の被告人のような問題はなくなる。

[編集] 死刑執行まで

[編集] 執行までの期間

刑事訴訟法475条によると、死刑は判決確定後、法務大臣の命令を以って執行されることになっており、大臣は確定後6ヵ月以内に執行を命令しなければいけないことが定められているが、再審の請求や恩赦の出願等の期間はこれに含めないことも定められており、また判例によれば6か月以内の執行は法的拘束力のない訓示規定とされている(これについては現状説明のための後付けではないかとの意見もある)こともあって、死刑確定から執行まで、多くが数年から十数年もの間、平均では7年6か月を要するのが実際である。異例の早さで死刑が執行されたといわれる附属池田小事件の元死刑確定者でさえ、確定してから約1年の時間を要している。そのため、刑を執行されないまま拘置所の中で一生を終える死刑確定者もいる。

判決確定から6か月という規定は、日本国憲法制定後の1948年に現行刑事訴訟法が制定された際に、それまでのように死刑執行まで時間がかかりすぎるのは、死刑執行を待つ恐怖が長く続くことになって残酷であり、新憲法の趣旨にも反するという理由で作られたものである。すなわち、旧刑事訴訟法下では執行にかなりの時間を要していたということであり、結果的には、この規定をもってしても判決確定から執行までの期間が6か月以内になることはなかった。この6ヶ月という期間が経過しても処刑されない点について昭和二十年代後半にすでに問題になっており、1953年6月19日に朝日新聞に掲載された「たまった死刑囚84人、部内に執行促進論 再審や恩赦請求を乱用」の記事によれば、死刑囚が死刑執行阻止を狙い、再審請求や恩赦出願を濫発するので法務当局内部に再審請求を行える回数を制限すべきだとする議論があることを伝えているが、そのなかで「昭和24年に最高裁で確定した死刑囚が残されている」と指摘しており、当時は「4年」も長い拘置期間とされていた。その後1950年代以降は精神の異常を疑われたまま死刑判決を受けた者や、冤罪が疑われながら死刑判決を受けた者については、更に執行が避けられる傾向が顕著になり(著名なものに帝銀事件があるが、藤本事件のように執行された例もある)、外部交通が制限されるなか、長年にわたり何度も再審請求を繰り返して、最終的に無罪となった元死刑確定者も存在している。もっとも、1960年代から1980年代にかけて新規の死刑確定囚が多くなかった事実もある。

また、死刑が確定したのちに、何らかの理由により刑が執行されなかった場合、確定後30年をもって刑そのものが免除となる(刑法32条)。ただし死刑確定者が刑法11条2項に基づき刑事施設に継続して拘置されることによって、免除までの期間は中断される(最高裁昭和60年7月19日決定)。例として名張毒ぶどう酒事件がある。

[編集] 拘置

死刑が執行されるまでの間、死刑確定者は刑場を有する以下の刑事施設に拘置される(刑法11条2項)。

拘置所により若干異なるが、死刑確定者は執行までの間、便器・流し台・机・寝具等が収納された3畳ほどの居室(第二種独房と呼ばれる)の中で逃走・自殺・自傷防止用のカメラに24時間監視されながら生活をする。居室の窓と鉄格子の間は小さな穴の開いた金属板で覆われるため外の景色はほとんど見えず、換気も大変悪く、ほとんどの拘置所には冷暖房装置もない。

起床は午前7時、就寝は午後9時だが、カメラで監視を行うため、明かりを暗くする減灯処置が行われ、消灯は行わない。運動、入浴は夏期は週3回、夏期以外は週2回。運動はベランダかコンクリート床の所で30分程度で、縄跳びのみ支給される。入浴は着替えも含め15分程度。但し最近は、拘置所側が規定を拡大解釈することによって、これより多い場合もあるらしい。それ以外は居室の中で座って過ごす。食事は朝食が午前8時、昼食が午前11時半、夕食は午後4時半に支給される(食事の味付け、量は個人差があり評価はまちまちだが、生野菜がないためビタミン不足になりがち。そのため、親近者からの差入れか、申請して果物類を購入して摂取する)。

希望すれば、封筒貼り等の軽作業(贖罪)もすることができ、賞与金を得ることができる(最高、月に4~5千円位)。

[編集] 外部との交通

外部交通は信書の発受と面会に限られる。

信書は1日に1通発信することができる。内容については検査される。

面会は1日に1回許可され、内容は記録される。面会時間は長くとも30分以内と決められているが、実際は長くて10~15分程度しかなく、短いときには5分程度で話を打ち切るよう催促される。面会の相手は親族・婚姻関係の調整、訴訟の遂行、事業の維持その他の死刑確定者の身分上、法律上又は業務上の重大な利害に係る用務の処理のため面会することが必要な者・面会により死刑確定者の心情の安定に資すると認められる者・前記に掲げる者以外の者から面会の申出があった場合において、その者との交友関係の維持その他面会することを必要とする事情があり、かつ、面会により刑事施設の規律及び秩序を害する結果を生ずるおそれがないと認める者に限られており、家族以外の友人やジャーナリストNGOスタッフなどが面会を申請しても、許可されるかどうかは当該刑事施設の取り扱いによって異なるものと思料される(取材を目的とした面会は一切許可されず、ジャーナリストなどが面会する場合は「面会したことを記事にしない」という趣旨の誓約書を書かされる)。

このため、家族と疎遠になっている場合などには、何年間も誰とも面会できない者もいる。また、死刑確定者の支援者らが養子縁組などを行い、家族として面会を求めた場合も拒否される(面会のためだけに養子縁組となり、家族という形で面会することを刑事施設側が拒否したのは合憲とする、という判例もある)。

このような外部交通の制限について日弁連は報告書で、国際人権規約に反するとしている。

[編集] 執行までの手続

刑事訴訟法によると、死刑は判決確定のうえ、法務大臣の命令によって行われることになっており、法務大臣は判決確定後6ヶ月以内に執行を命令しなければならない、と規定されている。しかし、実際は6ヶ月以内に命令がくだるというケースは皆無である。たとえ6ヶ月を経過しても、「死刑執行起案書」とよばれる書類が作成されなければ、死刑の執行にむけての法手続きは進行しない。

死刑判決が確定すると、判決謄本と公判記録は当該死刑確定者の死刑を求刑した検察庁に送られる。高等検察庁検事長、あるいは地方検察庁検事正は、これらの書類をもとに、死刑確定者に関する上申書を作成し法務大臣に提出する。上申書は、法務省刑事局に回される。同時に検察庁から刑事局に裁判の確定記録が運ばれる。刑事局総務課は資料が全て揃っている事を確認し、刑事局担当の検事が記録を審査する。通常、死刑該当犯罪の場合、その裁判資料は膨大なものであるから審査には時間がかかる。特に、刑の執行を停止しなければならない件、非常上告の有無の件、再審の件、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認される。審査の結果、死刑執行に問題がないと判断されると、検事は死刑執行起案書を作成する。死刑執行起案書は刑事局、矯正局、保護局の決裁を受け、これらの決裁の確認の後、「死刑執行命令書」として大臣官房へ送られる。ここまで、膨大な資料の確認と決裁のため、相当な時間がかかるが、この間に死刑確定者が妊娠した場合や、精神に異常をきたした場合は、書類は刑事局に戻される。

死刑執行命令書は官房長の決裁を経て、法務大臣の下へ届く。本来であれば法務事務次官の決裁が必要だが、法務大臣と法務省の事務方代表である法務事務次官の決裁が食い違っては、政治的問題になるので、法務事務次官の決裁は、法務大臣の決裁を経た案件だけに行われる。

法務大臣の署名には必ず赤鉛筆が使われるが、これが行われない限り、死刑執行は不可能である。大半の大臣は署名を嫌がるといわれる。また、在任中に信条、宗教上の理由などで執行命令書の署名を行わなかった大臣もいる(賀屋興宣左藤恵など)。2005年には法務大臣に就任した杉浦正健が記者会見で「(死刑執行命令書に)私はサインしない」と異例の発言を行い、非難を浴びて1時間後に撤回する事態となった(ただし、杉浦法相は在任期間中命令書に一度もサインすることはなかった)。

例外的ではあるが、死刑の執行に積極的な大臣も存在した。田中伊三次は法務大臣就任後、知り合いの記者に「死刑が執行されるところを見に行こう」と誘い、相談した刑事局総務課長から叱責されたり、「これから死刑執行命令書のサインを行うので写真を撮ってくれ」と、数珠を片手にポーズを構えたが、あまりの悪趣味に産経新聞を除く記者クラブの記者らに呆れられたといわれている。これは翌日(1967年10月17日)の朝刊一面で報じたのは産経新聞だけだったためである。また、反対に裁判資料を持ち込み悩みながら熟読し判断を下した大臣もいた。

日本の刑事裁判では一般的に三審制であるが、このように死刑に関しては最高裁の後の法務大臣の死刑執行の署名する前段階で、さらに法務省刑事局で検事による裁判記録の審査がおこなわれ、健康状態に問題があったり、また冤罪の可能性があるなど執行に障害のある死刑囚が排除されていくため、事実上の四審制であると表現[5]されることもある。

大臣の性格により様々であるが、法務省当局としては「死刑無し」の前例をできる限り作らないように、大臣の任期終了前には相当な催促が行われるという。ただし、もちろん、主義主張に無関係もしくは不明ながら任期が短い等の経緯により、結果として在任中死刑執行を一人も行わなかった法務大臣も、第二次世界大戦後に複数存在する。

[編集] 執行準備

法務大臣署名押印して執行命令書が作成されると、刑事施設の長に届けられ、5日以内に死刑が執行される。法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律178条2項)の規定により、日曜日土曜日祝日法に定める休日12月29日から1月3日までの間は死刑の執行は行われない。

また、一度に死刑が執行されるのはひとつの刑事施設で一人が基本であるが、二人が時間をおいて執行された例も多数あるほか、基本的に共犯二人が死刑囚の場合には同日に死刑が執行される(前述の福岡病院長殺人事件や夕張保険金殺人事件など多数例外もある)。ただし、前述の田中伊三次が同時に23人に執行命令を出した際は、全員の死刑に1ヶ月以上かかっており「5日以内に死刑」は刑事施設の準備により遅れる場合がある。

執行予定日は、死刑確定者やその家族・マスコミ被害者の家族等、外部には一切知らされない。過去においては当該死刑確定者に前日または前々日に執行の予定を告げ、死刑確定者の希望する食事をできる限りの範囲で与え、特別の入浴や親族との面会を許可し、同囚や宗教教誨師や担当刑務官らを交え「お別れ会」を行うこともあった。また「お別れ会」の開催は後述の玉井策郎大阪拘置所所長(当時)が1956年に読売新聞の紙面で公開した秘密録音で明らかになった。

しかし、近年では、死刑確定者には当日の朝に執行を告げられ、午前中に執行される傾向にある。なぜ事前通知が行われないかであるが、死刑通告を前日等に通達すると、執行前に自殺されたり、または執行官が病気などを理由として休むことが多いためといわれている。この事前通知を行わない対外的な理由としては「死刑確定者の心情の安定のため」としている。実際に1975年10月3日に福岡拘置所で死刑執行当日の朝に、前日死刑執行を通知されていた死刑囚が左手首を剃刀で切り付け自殺している。以来、死刑囚に対し死刑執行を前日に通知しなくなったとされる。

この告知方法については、毎朝、執行が予定されていない日においても、死刑確定者に不要な恐怖を与えて残虐であると内外から批判が強い。また、防御権の行使・遺言の伝達・家族間の別れの挨拶等を行うことも不可能になるため、死刑廃止国や死刑反対団体から強く批判されている。

また、執行を担当する刑務官についても執行当日に職務命令が通知されるという[6]。これは刑務官に事前に知らせると、情報漏えいの危険があるためである。また当日欠勤するからという話もあるが真偽不明である。担当する刑務官は通院中の者や新婚の者、妻が妊娠中の者などは除外され、残りの者から選抜されるという。

死刑執行の日、死刑確定者の独房には死刑確定者の抵抗に備え、特別警備隊と呼ばれる、頑強な刑務官で構成された一隊が送られ、首席矯正処遇官(処遇担当)より死刑確定者にこれから死刑を執行する旨が伝えられる。時間は午前9時から11時の間が通常であると言われている(旧刑法附則1条では「午前十時前」とされていた)。淡々と従う者、抵抗を試みる者、恐怖で茫然自失となる者、泣き叫びながら命乞をする者、反応は様々だという。ここでは遺書を書く時間や、室や荷物を整理する時間は全く与えられず、即座に特別警備隊により刑場へ連行される。

[編集] 執行当日

[編集] 刑場

絞罪器械図式(明治6年太政官布告第65号)に定める、死刑執行の装置の図。

刑場の様子については写真が公開されていないが、実際に執行に携わった刑務官や視察した国会議員などの証言によれば、刑場には、手前の部屋に祭壇、奥の部屋に刑場が設置されている。2つの部屋は白いカーテンにより区切られているとされており、刑場を視察した保坂展人によれば[7]、東京拘置所はクリーム色をしたアコーディオンカーテンだったという。

