日本の原子爆弾開発

日本の原子爆弾開発の最新ニュースをまとめて検索!

日本の原子爆弾開発(にほんのげんしばくだんかいはつ)では、第二次世界大戦中に日本で行われた原子爆弾の開発計画と、戦後の状況に関する記述を行う。

目次

[編集] 背景

昭和9年(1934年)に東北帝国大学の彦坂忠義が「原子物理学理論」を発表し、原子核には巨大なエネルギーを秘めていることを提唱すると共に、それらのエネルギーが兵器として利用される危険性についても指摘した[1]。しかし彼の理論は原子物理学の第一人者といわれたニールス・ボーア博士にも受け入れられず、アメリカ物理学会日本物理学会などからも評価されなかったが、実際には欧米の物理学者に影響を与え、ナチス・ドイツでは1938年から原爆開発のための実験が試みられるようになった。

[編集] 第二次世界大戦中の原子爆弾開発

第二次世界大戦(太平洋戦争)中の大日本帝国には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。日本陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と日本海軍のF研究(核分裂を意味するFissionの頭文字より)である。

[編集] ニ号研究・F研究の開始

日本では昭和13年(1938年)からウラン鉱山の開発が行われ、昭和15年(1940年)、理化学研究所仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。研究には理化学研究所の他に東京帝国大学大阪帝国大学、東北帝国大学の研究者が参加した。

昭和16年(1941年)4月に陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託[2]アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の昭和18年(1943年)1月に、同研究所の仁科博士を中心にニ号研究が開始された。この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、昭和19年(1944年)3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。

他方、日本海軍のF研究も昭和16年(1941年)5月に京都帝国大学理学部教授荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、昭和17年(1942年)には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。こちらは遠心分離法による濃縮を検討していた。

当時は岡山鳥取県境人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、昭和19年(1944年)から朝鮮半島満洲モンゴル新疆の地でもウラン鉱山の探索が行われたが、はかばかしい成果がなかった。同年12月に日本陸軍は福島県石川郡石川町でのウラン採掘を決定、昭和20年(1945年)4月から終戦まで旧制私立石川中学校の生徒を勤労動員して採掘させた[3]。しかし、そこで採掘される閃ウラン鉱燐灰ウラン石・サマルスキー石等は、ごく少量であり、ウラン含有率も少ないものであった。一方、日本海軍は、中国の上海におけるいわゆる闇市場で130kgの二酸化ウランを購入する一方、当時、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツ支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦U-234)による560kgの二酸化ウラン輸入も試みられたが、日本への輸送途中でドイツの敗戦となり、同艦も連合国側へ降伏してしまった。(この点に関して、詳細はU-234及び遣独潜水艦作戦の項目参照)[2]。こうして、どちらにせよ原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であった。

また、技術的には、理化学研究所の熱拡散法はアメリカの気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、10%の濃縮ウラン10kgを製造することは不可能と判断されており、京都帝国大学の遠心分離法1945年の段階でようやく遠心分離機の設計図が完成し材料の調達が始まった所だった。

原爆の構造自体も現在知られているものとは異なり、容器の中に濃縮したウランを入れ、さらにその中に水を入れることで臨界させるというもので、いわば暴走した軽水炉のようなものであった。濃縮ウランも10%程度ものが10kgで原爆が開発できるとされており、理論自体にも問題があった。しかし、1999年9月の東海村JCO臨界事故は、この構造で爆弾にはならないが、殺傷可能な兵器になることの悲しい証明となった。

1945年終戦時、日本の原爆開発は最も進んだところでも結局は基礎段階を出ていなかった。

[編集] 研究打ち切りと敗戦

昭和20年(1945年5月15日アメリカ軍による東京大空襲で熱拡散塔が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となった[4]。その後、地方都市(山形、金沢、大阪)での再構築をはじめた[2]が、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。

日本は、8月6日広島市への原子爆弾投下8月9日長崎市への原子爆弾投下で被爆し、9月2日ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した。敗戦後、GHQにより理化学研究所の核研究施設は破壊された[2]。なお、この際に理研や京都帝大のサイクロトロンが核研究施設と誤解されて破壊されており、その破壊行為は後に米国の物理学者たちにより「人類に対する犯罪」などと糾弾されている[5](ただし、京都帝大のサイクロトロンの「ボールチップ」と呼ばれる部品は関係者の手で保管され、現在は京都大学総合博物館に収蔵されている[6])。その後、占領が終了するまで核分裂研究は一切禁止された。

ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、その中には戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹(F研究)も含まれていた[7]。関係者の中からは、戦後湯川を始め被爆国の科学者として核兵器廃絶運動に深く携わる者も現れるが、戦争中に原爆開発に関わったことに対する釈明は行われなかった。この点に関し、科学史を専門とする常石敬一は「少なくとも反核運動に参加する前に、日本での原爆計画の存在とそれに対する自らの関わりを明らかにするべきであった。それが各自の研究を仲間うちで品質管理をする、というオートノミー(引用者注:自治)をもった科学者社会の一員として当然探るべき道だったろう」と批判している[8]

ニ号研究に投入された研究費は、当時の金額で約2000万円であった。ちなみに、アメリカのマンハッタン計画には、約12万人の科学者・技術者と約22億ドル(約103億4千万円、当時の1ドル=4.7円)が投入されている[2]

