日本の降伏

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日本の降伏(にっぽんのこうふく、にほんのこうふく)とは、第二次世界大戦大東亜戦争太平洋戦争)において、大日本帝国アメリカイギリス中華民国ソビエト連邦によるポツダム宣言を受諾して降伏した出来事である。現在の日本で単に「敗戦」というと、この第二次世界大戦の降伏を指す事が多い。

目次

[編集] 概説

日本国(現在の日本)において今日「終戦の日」は、大日本帝国(当時の日本)の最高権力者であった昭和天皇玉音放送によって、ポツダム宣言の受諾が日本国民に予告された1945年8月15日と見なすことが一般的である。しかし、(1)昭和天皇が玉音放送を収録した日、(2)「終戦の詔書」の日付、(3)日本政府がポツダム宣言の受諾を、連合国各国政府に予告した日は、いずれも1945年8月14日である。そして、日本政府代表がポツダム宣言(降伏文書)に調印した日は、1945年9月2日である。国際的には、この9月2日が「対日戦争終結の日」や「終戦の日」と見なされている。

1945年9月2日に各国政府代表がポツダム宣言に調印したことで、1939年9月1日ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦は終わった。同時に、GHQによる占領統治の始まりであり、1868年1月3日王政復古の大号令明治維新)によって成立した大日本帝国は、成立から77年後に事実上崩壊した。

この日本の降伏は、日本が君主主権国家から国民主権国家に変わる転換点になった。日本が降伏すると、日本を民主化する戦後改革が始まり、1年後の1946年7月6日には、「大日本帝国」から「日本国」に国号が変更された。2年後の1947年5月3日には、日本国憲法の施行によって大日本帝国は法的にも崩壊した。講和条約に基づく終戦は、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日であり、この条約の発効によって連合国による占領は終わった。

一方で、満州千島列島(→占守島の戦い)、樺太では降伏が予告された8月14日以後も、日本軍ソビエト連邦軍で戦闘が継続された。結果シベリア抑留や、今日まで続く北方領土問題となっている。また小野田寛郎に代表されるように、終戦の伝達が不可能な環境下にあり、戦後も長い間山中などで戦闘状態にあった兵士も多くいた(大半が数年で帰還した)。降伏した旧日本軍兵士や満蒙開拓青少年義勇軍たちの中には、八路軍国民政府軍に強制参加などで、国共内戦に従軍させられた[1]。また自ら除隊しインドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に参戦するなどして戦闘を続ける人々もいた。

[編集] 終戦工作

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日本において、日本軍が有利のうちに早期に戦争を終結させるという考えは、1942年頃より一部の政治家・官僚・民間人の間に存在していたが、戦争の勝利を期す東条内閣及び軍部によって弾圧され、中野正剛のように自決に追い込まれた例もあった。

戦争終結への動きが具体化し始めるのは、1944年7月に東条内閣が倒れて以後であるが、そのときにはアメリカ側の反攻によって日本本土への空襲も時間の問題となっていた。1945年2月には、近衛文麿元総理大臣を中心としたグループは、戦争の長期化が「日本の赤化」を招くとして戦争の終結を主張する「近衛上奏文」を昭和天皇に進言した。しかし、昭和天皇はこれを却下し、また後に工作を察知した憲兵隊により、吉田茂(のち首相)・岩淵辰雄・殖田俊吉らが逮捕されている。そして、軍部は「国体護持」を主張して戦争を継続した。

一方で、当時小磯内閣も本土決戦を進めながら、同時に和平工作を模索していた。1944年に宇垣一成陸軍大臣を中国に派遣して蒋介石政権との和平交渉を打診した。そして、1945年3月には南京国民政府高官でありながら既に蒋介石政権と通じていることが知られていた繆斌を日本に招いて和平の仲介を依頼している。だが、当時の重光葵外務大臣は繆斌を信用せず、小磯国昭総理大臣と対立して結果的に同内閣の崩壊へとつながった。