死刑には拘置所長、立会検事、検察事務官、首席矯正処遇官(処遇担当)、首席矯正処遇官(教育担当)、医官2名、刑務官5名以上、宗教教誨師が立ち会う。検事の立会いは刑事訴訟法に規定されているが、推理小説家の佐賀潜は著書[8]の中で検事時代の1944年長崎刑務所浦上支所で執行された場に、担当でもないのに興味本位で立ち会った体験を述べており、実際には多くの者が立ち会う場合もある可能性もある。

祭壇は回転式になっており、死刑確定者の信仰する宗教に応じて、仏教キリスト教神道の祭壇を選ぶことができるほか無宗教も選択できる。拘置所長による死刑執行指揮書の読み上げが行われる。宗教教誨師が最後の説教・説法を行う。その後、死刑確定者は拘置所長や刑務官らと別れの挨拶を行うのが一般的である。死刑確定者を落ち着かせるために拘置所長・首席矯正処遇官(教育担当)・宗教教誨師が講話を行う。祭壇には供え物の生菓子が置かれており、首席矯正処遇官(教育担当)から最後の飲食をすすめられる。しかしそれに手をつける死刑確定者は極めて稀である。拘置所長が死刑確定者に最期に言い残したいことはないか尋ねる。遺言があれば遺言を残すことができ、希望があれば遺書を書くこともできるが、時間は限られている。

一通り終わると死刑確定者は刑場へ連行される(宗教教誨師が仏教系の場合、処刑までの間、読経が行われるという)。刑務官らにより目隠しと、腕の拘束、足の拘束が迅速に行われ、ロープがかけられ(ロープの頚に当たる部分はで覆われている)、長さが調節される(これらは死刑確定者を立たせた状態で行われるが、札幌拘置所のみ椅子に座らせて行われる[要出典])。なお、死刑を執行するための装置の概要は、絞罪器械図式(明治6年太政官布告第65号)に定められている。拘置所長の合図により、5人の刑務官により同時に5つのボタンが押される。これは刑務官の精神的苦痛に配慮した仕組みで、どのボタンがダミーなのかは一切不明である。床板が開き死刑確定者は地下へ落下する。なおこの手順は死刑確定者が従順な場合であり、激しく抵抗する者などは前記の儀式を省略し刑務官らの力により刑場に引き立て処刑という事になる。

[編集] 死刑執行

概ね日本の死刑確定者は、取り乱すことなく淡々と死に臨むと言われているが、執行の実態を証言する者は殆どおらず、信頼にたる資料も少なく、詳細は不明である。名古屋高等検察庁時代に死刑執行に立ち会った三井環元検察官が語ったところ[9]によれば、死刑囚の表情は顔も白布に覆われており確認できなかったといい、最後の肉声も立会人のいる部屋にある防音ガラスの為か読経以外は聞こえなかったが、合図も無く首が吊られたため抵抗はなかったという。またその様子は、不謹慎であるが、三井は奇妙な「美しさ」を感じたという。なお執行された死刑囚の身体は30分間ぶら下げられていたという。

死刑は絞首により行われると定められているが、実際は縊首(いしゅ)である。死刑確定者は、落下した後数分から十数分、長くて20分以内には死ぬとされている。死刑確定者の中には、失禁脱糞射精をしている者もいるという。日本では死刑確定者に対し、死刑執行による痛みを感じさせることなく即死させる絞首刑の技術があるとされている。これは処刑台の床板が外れることで死刑確定者が落下し、その衝撃で延髄損傷・頸骨骨折が起き、死刑確定者は意識を失うとの説がある。

これは1870年代にイギリスで開発され実施されていたロングドロップと呼ばれる絞首刑の方法と同じではないかと思われる。絞罪器械図式に定められている装置は当時のイギリスの物と酷似しており、痛みを感じないとする説の説明も酷似している。日本は明治時代にイギリスの死刑執行人ウィリアム・マーウッドが開発した絞首刑の技術を導入したのではないかと推測される。[要出典]

なお「10分経っても絶命しなければ新しい名前と戸籍が与えられて裏口からこっそり釈放される」などの都市伝説があるが、まったくの虚偽である。これは海外の絞首刑の失敗事例からきたもので、当該事例では実際には恩赦で懲役刑に減刑されている。[10]

死刑確定者の中にはこの話を信じて必死に10分間息を止める練習をする者もいたという[11]が、後述のとおり絶命前に絞縄を解かれることはなく、法令上もありえない。なおアメリカ合衆国では不備で死刑の執行が失敗した場合、時期を置いて再度執行されるという。

立ち会った医官により死刑確定者の死亡が確認された後、法律(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律179条)の規定により死亡が確認されてから5分間死体はそのままの状態で置かれる。検察官と執行施設の長により死刑執行始末書に押印・署名されて、事件に関するすべてが終わる。立会人らにはが振る舞われるという。執行に関わった刑務官らには死刑執行手当2万円が支給され(振り込みであると、刑務官は家族に死刑立会いについて気付かれるため、それを避けるよう手渡しで支給される)、午前の内にその日の仕事は終業とされ帰宅が許される。

そのまま飲みに出かけ死刑執行手当を使い切る刑務官が多いと言われている。 また、死刑執行手当を手に寺へ行き、死刑確定者の供養を依頼する刑務官もいるという。死刑確定者の遺体は、あらかじめ決めてあった引き受け先と24時間以内に連絡が取れれば引き取って葬儀をすることが可能であるが、実際に引き取られた死刑確定者の遺体は少ない。連絡が取れなかったり引き取りを拒否されるなどして引き受け先がない場合は拘置所で葬儀を行い、火葬場火葬された後、拘置所の存在する自治体の墓地へ無縁仏として埋葬される。また、死刑確定者の遺言により献体とされる遺体も多いという。なお刑事施設の長は、所在地の市町村長に対し死亡を報告する(戸籍法90条1項)。

また、たとえ遺族が遺体を引き取っても死刑囚の葬儀を拒否される場合もあり、たとえば附属池田小事件の宅間守死刑囚は獄中結婚した妻が引き取ったが、最終的には信者ではなかった大阪市内のキリスト教の教会で行われた。

以上のような死刑執行の様子は司法当局から公式に一切公表されたことがない。司法当局は後述にもあるような秘密行刑主義を一貫として取っている為である。立ち会う者も刑事施設の長、刑務官検察官など行政府に属する者に限定されている。そのため、実際のところはほとんど伝聞情報であり、真実に近いか不明である。そのため、これらは半世紀以上前に公開された情報や、既に退職した刑務官などの証言からもたらされたものである。

[編集] 秘密主義

日本の死刑の特徴の一つとして、密行主義が挙げられる。マスコミや被害者の家族等を死刑の執行に立ち合わせることはない。死刑の執行予定が公表されないことに加え、従来は執行後も死刑確定者の氏名や罪状等、多くの情報が公表されなかった[12]。最近国会議員に刑場見学が許可されるまでは、国会議員や学者による要請であっても刑場の見学等は一律に許可されていなかった。死刑確定者の最期の様子が伝えられることはなく、日記などの遺品の内の何種類かは死刑確定者の家族にも返還されない。

近年の傾向として執行日が国会閉会中の金曜日に偏っていることが言われる。連続した平日に5日かけて執行準備が行えるという理由のほかに、国会での追及を避けること、続く休日にあえて執行を取り上げて追及するマスコミが少ないことも理由になっているはずだという批判が存在する。さらに近年は法務大臣の辞任間際に死刑執行命令がなされる傾向がある。これは法務大臣も人であり職務の執行とはいえ死刑執行の署名を嫌がることから、検察側から催促がかかりだす辞任直前まで執行命令がなかなか出されないことによると言われている。また、別の凶悪事件が起きた直後にも執行されることも多い。これは、死刑に賛成する世論の最も強い時期に執行することにより死刑批判をかわせること、および凶悪犯罪の結果は悲惨な死であるということを国民に知らしめる一般予防効果を狙うことが理由であろう(しかしながら、2006年には年末も押し迫った時期の月曜日に執行された。このときは法務大臣の辞任間際でもなかったことから、法務省が執行ゼロの年を作りたくなかったのでは、との見方がある。なお、このときには一挙に4人の死刑が執行されている)。

死刑執行は国会審議において死刑執行について追及されることを避けるため、国会閉会中に行われる傾向があった。しかし、2007年4月27日金曜日)には通常国会開会中でありながら3人の死刑が執行された。このことは長勢甚遠法相安倍内閣)が就任後2回目の死刑執行を行ったこととともに、異例なこととされた。

さらに、鳩山邦夫法相福田康夫内閣)の執行命令により、臨時国会開会中の2007年12月7日に死刑が執行され、ここで日本国憲法下の法務大臣の命令によるものとしては初めて死刑被執行者の名前、犯罪事実、執行場所が公表された。執行された者の名前の公表に踏み切った理由について、法務省は「死刑が適正に執行されていることについて国民の理解を得るために情報公開が必要と考えたことなどから、慎重な検討を踏まえ、法務大臣が氏名、犯罪事実、執行場所を公表するとの判断をした」としている。2009年3月13日、法務省は幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚らに対する死刑執行命令書の開示請求に応じ、命令書を全面開示した。公開された命令書によると、2008年6月13日付で、当時の鳩山邦夫法相が当時の東京高検検事長だった樋渡利秋(現在は検事総長)に対して「裁判言い渡しのとおり執行せよ」と命じている(その後、実際に宮崎元死刑囚は2008年6月17日、東京拘置所で死刑を執行された)。法務省は「死刑執行命令書の開示請求では、死刑囚のプライバシーに配慮し、一部を黒塗りにしてきたが、鳩山法相以来は全面的に開示している」と述べている[13]

[編集] 日本における死刑の歴史

[編集] 平安時代以前

詳細は「死罪 (律令法)」を参照

世界各国の社会と同様に日本において古代から死刑が行われていたのは間違いない。「古事記」の仁徳天皇記によれば、叛乱を企てた弟夫婦を山部大楯連に命じて討たせたが、その時山部がその妻女鳥がしていた玉釧を死体から奪い、妻に与えていたのを咎められ、処刑(方法は不明)されたとの記述がある。無論どこまで真実を書き表しているかは明らかではないが、日本の史書で「死刑」の単語が使われた最も古い事例である。また最初に刑罰として明らかに斬首にされたのは、巫女に淫らな行為をしたとして雄略天皇に処断された凡河内直香である。その後中国の影響を受けた律令法が整備され、刑罰の一つとして死刑制度が形成された。

[編集] 平安時代

平安時代には、嵯峨天皇弘仁9年(818年)に死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布して死刑執行が停止された。死刑相当の罪に対しては一旦太政官刑部省において死罪の判決が出されても、執行の権限を持つ天皇の名において流罪への減刑が適用され、災害や朝廷内の出来事ごとに恩赦が出されたために、判決が下された後に釈放されるケースも多かった(また、八虐のように連坐除名没官などが付随する場合には、これらの処分は厳格に適用されていた。また、流罪に減刑されて現地に送られた後は非常赦と呼ばれる特別な恩赦が出ない限りは赦免されなかったから、交通が未発達な当時においては死刑に匹敵する威嚇効果があった)。また薬子の変以降、中央での政争が武力によって解決されることはなくなった。

平安時代は、不殺生を説く仏教が特に重んぜられた時代であり、特に穢れ思想は貴族階級に浸透していた。また怨霊信仰によって、天変地異や疫病などの災いの原因を怨念や祟りと考えた時代でもあり、そのことからも死刑は避けられ、政争においても血が流されることはなかったのである。

近代欧州から現代の国連決議まで、すべての死刑廃止論は平時のみの死刑廃止であり、戦時にまで死刑廃止を貫徹したのは平安時代の珍しい特徴である。ただし、これは京の中央政界のみでの現象であり、承平天慶の乱など続発する地方の戦乱への対処では、追討対象者は殺害されることが普通であった。承平天慶の乱では、討ち取られた平将門藤原純友の首が京で晒し首となっている。また985年には盗賊の藤原斉明が検非違使によって近江で撃ち殺され、さらし首にされた記録がある。

平安末期には武士が台頭し、自力救済の思想が一般的となる。武士の時代の到来を告げた保元の乱の戦後処理として死刑が復活した。後白河天皇源為義らを斬罪に処すよう提言した信西の言葉には「おほくの凶徒を諸国へわけつかはされば、定而猶兵乱の基なるべし。(中略)若重てひがごと出来りなば、後悔なんぞ益あらん」(保元物語巻之二「為義最後の事」より)とあり、兵乱の防止を目的として死刑を復活させたことが記録されている。

保元の乱で処刑されたのは武士だけで、武家における私刑(源為義が源義朝に、平忠正平清盛にそれぞれ預けられた)という形式がとられたが、平治の乱では貴族である藤原信頼が斬首となり、ついに中央政界における死刑が復活するのである。ただし、この信頼の処刑についても、「公卿」に対する処刑の復活という点では画期的だが、あくまでも武装しての「戦闘員」としての役割に対する死罪とする考え方もある(『保元・平治の乱を読みなおす』(元木泰雄))。後の平家一門や、承久の乱に連座したものたちについても同様のことが言え、戦乱時における「武士だけ」の処刑という伝統はその後も続いていた。