[編集] 第二次世界大戦後の状況

第二次世界大戦後の日本は、原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む核兵器を保有しておらず、公式には開発計画もない。

1953年12月8日アイゼンハワーアメリカ合衆国大統領国連総会で「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」と題する演説を行い、日本にも原子力を平和のために利用することの道が開かれてから、日本は原子力開発を非軍事に限定して積極的に行ってきた。理由は石油などのエネルギー源をほとんど海外に依存している事への危険感からである。

昭和29年(1954年)に、初の原子力予算を成立させ、日本原子力研究所を設置した。これを皮切りに、複数の大学民間企業研究用原子炉を建設し、原子力発電を主目的として核技術の研究を再開した。更に核燃料サイクルの完成を目指して、高速増殖炉常陽もんじゅ)や新型転換炉ふげん)、再処理工場東海再処理施設六ヶ所再処理工場)などの開発を積極的に行っている。この分野では核兵器非保有国の中で最も進んでおり、原料となる使用済み核燃料も大量に保有している。なお、原子力基本法では「原子力の研究、開発および利用は、平和目的に限る」と定められており、核燃料の供給国と結ばれた二国間の原子力協定でも、軍事転用や核爆発装置の開発が行われた場合の返還義務を明示している。

また、日本は国際原子力機関(IAEA)による世界で最も厳しい核査察を受け入れている国でもある(駐在査察官の人数も200人で最大)。2004年6月15日のIAEA理事会では日本の姿勢が評価され、「核兵器転用の疑いはない」と認定し、査察回数を半減する方針も明らかにされている。

現在の日本で国会に議席を持ちながら核武装を説く政党は無い(ただし近隣国家の核開発に伴い、核保有論者が国会議員に存在する)。日本政府の安全保障政策としては、核抑止は同盟国のアメリカ合衆国に依存するとしており(防衛白書)、自らの製造、保有やアメリカ軍による国内への配備も否定している(非核三原則)。平成20年(2008年)3月に公表された外務省による「日本の軍縮・不拡散外交に関する意識調査」においては、国民の47%が核不拡散条約は国際社会の安定と平和に役立っているとし、70%が国連総会での核兵器の全面的廃絶を訴えた決議に意義があると認め、さらに73%が軍縮・核不拡散分野での日本のリーダーシップの発揮に期待を持っている[9]。核兵器のみならず原子力の平和利用に対しても忌諱感を持つ国民感情は核アレルギーとも表現されるが、日本が世界最先端の原子力発電技術・衛星ロケット技術・十分な専門家の人数を保有していることから、日本国外からは「核開発能力保有国である」と評価されている。

[編集] 脚注

  1. ^ 彦坂は、「陽子中性子が原子核内ではっきり分かれ、しかもその間に、宇宙最大のエネルギーが潜んでいる。だから人類は、それを悪用せずに制御しなければならない」と説いた。
  2. ^ 理研八十八年史より - 二つの「計画」理化学研究所
  3. ^ 戦争体験 少年も国のため死のうと覚悟した時代 - 原爆製造へウラン掘り、DON-NET「けんせつ」、2007年8月20日
  4. ^ 「旧理研研究者が「日記」 長男が保管、「仁科書簡集」収録へ」(毎日新聞東京夕刊、2007年1月5日付)
  5. ^ 読売新聞2005年8月15日の記事より。
  6. ^ 詳細が2008年の日経ネット関西の連載記事「湯川秀樹の遺伝子」に紹介された。
    湯川秀樹の遺伝子(1)加速器、秘められた過去(2008年1月21日)
    湯川秀樹の遺伝子(2)実験屋魂、加速器部品守る(2008年1月28日)。
  7. ^ 福井崇時「日米の原爆製造計画の概要」 『原子核研究』第52巻1号(『原子核研究』編集委員会、2007年)
  8. ^ 常石敬一「原爆、七三一、そしてオウム」『AERA』1995年8月10日号(No.36)増刊「原爆と日本人」、P58~59。なお本稿で常石は湯川秀樹が戦後に米軍から原爆開発の実態について尋問を受けたと記している。
  9. ^ 外務省: 日本の軍縮・不拡散外交に関する意識調査、2008年3月

[編集] 参考文献

  • 山本洋一 『日本製原爆の真相』 創造、1976年。
  • 『戦争と科学”の諸相 原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』 広島大学総合科学部編、市川浩・山崎正勝責任編集、丸善〈叢書インテグラーレ〉、2006年2月。ISBN 4-621-07705-8
  • 杉田弘毅 『検証非核の選択 核の現場を追う』 岩波書店、2005年12月。ISBN 4-00-001937-6
  • 山田克哉 『日本は原子爆弾をつくれるのか』 PHP研究所〈PHP新書〉、2009年1月。ISBN 978-4-569-70644-3
  • 福好昌治「知られざる「日の丸原爆」研究の真相」、『丸』第594巻、潮書房、1995年9月、pp. 108-109。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

軍事 この「日本の原子爆弾開発」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正等して下さる協力者を求めています
ポータル:軍事/PJ軍事/PJ軍事史

最終更新 2009年10月15日 (木) 17:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【日本の原子爆弾開発】変更履歴

ご利用上の注意