4月7日に成立した鈴木内閣の外務大臣東郷茂徳は、翌年4月には期限が切れるとは言え、未だに日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦を仲介とした和平交渉を行おうとした。東郷自身はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が中立条約の終了時もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいるためソ連が和平の仲介すると言えば軍部もこれを拒めないこと、ソ連との交渉が破綻すれば日本が外交的に孤立して軍部も実質上の降伏となる和平条件を受け入れることになるという打算があったとされている。かつて東郷自身も、駐ソ大使としてモスクワで、ノモンハン事件を処理しソ連との和平を実現させたという経験も背景にあったとされる。東郷は、元上司で元首相広田弘毅ヤコフ・マリクソ連大使と箱根などで会談させ、6月には自身がマリクと会談して近衛文麿を昭和天皇の特使としてソ連に派遣して和平協議を行うことを申し出た。一方東郷は、最高戦争指導会議などを活用して米内光政海軍大臣とともに阿南惟幾陸軍大臣らを説得してソ連を仲介とした和平工作で政府内の合意を得ようとした。

だが既にソビエト連邦は、1945年2月のヤルタ会談でドイツ降伏から3ヶ月以内の対日宣戦で合意しており、日本側の依頼を受ける気はなかった。7月のポツダム会談では近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。一方、日本政府はソ連の仲介を期待して「黙殺」を決定し、8月の広島長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日宣戦を回避することは出来なかった。

大本営・内閣合同の「戦争最高指導会議」での東郷らの説得工作や、「御前会議」における、2度の昭和天皇の聖断を経て、「国体護持」を条件としたポツダム宣言受諾を決定したが、最前線における日本軍の崩壊や原子爆弾の被害にも関わらず、阿南陸軍大臣ら軍首脳は「自主的な武装解除」・「自主的な戦争犯罪の処罰」・「日本本土への占領を行わない確約」の追加を最後まで要求し、連合国側からの回答(いわゆる「バーンズ回答」)において、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とされたことに「日本の国体を決めるのは天照大神神勅のみである」と憤慨する要人からの反発、更に8月15日には本土決戦内閣を樹立するためのクーデター未遂事件(宮城事件)の発生など、「神洲不滅」を真理と考える戦争継続・本土決戦派の勢いは強く、8月15日の玉音放送以後も松江騒擾事件厚木飛行場での小園安名大佐による決起事件など揺り戻しの可能性が尚も残されたまま、降伏文書の調印まで緊張した情勢が続くことになる。

なお、他に終戦工作として知られているものがある。
  • 燕京大学学長ジョン・スチュワートや上海市長周仏海を仲介者とする和平工作。
  • 日本軍今井武夫参謀副長と中国軍何柱国上将との和平協議。
  • 水谷川忠麿男爵(近衛文麿異母弟)と中国国際問題研究所何世禎との和平工作。
  • スウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作。また、小野寺信駐在武官もスウェーデン王室との間で独自の工作を行っている[2]。だが、ソ連との交渉に専念したい東郷の意向で延期されたまま終戦を迎えた。この経緯を元に佐々木譲が小説『ストックホルムの密使』(新潮社、のち新潮文庫上下)を出し、1995年10月にNHKがドラマ化した。
  • スイスにおいてアメリカ戦略事務局アレン・ダレスを仲介者として岡本清豪陸軍武官・加瀬俊一公使・藤村義朗海軍武官らによる和平工作。ダレスは戦略事務局のヨーロッパ本部長であったが、その身分を明らかに出来なかったことから、指示を求める日本の外交官達の訓電は東京の政府からは相手にされなかった(藤村は実に35本もの電報を打ったが全て外務省に握り潰されたという)。この経緯を元に西村京太郎が小説『D機関情報』(講談社)を出し、のち映画『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』にもなった。