嵯峨天皇の宣旨から保元の乱の起こった保元元年(1156年)まで、338年の間、全国的に平時死刑は廃止され、京においては平時・戦時例外なく死刑執行は停止されていた。古代においてこれほど長期間死刑が行われなかった例は世界史上ほかに存在しない。

[編集] 中世

鎌倉時代鎌倉幕府は死刑の種類について、絞と斬の2種類に定めていたが、地方においては鋸挽獄門なども行われていた。

また鎌倉・室町時代には全国的に統一された絶対的な司法権が確立せず、各荘園公領が独立した司法権・刑罰権を有するようになった。そのため、弱小な荘園・公領に所属する者が強大な荘園・公領に所属する者から害を与えられた時には泣き寝入りになることが多く、小荘園・公領はそれに対抗するために小荘園・公領同士で同盟を結んで大荘園・公領に対抗し、人的被害が生じた場合は再犯の防止を目的として同じ程度の被害が生じるように相手の荘園・公領に生贄を要求した。同じ荘園からの再犯を防止するためには相手の荘園に同じ程度の被害が生じれば事足りるため犠牲は犯人である必要はなく、荘園・公領の中の下層階級の者や被差別民を遺族の上位身分への引き立てを引き換えとし、犯人の代わりに差し出すことが多かった。一つの事件を「死んで解決した人」であることから「解死人」(げしにん)と呼ばれるようになり、後の「下手人」との呼び方につながっていった。また、中世末期に惣村の自治的結合(一揆)が強まると、惣村もまたこうした主体を担うようになっていく。

鎌倉・室町から戦国時代にかけて世の中が戦乱に巻き込まれるようになるにつれ、社会の過酷さを反映して串刺牛裂・車裂釜茹で(盗賊石川五右衛門の処刑が有名)などのように刑罰も苛烈になっていった。

経済犯に対して死刑が適用されたり、謀反などの重罪に対して連座制が適用されたり、領主の世俗的権威とは独立した権威を説くキリシタン一向宗徒等の宗教勢力に対して、根絶と見せしめのために残虐刑が多用されたり、というように、領国の治安強化や粛清のために死刑を多用する戦国大名たちが現れた。一方では、自力救済による私的刑罰権を制限するため、喧嘩両成敗の原則が分国法などで制度化されるようになった。豊臣秀吉喧嘩停止令で私戦を禁止したほか、刀狩令により百姓身分の武器使用を規制し、惣村における自力救済を否定した。

[編集] 江戸時代

酷刑の傾向は江戸時代初期まで続いたが、あまりに残虐な刑罰はやがて廃止された。武士に対しては切腹または斬首武士でない階級には鋸挽火罪下手人死罪獄門が適用された。切腹は武士としての名誉を尊重する形式であり、斬首は不名誉刑として不名誉な罪に対し行われた。

江戸時代の刑罰も軽罪犯に対して死刑を適用し、重罪に連座制を採用するというように治安目的の傾向を強く読み取ることができるが、密通生命刑が予告されていたり、同じ生命刑の中でも親殺し(尊属殺人)や主殺しは一段重く罰せられていたことなどから、死刑が当時の文化身分秩序の維持を目的として行われていた面があることも読みとれる。

8代将軍徳川吉宗のときに定められた公事方御定書によって死刑の種類は火刑、獄門、死罪、切腹などに限定され、残虐なやり方による死刑を制限する方向へとつながった。ただし公事方御定書は江戸町奉行のみが閲覧を許される秘法であったため、罪刑法定主義による死刑が行われていたわけではない。

なお、尾張藩徳川宗春は統治期間中に領内において死刑を廃止している。彼の思想を記した「温知政要」では、死刑について「取り返しの付かない刑罰」であるとし、その運用は慎重の上に慎重を重ねるべきと述べている。

また江戸期になって法制化された敵討(仇討ち)は、肉親を殺害された遺族が相手に復讐する為に行われる私刑であったが、これを許されたのは武士階級のみであり、対象も尊属を殺害した者であり子弟の場合には許されなかったほか敵討は決闘であるため、敵とされる側であっても「返討ち」が許されていた。

[編集] 近代

明治時代になっても明治政府初期は江戸時代の立法を準用していたため、引き続き江戸時代の刑罰が実施されていた。1870年に暫定刑法である新律綱領を定め、死刑を「斬罪」と「絞首」の2種類に限定した。この網領で刑法典の出版と頒布が初めて認められ、罪刑法定主義が一応担保された。1870年明治3年)に新律綱領を定め、死刑を「斬罪」と「絞首」の2種類に限定し、また1880年(明治13年)には絞首1種類に限定した(ただし、陸軍刑法海軍刑法など陸海軍軍法における銃殺刑が存在した)の改定律例では欧米の近代刑法の影響を受けて、刑罰を簡略化して残酷な刑を廃止した。フランス刑法典を基本に日本社会の特性を加味して1880年に制定された刑法(旧)は絞首のみに死刑執行方法が限定された。この刑法によって江戸時代と比較して死刑が適用される犯罪は大きく限定されることになった。また例外として大日本帝国の兵士に対して適用された陸海軍軍法(陸軍刑法および海軍刑法)は最高刑として銃殺刑による死刑が存在した。

近代日本において死刑制度廃止法案が帝国議会に提出されたのは1900年のことで、安藤亀太郎、高須賀穣、根本正らが共同提出した。これは当時欧州の死刑廃止論の影響を受けた小河滋二郎ら実務派が主張していたことが背景にあるが、大きな社会的潮流になることはなかった[14]

1908年には現行刑法が施行され、現在まで幾度かの改正が行われているが、基本的には現在と死刑が適用される犯罪は変わらない。しかしながら死刑適用犯罪として皇室に関する罪のうち、天皇及び皇族を殺害もしくは危害を加えようとする大逆罪は、生命を奪うまで至らず未遂(予備も含む)であっても死刑のみが適用されていた。そのため幸徳事件では24名が、虎ノ門事件桜田門事件では1名ずつ(朴烈事件は死刑判決を受けたが恩赦された)が死刑になった。戦後になってGHQにより国民主権の理念に反するとの判断から廃止された。以上のことから、死刑の適用事件は日本においても他の近代諸国と同様に大幅に限定されるようになってきているといえる。

[編集] 戦後から現代へ

1945年、日本は第二次世界大戦太平洋戦争もしくは大東亜戦争とも呼称)に敗北したため、連合国の占領政策のもと従来の法制度を民主的に改革することが求められた。刑事政策関係では従来の刑事訴訟法が比較的厳格な法手続きを尊重する英米法に倣ったものに改正されたが、死刑制度自体は存続していた。この時期には戦後の混乱期の凶悪犯罪の増加という背景もあり、死刑の宣告及び執行は多かったが、従来の自白偏重主義の捜査方法が行われていたため、後年問題となった冤罪事件が数多く生じていた。

1946年昭和21年)に公布された日本国憲法における死刑の憲法適合性については、1948年(昭和23年)3月12日最高裁判決(最高裁昭和23年3月12日大法廷判決)においては合憲の判断(死刑制度合憲判決事件)がなされている。同年11月11日に日本国憲法下で初めて死刑が執行された。

日本国憲法施行後の1948年3月12日最高裁判所は死刑制度の存在と憲法の規定は矛盾したものではなく是認しているとの判決を出し死刑は合憲であるとした(死刑制度合憲判決事件[15])そのため、現在でも日本においては死刑制度存置の根拠のひとつとされている。なお、現在では殆どふれられることはないが「大野意見」という死刑制度に否定的な少数意見も付けられている。

また、戦後アメリカ軍によって日本から分離統治(1945年~1972年)されていた沖縄県では、日本の刑法が適用されていたため死刑制度(ただし東京の最高裁判所に上告できないため事実上二審制)があり、実際に死刑判決も出されているが、琉球列島高等弁務官に死刑の執行や恩赦の権限が与えられていたため、無期懲役に減刑した場合(泊母子殺人事件)もある。

死刑囚の恩赦であるが、現在ではまず行われないが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効による恩赦では、殺人犯のみで死刑が確定していた者のうち13人が無期減刑されている。また個別恩赦で戦後11人が恩赦されているが、この中には戦時中に樺太で発生した強盗殺人事件の死刑囚のように、ソ連軍が樺太に侵攻したため裁判記録が事実上消滅し死刑起案書が作成できない為に減刑されたもの、少年法の改正(死刑にすることの出来る年齢が18歳以上に引き上げ)で犯行時17歳の死刑囚が無期減刑になった例がある。

戦後日本の国会で死刑廃止法案が提出されたのは1956年1965年の2度あるが、いずれも成立することはなく現在に至っている。これは、この時期イギリスの国会で死刑制度の是非が議論されていた影響もある。1956年の際には「刑法の一部を改正する法案」として羽仁五郎参議院議員らが中心となって提出されたもので、現職の刑務官や所長らの現場から死刑廃止が根強く主張された。それによれば、自ら犯した犯罪に対する贖罪への感情が生じている死刑囚を業務のためとはいえ殺したくないというものであった。

読売新聞1956年4月13日付けの紙面には、当時の大阪拘置所所長で後に死刑廃止論者として有名になった玉井策郎によって、死刑の実態を告発する為に強盗の際に警察官を射殺した死刑囚の執行までの53時間を秘密録音した実況が一面で掲載された。それによれば、死刑囚の肉親との最期の面会、同囚との別れの茶会、そして死刑囚最期の言葉と辞世の句を残した後、死刑執行が行われた場面で終わるというものであった。なおこの時の録音はテレビ朝日の『ザ・スクープ』のなかで1996年に放送したほか、文化放送も2008年に特番『死刑執行』で放送されている。

朝日新聞1965年1月16日の社説[16]には「殺人が国家の名において許され、そして残されている場合がたった二つある。戦争と死刑である。(中略)極刑がなくなれば、だれでも容易に殺人のような罪を犯すであろうと見るのが普通の見解である。しかし、一段と深く考えたなら、いかなる権力も、いかなる理由も、人を殺してはならぬという制度が確立してはじめて、人の生命に手を触れてはならぬという信念が、全ての人の心に芽生えるのである」として、死刑制度廃止に賛成する主張を行っている。これに対し死刑存置論[17]からは、おせんころがし殺人事件などで8人を殺害して、別々の裁判で2度の死刑判決が確定した栗田源蔵を引き合いに出し『世の中には特殊な極悪人がおり、淘汰する以外にない犯罪者がいるのだ』[18]として、社会防衛上必要であるとする死刑制度存置の理由として矛先に挙げられた。結局、この法案は廃案になった。

次の1965年3月の時[19]には、当時の日本社会党の参議院議員ら39名が提出した。この時期に提出されたのは西側欧州諸国で立法府による死刑廃止が検討されていたこともあるが、帝銀事件といった死刑囚の冤罪が疑われる事件が続出していたことが背景にある。また1968年4月に国会に連合国による占領時代に死刑判決を受けた未執行死刑囚を対象にした再審特例法案が提出された。この法案の主旨は前述のように冤罪の疑われた死刑囚に再審の途を彼らにその機会を与えるものであったが、この法案が成立することはなかった。ただし、何人かの死刑囚に対しては恩赦で無期懲役に減刑されたが、これは死刑廃止論の象徴となっていた戦後初めて死刑判決を受けていた女性死刑囚(子供を養うために僅かな金銭を強盗し放火殺人した事件、精神異常と結核が亢進し廃人状態だった)を恩赦する政治判断があったとの指摘もある[20]。なお、死刑囚が無期懲役に減刑されたのは1975年6月(福岡事件の死刑囚1人)を最後に行われていない。

これら死刑制度廃止の動きに対して、法務省は総理府(現在の内閣府)が行った世論調査の結果、日本の国民世論が死刑制度存置論が多数であるとして、死刑制度を維持すべしであるとして現在に至るまで死刑制度を廃止すべきではないとの立場を取り続けている。

なお、1946年以降2007年3月までの死刑確定者(自殺・獄死・恩赦減刑を除く)は728人で、それまでに死刑に処せられた者は627人、この時点での未執行者は101人であった[21]。また2009年現在、女性被告人で死刑が確定したものは10人(恩赦減刑1人、獄死1人、執行3人)であり、日本において死刑が適用される凶悪犯はほぼ男性であるといえる。

日本は1989年国連で採択された死刑廃止条約国際人権規約市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」)に未署名・未批准である。一方、死刑廃止を求める運動が活発化しており、1994年には亀井静香議員などを中心とする超党派の議員連盟「死刑廃止を推進する議員連盟」も発足している。また、1989年11月から1993年3月までの3年4か月の間は死刑執行が行われなかった。

2000年代からは被害者及び被害者遺族の権利や心情を重視する考え方や、厳罰化による犯罪の抑止を求める考え方などが支持を集めている。日本において犯罪件数そのものは減少傾向にあるが、附属池田小事件和歌山毒物カレー事件など、凶悪犯罪に対する市民感情、いわゆる体感治安の悪化も厳罰化の追い風となっている。近年においては光市母子殺害事件の被害者遺族の死刑要求運動の影響で死刑制度維持に賛成する世論が高まった。また、裁判でも死刑判決が増加する傾向にある。なお、死刑の執行は、1993年4月に後藤田正晴法務大臣(当時)が復活させて以降、2008年現在まで毎年行われている。鳩山邦夫は法務大臣に就任以来、13人に対して死刑執行を命令した。2008年の執行数は15名にのぼり、これは1975年の17名以来の多さである。

2008年10月28日に麻生太郎内閣森英介大臣の下、福岡拘置所にて飯塚事件死刑囚の死刑執行が成された。この事件については、足利事件と同様に冤罪の可能性が否定できず、元死刑囚の弁護団が再審準備をしているという[22]。この執行を含め、森英介大臣下では3回計9人に対して死刑が執行された。これにより、確定死刑囚は101人となり、1993年4月の執行再開以降の執行数は82人となっている。[23]

[編集] 日本における死刑制度の現状

1994年に超党派の議員連盟死刑廃止を推進する議員連盟」(現在の会長は亀井静香)が発足し、日本における死刑廃止運動は組織化され、活発に活動がなされている。そのため、日本は世界の主要国首脳会議出席国ではアメリカと共に死刑存置国(ロシアは死刑停止を公約している)に分類されている。日本における死刑制度に対する近年の動きであるが、下記のような傾向が上げられるといえる。

[編集] 国連機関の勧告

2008年5月には国際連合の国連人権理事会が日本の人権状況に対する定期審査を実施[24]されたが、このなかで欧州を中心に12ヶ国が日本政府に対し代用監獄問題や従軍慰安婦問題などに関して問いただされたが、死刑制度についても、死刑執行停止や死刑制度の廃止などが求めた。

これは前述のように国連総会で死刑執行の一時停止を加盟国に求める決議が採択されたにもかかわらず、日本で7人が死刑執行された状況を踏まえ、死刑制度廃止を訴える英仏などが説明を求められた。これに対し、日本代表は「国民世論の多数が極めて悪質な犯罪については死刑もやむを得ないと考えている」と指摘し、「国連総会決議の採択を受けて死刑執行の猶予、死刑の廃止を行うことは考えていない」との立場を表明した。結果的に人権理事会は日本に死刑制度の廃止を勧告する人権状況の改善を求めた審査報告をまとめた。

また、国連・規約人権委員会は、2008年10月30日に5回目となる対日審査・最終見解を公表した。その中で、国民世論の支持を死刑制度の存置の根拠としている点について「政府は国民に廃止が望ましいことを知らせるべきだ」として日本政府の主張を退けている。さらに、代用監獄問題や従軍慰安婦問題などと共に、「世論調査に関係なく死刑制度の廃止を検討すべきだ」との改善勧告を行った。[25]

[編集] 国際的人権団体の報告

2009年9月、ロンドンに本部を置く国際的な人権団体アムネスティ・インターナショナルは、日本の死刑囚は独房に入れられ精神病に追いやられるような非人間的な扱いを受けていおり、そのために重い精神病を患った死刑囚に対して死刑執行を行うことは国際法に反している、と主張している[26]。日本で新政権を担うことになる民主党に、死刑囚を精神病に追い込むような、閉ざされた明かりも無い独房に閉じ込めることがないよう改善を求めている。

[編集] 厳罰化傾向の高まり

第二次世界大戦終結後の1940年代後半から1960年代は現在と比較して、殺人、誘拐、傷害、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率が高く死刑や無期懲役の確定判決も暴力犯罪発生率に比例して高かった。1970年代以後は経済の発展と社会保障制度の整備により生活水準が向上し、暴力犯罪の発生率が減少し、死刑や無期懲役の確定判決も暴力犯罪発生率に比例して減少した。

「犯罪被害者の権利確立」「被害回復制度の確立」「被害者の支援」を訴える全国犯罪被害者の会の活動や、光市母子殺害事件といったマスメディアを席巻した凶悪事件を契機として、犯罪被害者や家族ないし遺族への心理的ケアの問題が以前にもましてクローズアップされている。そのため世論の犯罪者に対する動向が厳罰化への傾向が強まっているとされている。特に1990年代の日本において凶悪事件が続発したため、死刑存置派が「被害者感情」を前面に主張したことも厳罰化の一因がある。

この流れを受け、検察は1997年から1998年にかけて「裁判所の量刑は軽すぎ国民感情とかけ離れている」と批判し、検察側の死刑求刑に対し2審の高等裁判所が無期懲役を宣告した5事件を最高裁に上告した。最高裁は5事件のうち4事件については、検察の上告を棄却したが、1992年広島県福山市で発生した、友人と共謀し87歳の女性を殺害し、奪った貯金通帳で現金を引き出した仮釈放中の無期懲役受刑者による強盗殺人事件について「別の強盗殺人罪で仮釈放中に再び強盗殺人を犯したケースは死刑が相当」と最高裁は1999年12月10日に2審判決を破棄し広島高等裁判所に審議を差し戻した[27]。最高裁が2審の無期懲役判決を「軽い」として破棄したのは永山事件以来2人目の事であった。そのため、仮釈放中の殺人犯が再び殺人をした場合には死刑が宣告される最高裁判例が確定した。なおこの被告人であるが、差し戻し審で死刑判決を受け、最高裁が2007年4月に上告を棄却したため死刑囚となった。

暴力犯罪発生率は1940年代後半~1950年代のピーク時から現在まで長期的に減少傾向であるが、2004年の刑法改正により有期懲役刑の上限年数が20年から30年に引き上げられ、2000年代以後危険運転致死傷罪児童虐待の防止等に関する法律児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律ストーカー行為等の規制等に関する法律が新たに制定された。2004年~2008年は死刑確定判決が10件以上、2007年の死刑確定判決は23人であり1961年以来47年ぶりに20人を超えた。2003年~2006年は無期懲役確定判決は100件以上に増加し、2006年の無期懲役確定判決は史上最多の135人になった[4]。この流れは1970年代からアメリカ合衆国で始まった「犯罪者の治療よりも隔離を」と主張する「正義モデル」と呼ばれるモデルを日本の司法当局が取り入れたためである。このモデルでは犯罪者を無害化するのは不可能であり刑務所に長期間拘禁すべきである、また究極的無害化の策は生命体としての存在を除去する、死刑である[28]。日本においても1980年代ごろまで見られた温情主義的な判決はなくなり、被害者が死亡しなかったとしても無期懲役[29]判決が出される場合もある。

警察庁と法務省は警察白書犯罪白書において、殺人、誘拐、傷害、強姦、強盗などの重大な暴力犯罪の発生率は、第二次世界大戦終結後の混乱期・復興期だった1940年代後半~1950年代をピークに長期的に減少傾向であると犯罪統計を公開しているが、マスメディアや評論家のなかには、社会や政治の現状を批判する観点から、厳罰化を要求する人たちは犯罪の一般抑止の観点から、政府の公開情報である犯罪統計の時系列の推移に照らして事実ではない、「凶悪犯罪の増加」、「治安の悪化」、「少年犯罪の悪化」、「外国人犯罪の急増」などの認識を事実であるかのように主張している。

「従来の量刑基準なら無期懲役だった事件でも、死刑が言い渡されるようになっており、厳罰化を求める世論の影響ではないか」との指摘がされている。「平成12年(2000年)の改正刑事訴訟法施行により、法廷で遺族の意見陳述が認められたことが大きいと思う。これまでも遺族感情に配慮しなかったわけではないが、やはり遺族の肉声での訴えは受ける印象がまったく違う」とコメントしている現役裁判官もいる[30]

日本弁護士連合会によると、1983年の永山事件判決以降、被害者1人で死刑が確定した被告は26人。身代金目的誘拐や仮釈放中の事件が大半を占め、死刑にしないケースが主流だった。しかし、2008年5月に出された長崎市長射殺事件長崎地裁判決では被害者1人でも死刑判決が出された。また、2009年3月に出された闇サイト殺人事件名古屋地裁判決では、被告人3人のうち、2人に死刑判決を出された。この事件では被害者遺族が3人の死刑を求める署名を行い、31万5876人の賛同を得たと陳述した。弁護人は「被害感情を刺激する恐れがある」と考え、何も言えなかった[31]

2009年から導入された裁判員制度では、日本が世界で唯一の参審制裁判で国民が死刑を選択できる国[32]であるため、凶悪事件、特に死刑を適用できる事案に対する厳罰化感情が無視できない影響を与えるとの指摘がある。その一方で被害者感情に応える為とはいえ、近代刑罰がいさめる応報的な復讐を国家が率先して行うようになっているとの批判もまた存在する。また同様に死刑制度を初めとする厳罰主義を採っているアメリカ合衆国が社会条件が日本と大きくかけ離れているとはいえ、凶悪犯罪の撲滅に必ずしも成功していない事実もある。

[編集] 日本の死刑をめぐる言論

[編集] 死刑制度に対する世論調査

日本では、政府の総理府(現在の内閣府)が5年毎(平成時代以前は不定期)に実施している世論調査において死刑制度に関する調査が行われている。以下は最新の調査結果である。

  • 「死刑制度に関してこのような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」(2004年12月内閣府実施「基本的法制度に関する世論調査」から引用)
    • (ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである‐6.0%
    • (イ)場合によっては死刑もやむを得ない‐81.4%
    • わからない・一概に言えない‐12.5%

以上の結果から、司法当局は近年の世論調査では国民の8割以上が死刑存置に賛成しているとしている。

この数字は1967年に行われた昭和42年度世論調査「死刑に関する世論調査」で死刑肯定意見が70.5%であったのと比べると増加している。なお、この世論調査は1956年(死刑肯定意見65.0%)に初めて行われ、1967年、1975年1980年1989年1994年1999年2004年に行われている。また世論調査の設問が毎回違う[33]ため、恣意的な設問との主張[34]もある。実際にアンケートの取り方によっては、死刑に変わる適切な刑罰が存在すれば死刑は必要ないとする消極的賛成も相当いるとの主張もある。

[編集] 法曹関係者の死刑制度に対する意見

一般人に対する世論調査では死刑に対し支持する割合は高いが、法曹関係者を対象にした調査では法学研究者や弁護士の過半数が死刑反対である一方で検察官や警察官は多数が死刑賛成である[35]という。

これは法学者の場合には死刑制度を法律学でどのように規定するかを研究すればいいが、検察官や刑事裁判担当の裁判官は公務員として職務のため死刑を求刑・判決しなければならないため、必然的に死刑反対派は少なくなる。死刑に反対することを理由に検察官を止めて弁護士になった元検事[36]、死刑判決をしたくないという理由で民事裁判のみを希望する裁判官[37]も存在する。無論、法学者のなかにも死刑制度を存置すべきだと主張する者も少なくなくその一方で死刑囚処遇を担当していた刑務官の中には死刑制度に疑問を呈している者も少なくない[38]

[編集] 死刑存置論者の国会議員の死刑制度に対する意見

日本の国会議員に死刑存置の立場の議連はないが、これは日本は制度として死刑制度が存置されており、現状維持すればいいため、あらたに運動すべき必要がないためである。なお、昭和時代に検討されていた改正刑法草案では死刑の適用される犯罪を現行刑法よりも狭めることになっていた。

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

[編集] 死刑廃止論者の国会議員の死刑制度に対する意見

日本の政党で死刑制度廃止を公言しているのは公明党だけである。その一方で死刑制度存置を強く主張する政治家は、検察官など法務官僚に一定の支持を得る必要がある現職の法務大臣以外は実はほとんどいないとの指摘がある。たとえば東京拘置所の処刑設備を見学した事のある国会議員の保坂展人が、インターネット放送局「ビデオニュース・ドットコム」で死刑制度に関するディベート番組が制作されたが、保坂は死刑廃止論者として出演したが、死刑存置派の国会議員を放送局で探したところ誰も出演しなかったため、仕方なしに刑法学者が出演したという。そのため保坂は死刑推進派といえる国会議員は実際には存在せず『小選挙区制になったことから、多くの人の支持を得る為には死刑廃止とはいえない、俗論におもむっているだけである。そのため(欧州諸国とは違い世論を政治家が変えようというリーダーシップがないので)日本はみんな横並び意識が働いている』と主張[39]しており、実際は死刑制度を存置するのは一般世論に迎合している政治家の不作為だとしている。

[編集] 日本の死刑囚に関する処遇

[編集] 法務大臣による死刑執行命令

日本において死刑執行を最終判断するのは刑事訴訟法475条の定めにより法務大臣が指定されている。また死刑判決確定後6ヶ月以内に執行されなければならないと刑訴法には規定されているが、まず守られることはない。これは法務省刑事局の局付検事による確認作業ともいえる「死刑執行起案書」の作成が必要であるためである。確定死刑囚について裁判に提出しなかった証拠記録を送付するよう命令したうえでを作成したうえで、まず検事長が法務大臣に死刑執行に関する上申書を提出したうえで、法務省刑事局が、最終的に法務大臣に上申する。この法手続きは司法権が下した生命を奪う刑罰を適用する判断を行政権が再度チェックするために設けられたものであるため「第4審」[40]とも呼ばれている。この時の手続きで法務官僚が死刑執行に問題ないと判断した死刑囚に対し法務大臣の執行命令書の署名を求める。この確認作業において官僚の裁量権のなかに主観的判断が介在するといわれている。そのうえ、法務大臣によっては死刑執行に対する思想の相違によって対応が異なってくる。中垣國男法務大臣のように在任中に33名の死刑執行命令を出したり、田中伊三次法務大臣のように記者の前で一度に23名の死刑執行命令書に署名するなど、死刑推進に熱心な大臣もいれば死刑執行命令に消極的な大臣も存在する。

実際に苦悶しながら署名する法務大臣も少なくなく、たとえば犬養健は死刑執行命令書への署名がきらいで、できるだけ回避したうえ、どうしても決裁しなければならなくなっても、即決せず三,四日は待たせたという[41]。その一方で、積極的な法務大臣も多く、犬飼の後任の加藤鐐五郎小原直は半年弱の間にドンドン死刑執行命令書の決裁した為、1954年当時未執行だった1948年と1949年ごろの死刑確定囚の大半が処刑され、32人が刑場の露となったという[42]。また死刑推進派であった中垣國男は死刑囚個人に支援団体が組織されていた藤本事件小松川事件の死刑囚を早急に処刑したほか、反対派に阻止されたが平沢貞通の処刑準備をした。

近年では、宮澤内閣で法務大臣を務めた田原隆のように「国民の多数が死刑を支持している」と述べ、自身は死刑執行命令を下すこともあり得るという考えを示したにもかかわらず、1年の在任期間の間に死刑執行しなかった(本人は法務官僚から死刑執行命令書の署名を求められなかったと弁明)大臣もいる。内閣総理大臣であった吉田茂も第2次吉田内閣発足時に1ヶ月法務総裁(後の法務大臣)を兼務していたが、1947年10月に官房長が死刑執行命令書に決裁を求めたところ、チラッと目を通しただけで「これは専任大臣ができてからにしてくれ」と署名を拒否している[43]。また自己の信念で死刑執行を拒否した法務大臣もいる。たとえば戦後の1964年1969年および1990年から1992年までは死刑執行が行われなかった。そのうち1964年は、当時の賀屋興宣法務大臣(在任1963年7月-1964年7月)が元A級戦犯であり、収容されていた巣鴨プリズンにおいて東條英機元首相らA級戦犯7名が絞首刑に処されるのを見送ったうえに最期の叫びも聞いたため心情的にできなかったという。後者の1969年は当時の赤間文三法務大臣が「勘弁してくれ。今度、俺にお迎えがきたらどうする」などと発言して署名を拒否した。

1990年代初期のモラトリアム(死刑執行一時停止)は長谷川信から梶山静六左藤恵、田原隆と歴代の法相に引き継がれた。特に自分が浄土真宗の住職であるという信仰上の信念から、死刑執行命令書に署名しなかった左藤恵(在任1990年12月-1991年11月)の例がある。しかし1993年3月26日に3人の死刑が執行され、このモラトリアムは終わった。当時の警察官僚出身の後藤田正晴が「秩序、国家の基本がゆらぐ」(国会答弁)として再開させた。これは死刑執行が途絶えることで事実上死刑制度が廃止になることを危惧した法務官僚の意向があったともいわれている。

近年では弁護士出身で真宗大谷派の信徒である杉浦正健法務大臣(在任2005年10月-2006年9月)が、就任直後の会見で「私の心や宗教観や哲学の問題として死刑執行書にはサインしない」と発言したものの、1時間後には記者会見を開いて撤回した。結局、杉浦法相は死刑執行することなく任期を終えたが、職務を執行しないのであれば法務大臣を受けるべきではないとの強い批判があり、以後の法務大臣任命に影響を与えた[44]

杉浦の後任である長勢甚遠は、2006年12月25日に4人の執行書にサインした。「執行を1年でも途絶えさせてはならない」という法務省の強い意向が、異例の年末の執行になったとされる[45]

[編集] 歴代法務大臣の死刑執行命令数

以下は歴代の法務大臣のうち、1980年以降の死刑執行命令数の一覧である。

歴代法務大臣名 就任年月日 所属 死刑執行者数
奥野誠亮 1980年7月17日 自由民主党 1
坂田道太 1981年11月30日 自由民主党 1
泰野章 1982年11月27日 参議院自由民主党 1
住栄作 1983年12月27日 自由民主党 1
嶋崎均 1984年11月1日 参議院自由民主党 2
鈴木省吾 1985年12月28日 参議院自由民主党 2
遠藤要 1986年7月22日 参議院自由民主党 2
林田悠紀夫 1987年11月6日 参議院自由民主党 2
長谷川峻 1988年12月27日 自由民主党 0
高辻正己 1988年12月30日 民間人(元最高裁判事) 0
谷川和穂 1989年6月3日 自由民主党 0
後藤正夫 1989年8月10日 参議院自由民主党 1
長谷川信 1990年2月28日 参議院自由民主党 0
梶山静六 1990年9月13日 自由民主党 0
左藤恵 1990年12月29日 自由民主党 0
田原隆 1991年11月5日 自由民主党 0
後藤田正晴 1992年12月12日 自由民主党 3
三ヶ月章 1993年8月9日 民間人(民事訴訟法学者) 4
永野茂門 1994年4月28日 参議院新生党 0
中井洽 1994年5月8日 民社党 0
前田勲男 1994年6月30日 参議院自由民主党 5
田沢智治 1995年8月8日 参議院自由民主党 0
宮澤弘 1995年10月9日 参議院自由民主党 3
長尾立子 1996年1月11日 民間人[46](元厚生省官僚) 3
松浦功 1996年11月7日 参議院自由民主党 7
下稲葉耕吉 1997年9月11日 参議院自由民主党 3
中村正三郎 1998年7月30日 自由民主党 3
陣内孝雄 1999年3月8日 参議院自由民主党 3
臼井日出男 1999年10月5日 自由民主党 2
保岡興治 2000年7月4日 自由民主党 3
高村正彦 2000年12月5日 自由民主党 0
森山眞弓 2001年4月26日 自由民主党 5
野沢太三 2003年9月22日 参議院自由民主党 2
南野知惠子 2004年9月27日  参議院自由民主党  1
杉浦正健 2005年10月31日 自由民主党 0
長勢甚遠 2006年9月26日 自由民主党 10
鳩山邦夫 2007年8月27日 自由民主党 13
保岡興治(再任) 2008年8月2日 自由民主党 3
森英介 2008年9月24日 自由民主党 9
千葉景子 2009年9月16日 参議院民主党 -

[編集] 死刑囚収容施設ごとの年別死刑執行の一覧(1993年以降)
札幌 仙台 東京 名古屋 大阪 広島 福岡 累計
1993年 1 1 1 0 4 0 0 7
1994年 0 1 1 0 0 0 0 2
1995年 0 0 3 1 1 0 1 6
1996年 0 0 4 0 0 0 2 6
1997年 2 0 2 0 0 0 0 4
1998年 0 0 1 2 0 1 2 6
1999年 0 1 1 1 0 0 2 5
2000年 0 0 0 2 0 0 1 3
2001年 0 0 1 1 0 0 0 2
2002年 0 0 0 1 0 0 1 2
2003年 0 0 0 0 1 0 0 1
2004年 0 0 0 0 1 0 1 2
2005年 0 0 0 0 1 0 0 1
2006年 0 0 2 0 1 1 0 4
2007年 0 0 5 1 2 0 1 9
2008年 0 1 7 0 5 0 2 15
2009年 0+ 0+ 2+ 2+ 2+ 0+ 1+ 4+
1993年以降計 3+ 4+ 30+ 11+ 18+ 2+ 14+ 82+

[編集] 日本における未執行死刑囚の一覧

[編集] 近年の死刑執行者一覧

[編集] 冤罪の疑いがある死刑囚に対する処遇

日本も含む世界各国において死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして誤判の可能性、冤罪による死刑執行の可能性が指摘される。冤罪で刑を執行された場合、財産刑による被害は回復可能であるが、生命刑である死刑も、身体刑である身体の損壊も、自由刑である懲役や禁固も、生命や損壊された身体や自由を剥奪され収監された時間や経済的損失は変わりない。しかし、冤罪で身体刑や自由刑を執行された場合は、冤罪の被害を受けた人が存命中に代替手段による被害賠償や名誉回復をすることが可能であるが、冤罪で死刑を執行した場合は、冤罪の被害を受けた人は存命中に代替手段による被害賠償や名誉回復をすることが不可能であることが、身体刑や自由刑と比較して絶対的な差異である。

日本においても、死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして、冤罪による死刑執行の可能性が指摘される。1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後も、冤罪または冤罪の可能性が高い死刑確定判決と死刑囚が存在した。死刑判決が確定し死刑囚になったが、冤罪の可能性が高いと判断されて執行されずに再審で無罪になった(免田事件松山事件島田事件財田川事件)、死刑判決を受けたが冤罪の可能性が高いと判断されて執行されずに天寿を全うした帝銀事件三鷹事件牟礼事件波崎事件三崎事件、死刑判決を受けたが冤罪の可能性が高いと判断されて執行されていない名張毒ぶどう酒事件袴田事件川端町事件の事例がある。また藤本事件では死刑執行から40年以上経過した2005年になって国の検証会議が「到底、憲法の要求を満たした裁判であったとはいえまい」として不正裁判による誤判であったと指摘している[47]。2009年現在では、法務省は冤罪の疑いがあり再審請求中の死刑囚については、死刑の執行は法務大臣の決裁が必要であること、および、冤罪で死刑を執行した場合は無期刑や有期刑を執行した場合と比較して、非難が大きいので、死刑囚が再審で無罪判決を受けるか、または、死刑囚が天寿を全うして死ぬまで執行しない運用をしている[48]

[編集] 死刑制度をめぐる問題及び論争

詳細は「死刑存廃問題」を参照

[編集] 秘密主義

日本の法務省は刑務所などの刑事施設や刑罰の執行状況などの情報をなるべく公開していない。とりわけ死刑執行に関しては秘密主義(行刑密行主義)が貫かれてきた。特に死刑執行のに関しては、日本弁護士連合会がこの秘密主義を非難する声明を出し続けている。特に2006年末の執行では、欧州連合から死刑囚に執行の告知がないことが人権上問題があると強く批判された。また近年の死刑囚の待遇は面会交渉権を著しく制限するなど昭和時代中期と比較しても待遇が悪化しており、死に対する恐怖だけでなく拘禁作用によって精神に異常をきたす死刑囚が存在しており、いくら凶悪な犯罪者とはいっても人道とはかかわりがないということは問題ではないだろうかとの指摘[49]もあるが、死刑囚の待遇は公式には伝えられることはない。

日本では、2007年まで法務当局が処刑の事実(執行者の氏名等)を公式に発表することがなく、死刑囚に対し処刑の日の朝まで告知しない秘密主義をとっている。このことに対する国際的批判も根強い。この方針に対し法務省は、事前に死刑執行日が判ると、本人の心情の安定が害されるほか、死刑執行反対の抗議行動[50]が起きる問題があるからだという[51]。ただし1970年代ごろまでは、一部の刑務所で死刑執行を前日に対象者に告知する事も行われていたようである。しかし1975年に福岡拘置所で死刑執行直前の死刑囚がカミソリ自殺する事件があったため[52]、拘置所の責任を回避するため現在では死刑執行を知らせないのは死刑囚の精神の安定のための措置と主張される場合もある。しかし、毎朝いつくるか判らない死刑執行通達におびえた上に、そしてある朝突然に(朝食の後の午前9時だという[53])死刑執行を告げ、家族や弁護人とも最期の別れをさせずに死刑を執行する慣習に対して、死刑賛成派でも日本の死刑執行の秘密主義に対しては批判的な見解も多い。

反対派は日本における最近の死刑執行は、ほぼ例外なく、国会閉会直後、年末[54]、閣僚の交代時期、重大ニュースの発生時期[55]など国民の関心が分散しやすい時期に、政府側が意図的に死刑の存廃が議論となることを避けて執行していると主張する。ただし近年は国会の開催中であっても、法務当局が『国民の死刑存置支持率』が高いとして死刑執行が行われるようになっている[56]。実際に、2007年から2008年の鳩山法相による死刑執行は全て国会開催中の平日であった。

賛成派は死刑執行の手順上、法務大臣の辞任直前に執行書に署名が行われることは手続き上の結果であり、死刑執行日の多くが木曜日ないし金曜日に行われるのは、刑場の準備に時間がかかるためであると主張している。実際に死刑執行命令書が法務大臣から通達されるのは処刑5日前(例外もあるとみられる)とされ、その間に処刑設備の調整に時間が掛かるためである。なお法律上は元旦大晦日、大祭祝日は死刑の執行は行えないと規定されているほか、土曜日日曜日の執行も以前から行われていない。

司法当局は以前は『死刑囚の家族の心情に配慮する』ためとして、死刑執行の事実を公式に認めなかったため、白書による総数のみの発表であり、かつては報道機関が情報を摑めなかった為に死刑囚の命日すら不明のケースもあった。この秘密主義を改善するとして、1998年には当時の中村正三郎法務大臣が『死刑の執行は裁判所の判決に基づいて法務省が行う行政行為だ。行政の情報公開を進める為にも、また、死刑制度を正しく議論する為にも、死刑の執行の有無については国民に知らせるべきだ』と延べ、同年11月以降はマスメディアに対し「本日、死刑確定者に対し死刑を執行した」と事実が公開(実名は公表されないが報道機関の取材で判明する)された。以後死刑執行の部分公表が慣例化された。

特に死刑執行に熱心だった長勢甚遠法務大臣は、2007年8月には「国会閉幕中」「内閣改造前」「首相外遊中」という死刑反対派が指摘する執行条件が揃っていたため3名の死刑が執行された。また長勢は周囲に「任期中二桁を執行する」と漏らしており、法務省も「執行を増やすことが大切」という状況[57]だったといわれ、実際に任期1年未満で10人の死刑執行命令書に署名した事になり、その意味では公約は果たしていたといえる。次の鳩山邦夫法務大臣が2007年12月から誰に死刑を執行したかを実名で明らかにする事をはじめ、2008年2月には法務大臣自身の記者会見で死刑囚の罪を批判すると共に実名を公表したが、死刑囚に事前に死刑執行を伝えないことに対する批判についての改善が行われているかは不明である。

[編集] 高齢死刑囚の処刑

日本では死刑を求刑出来る最低年齢は犯行時18歳とされているが、最高年齢については明文化はされていない。ただし、死刑は健康を害していない死刑囚のみに執行されると刑事訴訟法に規定されているため、高齢を要因として健康を害した死刑囚には死刑が執行されないのではないかとの指摘があった。実際に80歳以上で獄死した死刑囚も少なくはない。

一方で、懲役刑受刑者の場合、刑事訴訟法482条は「自由刑の裁量的執行停止」が定められており、検察官の指揮によって刑の執行停止をできる事由が列挙されているが2号で「年齢70年以上であるとき」とあり、70歳以上の場合、刑の執行停止もありうると解釈されているが、日本では高齢を事由に死刑囚の恩赦ないし死刑執行猶予が決定されたことはない。実際に2001年に名張毒ぶどう酒事件の死刑囚が75歳の時に胃がんになって手術したときも刑の執行停止は行われていない。

死刑の言い渡しであるが、一審であるが79歳の男に死刑判決が出されたことがある。これは1989年に発生した熊谷市で発生した養鶏場殺人事件の実行犯に対するものである。保険金目当ての首謀者からの依頼で放火したものであるが、13年後に事件の真相が判明し逮捕されたが、実行犯が殺人罪で懲役20年で服役し仮出所中の犯行であったため死刑が言い渡されたものである。ただし2006年に首謀者が無期懲役なのに死刑というのは均衡失するうえに83歳と高齢であるとして無期懲役に減刑されている[58]

高齢の死刑囚としては、帝銀事件の平沢貞通がいる。逮捕時56歳で死刑が確定したのは63歳の時であったが、冤罪の可能性が強く指摘された事件であり、死刑執行が諸般の事情で延ばされていた。実際に死刑の執行が法務大臣の決裁直前までいった事が複数あり、最後に死刑執行が上申されたのは平沢82歳の1974年11月であったという。ただし当時の浜野清吾が決裁を渋ったことで見送られたという[59]。その後は平沢の死刑執行の可能性はなくなったといえ、1978年7月に当時の瀬戸山三男法務大臣は「86歳になっている人をいまさら(執行に)ひきだすのは大変なことだ」と消極的な姿勢をしめしており[60]、平沢が獄死する日を待っていたといえる。

戦後、最高齢での執行は生涯で10人を殺害した古谷惣吉の70歳(1985年5月31日執行)であったが、2006年12月に77歳(秋山兄弟事件の死刑囚)と75歳の死刑囚が死刑を執行された。このケースの75歳の死刑囚は遺言で身体の衰えによって立つこともままならない状態であったと述べている[61]。彼は車椅子を日常使っていたことから、刑場に車椅子で連れていかれたといわれているが、実際はどのようであったかは不明である。2007年12月にも73歳の死刑囚の死刑が執行された。

今後は死刑確定から年数が経過している高齢死刑囚の執行が増える事が指摘されている。前述の平沢の例では82歳で死刑決裁が行われた前例があるためである。最高裁は2004年11月19日に当時77歳の女性(保険金殺人)に死刑判決を下しているため、世界史上稀な80歳代で死刑が執行される可能性[62]もあるといえる。

[編集] 国外逃亡犯と死刑

日本で犯罪を犯した外国人犯罪者が死刑廃止国へ逃亡した場合、日本が死刑存置国であることを理由に犯罪者の引渡しが拒否される場合もある。

東京で日本人女性を殺害し海外逃亡したイラン人が死刑廃止国のスウェーデンで拘束された事例[63]では、両国間で犯罪人引渡し条約がないため、スウェーデンの国内法を根拠に日本側が任意の引渡しを要請した。しかし1994年に同国政府は死刑にしない保証をしないかぎり応じないとされた。この事件は判例に準拠すれば死刑になる可能性が少ないケースであったが、裁判を行う前に死刑にならないことを100%確実に保証することは日本政府として不可能であったため、結局引き渡されず、スウェーデンにおいて代理処罰され、1995年に禁固10年の判決を受けたという。

また、死刑存置国によって死刑の適用について差異があることも少なくないが、福岡一家4人殺害事件2003年)では犯人の中国人3人のうち2人が母国の中国に逃亡し1人が日本で逮捕され、日本では死刑を宣告され現在上告中であるが、中国で拘束された2人については死刑と無期懲役に別れ、しかも死刑は執行されている。この判決が分かれた点について日本では一部に政治的判断があったのではないかとの憶測もあるが、同じ死刑適用事件であっても国家間の運用に差が生じているといえる。同様な事件の多摩市パチンコ店強盗殺人事件1992年)では、犯人の中国人3人のうち2人は死刑が確定しているが、主犯格は現在も逃亡中であり、中国で身柄が拘束された場合死刑になる可能性が高いが、もし前述のように死刑廃止国で拘束された場合、どのような刑罰になるかは予測が付かないといえる。

現在のところ、日本と逃亡犯罪者引渡し条約があるのはアメリカと韓国だけであるが、今後国際犯罪が増える場合、カナダのように死刑適用の可能性のある犯罪者の引渡しの拒否を明言している国に逃亡した場合、捜査の障害になる危惧もある。

[編集] 死刑執行の増大

前述のように、1946~1957年、1959~1960年、1962~1963年、1967、1969~1971年、1975~1976年は10以上人に死刑を執行していたが、1977~1989年は1~4人、1990~1992年は0人、2000~2006年は1~4人だったが、2007年は9人、2008年は15人が執行され、著しく増加した。死刑の執行は法務大臣が最終決裁するが、1980年7月以後に就任した現職以外の歴代法務大臣39人中で死刑を執行しなかった法務大臣は12人存在し、1949年に現行の刑事訴訟法が施行されて以後で死刑の執行がなかった年度は5年存在するので、2007~2008年の執行増加が長期的に継続するとは予測できない。アメリカ合衆国は1984~2008年の期間に最少11人~最多98人の範囲で死刑を執行しているので、日本は先進国・民主政治国ではアメリカ合衆国に次いで死刑執行が多い。

この鳩山法相の死刑執行増大方針に対し、朝日新聞は6月18日夕刊付「素粒子」欄で「永世死刑執行人 鳩山法相」「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」と揶揄した。これに対し鳩山は「人の命を絶つという極刑を実施するのだから、心境は穏やかではない。しかしどんなにつらくても社会正義のためにやらざるを得ない。宮崎勤死刑囚らにも人権人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だ」と朝日新聞に強く抗議し、「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。これに関して朝日新聞には「法相は職務を全うしているだけ」「死に神とはふざけすぎ」など、多くの抗議が寄せられ、朝日新聞は「法相の名誉を中傷する意図はなかった」」「表現の方法や技量をもっと磨かねば」と弁明[64][65]している。

また犯罪被害者感情のために死刑制度存置を主張する全国犯罪被害者の会も「一日も早い死刑執行を待ち望んできた被害者遺族も死に神ということになり、(報道によって)今回ほど侮辱的で、感情を逆なでされる苦痛を受けたのは初めて」とする抗議文と公開質問を朝日新聞社に送った[66]という。なお1ヶ月後に全国犯罪被害者の会は不適切な表現であり死刑執行数が多い事を批判したものではなかったとの朝日側の謝罪を受け入れた[67]が、鳩山は退任前の会見で「サイバンインコ[68]は留任、死に神は辞任」という発言をしており、なおも不快感をしめしていたという[69]

なお、鳩山法相が死刑執行にゴーサインを出した13人であるが(近年の死刑執行者一覧を参照のこと)、21世紀(すなわち最近8年間)に入って死刑判決が確定したものが10人含まれており、判決確定から執行までの平均年数を押し下げている。その一方で確定10年以上が経過し、冤罪として再審請願をしていない死刑囚も数多く残されており(未執行死刑囚一覧を参照のこと)、執行命令を次にどの死刑囚に出すかについての基準に不明な点もある。この死刑頁執行の順番が確定順ではなく近年ランダムになってきており、2002年9月には当時の死刑囚56人のうち、確定順位36番目と37番目(いずれも1998年確定)の者に死刑が執行されたほか、2004年には確定1年未満の宅間守が処刑された。

これについて、以下のような指摘[70]がある。近年、厳罰化にともない死刑判決が激増し、死刑囚の増大に執行が追いつけなくなっている。そのため死刑囚が100人を超える状況が続いているが、法的に再審や恩赦を求めている死刑囚を処刑することは可能(過去には再審請願中に処刑したケースもあった。また宮崎勤死刑囚は再審請求を準備しており、その旨を弁護人から法務省に伝えてあった)であるが現在では再審請求中の死刑囚に対し執行される可能性は少ない。そのため現実に古くから確定している死刑囚はこれらの事情があるため、事実上死刑執行が「ブロック」されている。よって確定から年数がたっていなくても「やりやすいところからどんどん執行する」方針だという。

実際に2008年上半期に処刑された死刑囚10人のうち9人までが2004年以後に死刑が確定したものであった。ただし2008年には1~3ヶ月ごとに毎回2~4人に死刑が執行されたが、2009年1月29日に4人が執行された後は、同年7月28日までのおよそ半年間、執行がなかった。これについては、裁判員制度の導入を控えた時期であった可能性もあるが、2007年以降続いていた大量死刑執行をなぜ取りやめた理由は一切発表されていない。しかしながら2008年に死刑が執行された飯塚事件の元死刑囚に対し、同様のDNA鑑定で有罪が確定した足利事件の受刑者と真犯人のDNAが、最新の技術で再鑑定した結果、実際に一致しなかったことが2009年に判明しており、飯塚事件における死刑既執行者の冤罪が疑われている。実際に飯塚事件では第三者による「ミトコンドリアDNA」による鑑定で一致しないとする指摘があったにもかかわらず、麻生太郎内閣森英介法務大臣が、疑わしい死刑判決確定から2年2ヶ月弱で決裁したことに疑念が指摘されており、法務当局が死刑執行に躊躇している可能性もある。また2009年9月に発足した鳩山由紀夫内閣では死刑廃止を推進する議員連盟に所属している千葉景子[71]が法務大臣に就任したが、就任での記者会見では死刑の執行命令について「慎重に検討する」と、執行モラトリアムにするとも執行は行うとも言及はしなかったが、安倍内以降の前任者とは異なり死刑執行に慎重な態度を表明している。

[編集] 裁判員制度と死刑

2009年に始まる裁判員制度により、死刑判決の可能性のある事案を国民が裁判官とともに審理することになる。そのため死刑廃止に向けた活動を行っている団体などから、国民の間で死刑制度の存廃について議論がより深く広がることが期待されている。ただ、裁判員法第18条の規定[72]にもとづき、死刑の適用が問題となる事件においては死刑を前提とした量刑の判断について質問(具体的には死刑に対する考え方などにも)を行い、不公平な裁判をするおそれの有無を判断すると規定されたこと[73]から、一方的な裁判員選定が行われる可能性がある。実際にアメリカでは陪審員の選考に際し検察・弁護側双方が恣意的な選定を行っていることが問題になっている。

日本の裁判員制度では、裁判員として参加する国民が有罪か無罪かとともに量刑を多数決(9人中5人以上)で決定[74]。そのため、場合によっては国民が同じ国民に対して死刑を宣告する形式となる。そのため日本ように国民が裁判官として参加する参審制(陪審制は無罪か有罪かを判断するもので、通常は量刑までを決定しない)を採用する国で死刑を宣告できるのは世界唯一(ほかの参審制導入国は欧州諸国の死刑廃止国のみ、死刑制度存置国では韓国で2008年に裁判員制度が始まったが死刑は凍結中)である。2審では従来どおりの職業裁判官による公判が行われるが、裁判が1審で確定した場合、一般国民が死刑を宣告したことになる。そのため一般国民が場合によっては「人殺し」になる危険性があり、死刑制度を廃止した上でなければ裁判員制度を導入すべきではないとの指摘が死刑廃止論者側[75]から提示されている。

[編集] 死刑と終身刑の導入

終身刑には、仮釈放の可能性がある「相対的終身刑」と仮釈放の可能性がない「絶対的終身刑」が存在する。無期刑は終身刑と別名の同義語であり、刑期の無期・有期の質と、刑の執行の減免処遇の一つである仮釈放の有無は別の独立した要素である。司法の専門家はそのことを知っているが、日本では多くのマスメディアの報道が、終身刑は仮釈放の可能性が無く、無期刑は仮釈放の可能性が有り、終身刑と無期刑は異なる刑であると誤った解釈を流布しているので、情報の真偽やバランスを検証しない一般の人間は、前記の間違った解釈により、仮釈放の可能性が無い終身刑だけを終身刑と認識し、誤った解釈が標準になっている。そのため、諸外国における終身刑の多くが仮釈放の可能性がある相対的終身刑(日本の無期懲役に相当)であるにもかかわらず、それらを絶対的終身刑と誤解している[76]

無期刑は仮釈放が刑自体の満了とはならない(原則として終生保護観察下に置かれる)ため、他国の終身刑と比べて日本では比較的重い運用が行われているとする認識もある。そのため無期懲役が事実上は仮釈放の可能性が無い終身刑に近い制度になっている現状がある。また死刑存置派が主張する「死刑が廃止されると凶悪犯罪者を放置することになり」との主張もあるが、死刑を免れ無期懲役になった犯罪者も再犯の危険度があれば収監されているといえるため、個々の犯罪者の処遇について充分考慮すればよいといえる。また裁判員制度の導入を契機に日本でも仮釈放を認めない終身刑の導入を、死刑制度の存置、廃止の双方の立場の国会議員が検討している。

日本の死刑廃止を主張する国会議員は、積極的支持と消極的支持を合わせると日本国民の大部分が死刑制度支持を支持している現状では、今すぐに死刑を廃止することは難しいと考えて、「日本版終身刑」である絶対的終身刑の導入を主張[77]している。この終身刑に対し、法務省や2008年8月に法務大臣に就任した保岡興治は死刑制度は存置を主張する一方、「人を牢獄に一生縛り付ける刑罰は残酷である」、「生きる希望のない収監者を生み出すだけである」として、そのような「厳罰化」は受け入れないと反対を表明している[78]

2008年3月に死刑廃止を推進する議員連盟が、裁判員による死刑適用について「死刑という重い判断はより慎重に決定されるべきだ」として全員一致を条件とする裁判員法改正案を作成した。この法案は2009年から施行される裁判員制度では原則多数決で量刑が決定するが、死刑判決だけは全員の賛同を必要とし、もし反対者がいれば仮釈放のない終身刑に自動的に可決するというものである[79]。なお、アメリカ合衆国の陪審員制度も全員一致が評決の条件となっている場合が多い。2008年5月には仮釈放される可能性のある無期懲役の存在を問題視する死刑存置派の国会議員と共同で、前述の裁判員制度改正案と仮釈放を認めない懲役刑の新設を盛り込んだ刑法改正法案「重無期刑の創設及び死刑制度調査会の設置等に関する法律案」の国会提出を目ざした。この法案は死刑を廃止した場合に導入する最も重い刑として導入しようとする死刑廃止派と、死刑と現行の無期懲役との間に少なからずギャップがあるという点を問題視する死刑存置派の、双方のコンセンサスが得られた為といえる。ただし、その法案を国会に提出しても可決され成立する見込みが無いので、現実にはその法案は国会に提出されなかった。

死刑存置派の一部には「無期懲役の場合には仮釈放される可能性があり、一生涯牢獄に繋がれるわけではない」との主張があるが、懲役刑の執行を法律上管理し仮釈放の運用にあたり意見を述べる立場にある検察庁は「悪質事件の無期懲役案件」に関して、仮釈放の申請がなされた場合であっても同意しない旨の運用をするための通達(いわゆる「マル特無期」))[80]があるため、現実に日本では終身刑が既に行われているとの報道があった[81]

2009年現在の日本では「仮釈放の可能性が無い終身刑はなく、無期刑は10年を経過すれば仮釈放を許可することが可能」であり、1990年代後半以後の無期受刑者の処遇について法務省が公開している資料を検証しない人々の中には「無期受刑者は服役して10年経過すれば仮釈放になる事例が多いので死刑との差が著しい」という、1990年代後半以後の無期受刑者に対する処遇についての事実に反する認識もしている人も多数存在する。

現実には、1999~2008年に、新規に服役を開始した無期受刑者は894人、再仮釈放も含めて仮釈放された無期受刑者は91人、新規仮釈放者は68人、受刑中に死亡した無期受刑者は121人、新規仮釈放者の平均収監期間が最も短かった2000年は21年2か月、新規仮釈放者の平均収監期間が最も長かった2007年は31年10か月、新規仮釈放者の平均収監期間は長期化する傾向であり、1998年は20年10か月だったが、2008年は28年10か月だった[82][83]。1990年代後半以後は、無期刑が確定して無期受刑者になる人数と比較して仮釈放を許可される無期受刑者は著しく少数で、収監中の無期受刑者は1998年末時点の968人から2008年末時点は1711人に増加している[82][83]。2008年末の時点の無期懲役受刑者のうち、収監期間が50年以上が6人、40年以上50年未満は18人、30年以上40年未満は58人、20年以上30年未満は319人、10年以上20年未満は347人、10年未満は965人である[82]

法務省は2009年4月1日から、全ての無期刑受刑者に対して、服役開始から30年経過した時点で仮釈放を許可するかしないか必ず審理し、30年経過の時点で仮釈放を許可されなかった場合も、その後10年経過するごと(服役開始から40年・50年・60年経過した時点)に仮釈放を許可するかしないか必ず審理するように、無期受刑者の仮釈放の審理の運用を根本的に改変した。改変する理由は、無期刑受刑者の仮釈放の厳格化(収監期間の長期化)でも緩和化(収監期間の短期化)でもなく、国民が刑事裁判に参加し量刑を判断する裁判員制度が始まるので、社会の構成員に分かりやすい運用を実現するためである。更生保護法では、全国8か所にある地方更生保護委員会は、独自の判断で個々の受刑者の仮釈放を審理できるが、2009年3月31日以前では受刑者の仮釈放の審理の運用は、受刑者を収容する刑務所からの仮釈放の審理の申請により審理の対象にしていたのが現実であり、仮釈放の審理の運用の基準が不明確・不透明との批判もあったので、受刑者を収容する刑務所からの仮釈放の審理の申請と併用して、服役開始から30年経過時とその後10年経過時ごとに全ての無期受刑者に必ず仮釈放の審理をする運用に改変した[84]。2009年4月1日時点で服役開始から30年以上経過している受刑者はその時点で仮釈放の審理の対象になる。

[編集] 海賊の死刑

2009年6月19日に成立した海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律には最高刑で死刑があるため、 他の死刑存続国ですら死刑が適用される法律が減少する中で日本は死刑が適用される法律が増えた希有な国となった。 海賊に対する裁判には非常に複雑な国際問題を孕んでおり(その船舶の国籍や犯行があった時に当該船舶が航海していた場所によって、裁判権を持つ国が変化する問題)、日本の船舶上で海賊による殺人が発生した場合には裁判が国際問題にまで発展する可能性がある。

[編集] 執行方法の妥当性

現在、絞首刑は、首にロープをかけて死刑を執行される者(以下「受刑者」)を落下させ、空中に吊り下げる方式でほとんどが行われ、わが国も明治6年(1873年)以来、この方法を採用している。ところが、この方式の絞首刑では、落下直後に受刑者の首が切断されたり、またはそれに近い状態まで切断される例が世界各国で報告されている。

【米国】

  • △エリザベス・ポッツ(Elizabeth Potts) 1890年6月20日 ネヴァダ州エルコ[85]
  • エヴァ・デュガン(Eva Dugan) 1930年2月20日 アリゾナ州フェニックス[86]
  • △メージャー・リゼンバー(Major Lisemba) 1942年5月1日カリフォルニア州サンクェンティン[87]
  • △グラント・リオ(Grant Rio) 1951年12月 ワシントン州ワラワラ[88]

【英国】

  • モーゼス・シュリンプトン(Moses Shrimpton) 1885年5月25日 ウスターシャー[89]
  • ロバート・グッダル(Robert Goodale) 1885年11月30日 ノーリッジ[90]
  • ジョン・コンウエイ(John Conway) 1891年8月20日 リバプール[91]

【カナダ】

  • トマシーナ・サラオ(Thomasina Sarao) 1935年3月28日 モントリオール[92]
  • △アーサー・ルーカス(Arthur Lucas) 1962年2月11日 トロント[93]

【オーストラリア】

  • トーマス・ムーア(Thomas Moore) 1897年6月24日 ニューサウスウェールズ州ダボー[94]
  • ジェームズ・ワートン(James Warton) 1905年7月17日クイーンズランド州ブリスベーン[95]
  • チャールズ・オジャーズ(Charles Odgers) 1914年1月14日 西オーストラリア州フリーマントル[96]

△は切断寸前だが完全に切り離されるには至っていない例。単に傷が付いた例ではない。

このように、首が切断あるいは切断に近い状態になるケースがあるということは、英国では1953年に提出された議会への報告書[97]の中で取り上げられた。最近でも、2007年1月15日イラクバクダッドで処刑されたサダム・フセインの異父弟バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ氏(バルザーン・イブラーヒーム・ハサン)の例があり、首がちぎれて血だまりができた様子を撮ったビデオが一部の報道関係者に公開されている[98]

通常、絞首刑では、ロープが伸び切った瞬間に受刑者の首を作用点として頭と胴体とを上下に引っ張る力がかかる。体重が重く落下距離が長いほど、受刑者の首にかかる力は大きくなる。この力が弱ければすぐに死亡することはなく、受刑者は数分もしくはそれ以上の時間をかけて窒息死することになる。逆に、首への衝撃がある程度強ければ、頸椎の骨折、脊髄の切断、及び首の動脈の損傷などが原因でごく短時間のうちに意識を失うものと考えられている。但し、この場合でも、落下の瞬間から心停止まではやはり数分以上の時間を要する。受刑者を落下させる目的はここにある。この首にかかる力が、首全体が耐えうる限界を超えた場合に、引きちぎられて首の切断が起きる。(法医学者の研究によると、どのくらいの力が加わると首が切断されるかまで判明している[99]。)

このため、絞首刑を採用している国・軍隊では、執行方法を調整して首の切断を防止しようと努めてきている。その一例として、絞首刑を採用していた当時の英国や米陸軍では、首にかかる力を制限するために、受刑者の体重に応じた落下距離を定めて、落下表(drop table)公式ドロップテーブルを作成していた[100]。英国は死刑そのものを廃止し米陸軍も今では絞首刑を採用していないが、この落下表は現在でも絞首刑を採用している国などで採用されている[101]

一方、わが国の絞首刑では、受刑者の首の切断を防止するための規程をおいた法律は存在せず、同趣旨の通達や命令の存在も明らかになっていない。落下表の使用はおろか存在すらも不明である。執行方法に各国間で特段の差はないのであるから、わが国の絞首刑でも受刑者の首の切断は起こり得ると言える。

実際に死刑執行の際に首が切断されるようなことがあれば、憲法第36条(残虐な刑罰の禁止)に違反した執行であると解釈される可能性が高いが、現在のところ死刑は合憲であるとの最高裁判決がある。

また、憲法第31条は、法律の定める手続によらなければ生命を奪われないこと(適正手続の保証)を定めている。まず首が切断されるような死刑は刑法第11条の定める「絞首」ではありえない。つまり、法律の定めていない執行方法を用いた死刑と言える。次に首が切断されれば、法律の定める「絞首」ではありえなりから、それを防ぐための規定は(それが本当に首の切断を防ぐことができるかどうかは別の話だが)、死刑の執行方法の種類を特定するために法律に明記されるべき内容(法律事項)である。ところが、わが国の法律には規定されていない。最後に最高裁の判例[102]によって現在も有効であるとされている明治6年太政官布告65号は、受刑者を「地ヲ離ル凡一尺」まで落下させるように定めている。現在の刑事施設は刑場の床が開いて受刑者が落下する構造になっており、例えば東京拘置所では刑場の床から下の階の床まで約4mあるとされている[103]ことから、受刑者は約3.7m落下することになる。前述のティクリティ氏(体重80㎏足らず)の例などでは、2.4m程度の落下で首の切断が起こることからすると、わが国の死刑に関する規定をそのまま実行すると絞首刑のさいに受刑者の首が切断されてしまいかねない。つまり定められた手続の中に適正でない内容があるのがわかる。

現実には、前述太政官布告の施行以来、執行において首の切断事故は報告されておらず、また、行刑密行主義によって個別の執行の実際も明らかにされることはなく、本節の問題が行刑上の具体的議論となってはいない。

[編集] 参考文献

  • 重松一義『死刑制度必要論』(信山社)
  • 植松正著・日髙義博補訂『新刑法教室I総論』(成文堂)
  • 板倉宏『「人権」を問う』(音羽出版)
  • 植松正「死刑廃止論の感傷を嫌う」法律のひろば43巻8号〔1990年〕
  • 井上薫『死刑の理由』(新潮文庫) 永山事件以、死刑確定した43件の犯罪事実と量刑理由について記されたもの。
  • 竹内靖雄『法と正義の経済学』(新潮社)
  • 坂本敏夫『元刑務官が明かす 死刑はいかに執行されるか―実録 死刑囚の処遇から処刑まで』 日本文芸社
  • 坂本敏夫『死刑のすべて―元刑務官が明かす』文春文庫
  • 郷田マモラ『マンガで見る日本の死刑執行』

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ ただし、3人以上殺害して心身喪失で無期懲役などに減刑されて死刑を逃れた事例や、一家心中を意図して家族全員を殺害して一人のみ生き残った場合であっても死刑にならなかった事例があることも事実である。
  2. ^ 三島女子短大生焼殺事件の被告は強盗致傷罪で服役後の仮釈放から約9ヵ月の犯行、奈良小1女児殺害事件の被告は性犯罪の前科があり被告本人が自ら控訴を取り下げた、長崎市長射殺事件の被告は殺人未遂など服役前科6犯を含む前科9犯などの犯罪歴がある。
  3. ^ 闇サイト殺人 2被告に死刑、1人に無期判決 名古屋地裁」毎日新聞、2009年3月18日
  4. ^ 法務省>犯罪白書>平成20年版>第2編 犯罪者の処遇>第3章>第1節 終局裁判>1裁判確定人員 [1]
  5. ^ 別冊宝島「日本タブー事件史3」26頁
  6. ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」10頁
  7. ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」101頁
  8. ^ 佐賀潜「刑法入門」
  9. ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」74頁
  10. ^ 「河合修治訳『殺人紳士録』中央アート出版」に、イギリスで1884年に死刑囚が、絞首台の落とし戸が湿気のために膨張し、重量がかかると戸が開かなくなったため、3度も開かず停止されたという事例が紹介されている。結局、彼は減刑され22年後に出所し、結婚しアメリカに渡り1933年に病死したとされる。
  11. ^ 合田士郎「そして、死刑は執行された」
  12. ^ ただし官報には、明治19年10月5日付第980号44頁にはじまり昭和21年3月13日付第5747号102頁のものにいたるまで、死刑が執行されるとその都度、被執行者の住所、氏名、罪名、最終事実審言渡または確定の年月日および裁判所名(台湾、関東庁を含む。朝鮮は『朝鮮総督府官報』に掲載)を含めた死刑執行の事実が「官庁事項」あるいは「彙報」欄の司法の項に掲載されていた。また「官報目録」には明治20年1月より大正8年3月まで死刑執行も掲載されていた。死刑執行の官報への登載が行われなくなった経緯については『大蔵省印刷局百年史・第3巻』(大蔵省印刷局, 1974年)609〜613頁を参照。
  13. ^ ユーザーの質問に専門記者が答えるウェブサイト回答する記者団」の運営者である佐藤裕一の請求に応じ、幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤元死刑囚らに対する死刑執行命令書を全面開示した(出典:「死刑命令書を全面開示 宮崎元死刑囚「執行せよ」」2009年3月13日付産経ニュース)。
  14. ^ 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、312頁
  15. ^ 判決の要旨は以下の通り(最(大)判昭和23年(1948年)3月12日刑集2巻3号191頁)
    事件
    自分の母親と妹を殺害した罪で下級審において死刑判決を受けた被告人が、死刑は日本国憲法第36条によって禁じられている公務員による拷問や残虐刑の禁止に抵触しているとして上告
    判決
    • 上告を棄却(死刑確定)
    • 「死刑は合憲である」
    • 「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…日本国憲法第13条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している」で始まる。
    • 「死刑は残虐でない」としているが「ただ、死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有すると認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり・はりつけ・さらし首・釜茹でごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されるとするならば、その法律こそは、まさに日本国憲法第36条に違反するものというべきである」に違反するものというべきである」として、残虐な執行方法については違憲としている。
  16. ^ 別冊宝島「いのいよは何か?」2008年、31頁より引用
  17. ^ 第024回国会 法務委員会公聴会 第2号
  18. ^ 村野薫『戦後死刑囚列伝』宝島社125頁
  19. ^ 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、311頁
  20. ^ 佐久間哲、「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」、自由国民社、2005年
  21. ^ 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』宝島社 2007年
  22. ^ 朝日新聞2009年6月5日朝刊
  23. ^ [2]
  24. ^ 国連人権理が初の対日審査、12カ国が死刑制度廃止など求める 日経ネット 2008年5月17日閲覧
  25. ^ 「日本は死刑廃止検討を――国連人権委改めて勧告 慰安婦問題にも言及」『朝日新聞』2008年10月31日付夕刊、第3版、第2面。
  26. ^ CNN International Report: Death row inmates pushed to insanity in Japan
  27. ^ 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年 235~236頁
  28. ^ 「アメリカの刑事司法」有信堂高文社
  29. ^ たとえば2002年1月17日に宇都宮裁判所は連続強盗強姦事件の48歳の被告人を無期懲役判決を下している。強姦の被害者は3人で、従来なら有期刑の可能性もある事例であった
  30. ^死刑宣告、過去最多45人 世論が厳罰化後押し産経新聞2006年12月30日。
  31. ^ 『毎日新聞』2009年3月16日号夕刊名古屋版 曲がり角で:18日・闇サイト殺人判決/下 被告の父も「極刑妥当」
  32. ^ 日本と同じ裁判員制度を導入している韓国も死刑存置国であるが、死刑が10年以上凍結されている
  33. ^ たとえば1989年は『最近凶悪事件が増えたと思いますか減ったと思いますか』と『死刑という刑罰をなくすと、悪質な犯罪が増えると思いますか、別に増えると思いますか』の後で『今の日本で、どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか、反対ですか』という設問だった
  34. ^ 菊田幸一『Q&A 死刑問題の基礎知識』明石書店126頁より引用
  35. ^ 菊田幸一 『いま、なぜ死刑廃止か』 丸善、1994年12月。ISBN 4621051431
  36. ^ 前坂 俊之,橋本勝『死刑』現代書簡、1991年 p.62~63
  37. ^ 中平健吉「死刑制度」(神田健次『現代キリスト教倫理1 生と死』日本基督教団出版局、1999年)
  38. ^ 別冊宝島「いのちとは何か?」のなかで、元刑務官で著述業の阪本敏夫は、死刑囚との交流体験を述べた上で、近年になって法務大臣が死刑執行の自動化や死刑執行の秘密裏に行われている現状から、いのちの重みが軽くなったとの感情であるとしている。
  39. ^ 別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』2007年、105頁
  40. ^ 別冊宝島1525『日本タブー事件史3』26頁
  41. ^ 朝日新聞1955年12月29日
  42. ^ 朝日新聞1955年12月29日
  43. ^ 朝日新聞1953年6月19日
  44. ^ 後藤田大臣以降、死刑執行命令書に署名しなかった法務大臣として高村正彦法務大臣がいたが、杉浦大臣以降就任した法務大臣が例外なく署名しているため。また同様に死刑制度廃止を主張している連立与党の公明党から法務大臣の起用はありえないとの指摘もある
  45. ^ 「<死刑執行>4人に 安倍政権で初 1年3カ月ぶり」 毎日新聞2006年12月26日
  46. ^ 退任後の1997年に参議院比例代表で繰り上げ当選し、参議院議員を翌年まで勤めた
  47. ^ ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書・「藤本事件の真相」(PDF)
  48. ^ 読売新聞 2008年10月10日版>死刑>第1部>執行の現実 法務省幹部(匿名)の発言として、「再審や恩赦の請求は法的には死刑執行を停止する理由にはならないが、法務省が冤罪を疑っている死刑囚の再審請求の場合は、冤罪で死刑を執行することはあってはならないという観点から、死刑執行の検討対象から除外してきた。その結果として死刑確定後の拘置が20年~30年以上の期間になり、高齢による身体の病気や老衰、拘置による精神の病気や知能の衰退などにより、死刑囚が天寿を全うすることを待つ処遇をしている事例もある」と表明した。 2009年8月31日閲覧
  49. ^ 別冊宝島「死刑囚最後の1時間」宝島社 105頁
  50. ^ アメリカでは死刑が執行される刑務所前で死刑存置派、廃止派双方の集会が行われることが少なくない
  51. ^ 佐久間哲『現代死刑囚ファイル』自由国民社 26頁
  52. ^ 免田事件の元死刑囚が死刑執行日に自殺した死刑囚がいたことを証言している。
  53. ^ アメリカ合衆国では原則として前日までに死刑執行が通知され、最後の食事は酒類以外の死刑囚の好きな料理が出される慣習があるという
  54. ^ 21世紀には入ってから2001年に2名、2006年に3名が執行
  55. ^ 2002年9月18日に当時の小泉純一郎首相が北朝鮮訪問した日に2名の死刑執行が行われたため
  56. ^ 中国新聞 2008年2月2日朝刊
  57. ^ 2007年8月23日朝日新聞夕刊
  58. ^ 養鶏場殺人、死刑を破棄/「首謀者と均衡失する」
  59. ^ 村野薫『死刑はこうして執行される』講談社 2006年 206頁
  60. ^ 朝日新聞1978年7月6日
  61. ^ 『インパクション』156号
  62. ^ 確実なものとして『ギネスブック(現・ギネス世界記録)』に82歳で処刑されたイギリスのケースが掲載されている。
  63. ^ 佐久間哲『死刑に処す 現代死刑囚ファイル』191頁~192頁
  64. ^ 朝日新聞2008年6月21日朝刊
  65. ^ 2008年6月22日 毎日新聞
  66. ^ YOMIURI ONLINE「犯罪被害者の会、朝日新聞の「死に神」表現に抗議文」2008年6月25日、2008年6月30日閲覧
  67. ^ 朝日新聞2008年8月2日
  68. ^ 福岡高等検察庁が作成した裁判員制度の広報キャラクター。鳩山はこのキャラクターの着ぐるみを着用し検察庁の統一広報キャラクターに抜擢した
  69. ^ 『内閣改造へ「サイバンインコは留任、死に神は辞任」鳩山法相』産経新聞2008年7月25日12時10分配信
  70. ^ 別冊宝島「死刑囚最後の一時間」
  71. ^ 死刑廃止を主張した経歴のある議員が法務大臣に就任したのは初めてと見られる
  72. ^ 裁判所がこの法律の定めるところにより不公平な裁判をするおそれがあると認めた者は、当該事件について裁判員となることができない。
  73. ^ 参考資料5 不公平な裁判をするおそれに関する質問の具体的イメージ - 「裁判員の参加する刑事裁判に関する規則」の公布について(最高裁判所)
  74. ^ 量刑決定は多数決によって行うが、職業裁判官1名の賛成が必ずなければならないとされる。そのため、市民裁判官全員が賛成しても職業裁判官一人が賛同しなければ、決定できないとされている
  75. ^ 週刊朝日 2007年12月26日号 団藤重光のインタビュー記事より
  76. ^ 世界の終身刑
  77. ^ 亀井静香『死刑廃止論』 花伝社 28頁
  78. ^ 中国新聞 2008年2月2日朝刊
  79. ^ 毎日新聞 2008年3月5日朝刊
  80. ^最高検通達を撤回させよう!「悪質事件」の無期懲役囚、検察が仮釈放を「制限」監獄人権センター
  81. ^ http://www.jca.apc.org/cpr/2002/kensatu.html
  82. ^ 法務省>保護局フロントページ>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について 平成21年9月 2009年9月18日閲覧
  83. ^ 法務省>保護局フロントページ>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑受刑者の仮釈放に係る勉強会報告書 2009年9月18日閲覧
  84. ^ 法務省>保護局>無期刑受刑者の仮釈放の運用状況等について>無期刑受刑者に係る仮釈放審理に関する事務の運用について(通達) 2009年9月18日閲覧
  85. ^ Rutter, Michael (2008). Bedside Book of Bad Girls. Farcountry Pr. 
  86. ^ Time,1930.3.3
  87. ^ ダフィ, クリントン 『死刑囚-88人の男と2人の女の最期に立会って』 サンケイ出版、1978年。
  88. ^ the Seattle Times,1993.1.4
  89. ^ TIMES,1885.5.26
  90. ^ McConville, Sean (1995). English local prisons, 1860-1900. Routledge. 
  91. ^ McConville, Sean (1995). English local prisons, 1860-1900. Routledge. 
  92. ^ フレデリックトン(ヨーク郡拘置所)のサイト
  93. ^ Hoshowsky, Robert J. (2007). THE LAST TO DIE RONALD TURPIN, ARTHUR LUCAS, AND THE END OF CAPITAL PUNISHMENT IN CANADA. Routledge. 
  94. ^ The Brisbane Courier,1896.11.25
  95. ^ Otago Witness, 1905.6.7
  96. ^ Northern Territory Times and Gazette,1914.1.22
  97. ^ 「死刑に関する英国審議会(1948~1953)報告書」(HER MAJESTY’S STATIONARY OFFICE「ROYAL COMMISSION ON Capital Punishment 1949-1953 REPORT」1953年
  98. ^ The New York Times, 2007.1.16
  99. ^ ヴァルテル・ラブル医学博士ら(オーストリア・インスブルック大学)「Erhangen mit Dekapitation Kasuistik - Biomechankik(頭部離断を伴った縊死 事例報告、生体工学)」1995年
  100. ^ 「Procedure for Military Execution」1959年 米陸軍省
  101. ^ The "Long drop" or measured drop method
  102. ^ 昭和36年7月19日大法廷判決(刑集15-7-1106)
  103. ^ [死刑]執行の現実(2)絞首、130年続く『読売新聞』2008年10月5日

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月14日 (土) 14:40 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【日本における死刑】変更履歴

ご利用上の注意