などがあるが、いずれも和平条件の問題や日本側による仲介者への不信などから、実現には至らなかった。

[編集] 日本以外

日本(当時の大日本帝国)政府を代表して重光葵梅津美治郎らが降伏文書に調印した9月2日は、アメリカ合衆国を初めとした連合国各国では、「VJデー」と呼んでいる。

連合国以外でも、交戦の地となったアジア諸国にとっても、1945年9月2日は「日本からの解放」の日となった。

朝鮮半島は、1910年以来35年に亘る朝鮮総督府の統治から解放された。第二次世界大戦でフランスと日本の二重支配に置かれたベトナムでは、日本政府が降伏文書に調印した9月2日に、ホー・チ・ミン独立宣言を出し、阮朝が名実共に倒された。この日本の降伏は、朝鮮とベトナムでは元号が廃止される引き金にもなった。

第二次世界大戦でオランダから日本に支配者が変わったインドネシアでは、日本政府の降伏予告から3日後の8月17日に独立宣言が出された。

日本の降伏によって、東南アジアは、勝戦国であるイギリス・オランダ・フランスに再び占領された。しかし、東南アジアの民衆は独立戦争を起こし、勝戦国の疲弊も重なって、「欧米からの解放」を勝ち取った。この経緯から、日本を含めてアジアの歴史では、概ね日本の降伏による第二次世界大戦の終結を境にして、「近代」と「現代」に分けられている。

[編集] 参考文献

  • 江藤淳監修、栗原健・波多野澄雄編「終戦工作の記録」(上下)講談社文庫,1986
  • 江藤淳編「占領史録」 講談社学術文庫 全4巻 ,1989、新版(上下),1995
  • 外務省編「終戦史録」(全6巻) 北洋社,1985
  • 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録」(上下)山手書房新社
  • 林茂・辻清明編「日本内閣史録.5」第一法規,1981
  • 松本俊一・鈴木九萬監修「日本外交史 25・26」鹿島出版会,1973 のち新版
  • 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」(上下巻)芙蓉書房出版,2003
  • 参謀本部所蔵「敗戦の記録」原書房,1967
  • 森松俊夫監修「『大本營陸軍部』大陸命・大陸指総集成 10巻」エムティ出版,1994
  • 防衛庁防衛研修所戦史室「大本營陸軍部10 昭和二十年八月まで」朝雲新聞社,1975
  • 軍事史学会編「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌」(上下)錦正社,1998、新版合本2008
  • 佐藤元英・黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録—終戦史資料」(上下)原書房,2002

[編集] 日記・回想録

  • 「鈴木貫太郎自伝」鈴木一編 時事通信社,1968、<人間の記録>日本図書センター,1997
    • 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会,1960
    • 鈴木貫太郎「終戦の表情」労働文化社,1946
  • 「歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎」ゆまに書房,2006
  • 「東久邇日記 日本激動期の秘録」徳間書店,1968
    • 東久邇稔彦 「一皇族の戦争日記」日本週報社,1957
    • 東久邇稔彦 「私の記録」東方書房,1947
  • 東郷茂徳「時代の一面—東郷茂徳外交手記」 原書房,新版2005、中公文庫,1989
  • 迫水久常「機関銃下の首相官邸 2・26事件から終戦まで」 恒文社,1964、新版1986
  • 下村海南「終戦秘史」 講談社、新版が講談社学術文庫,1985
  • 藤田尚徳「侍従長の回想」講談社,1961、中公文庫,1987
  • 細川護貞「細川日記」中央公論社,1978、中公文庫上下,新版2002
  • 重光葵「重光葵 手記」(正・続)  中央公論社,1986-88
  • 重光葵「昭和の動乱」 新版 中公文庫上下,2001
  • 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」中公文庫,1999
  • 木戸幸一「木戸幸一日記」上下巻 東京大学出版会,1966
  • 「私の昭和史.5」 聞き手三國一郎 旺文社文庫、新版文春文庫,1989
  • 松村謙三「三代回顧録」東洋経済新報社,1964
  • 高松宮宣仁親王「高松宮日記」全8巻 中央公論新社,1997
  • 河辺虎四郎「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」毎日新聞社,1979
  • 梅津美治郎刊行会「最後の参謀総長梅津美治郎」芙蓉書房,1976
  • 有末精三「終戦秘史 有末機関長の手記」芙蓉書房,新版1987
  • 宮崎周一「大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌」錦正社,2003
  • 豊田副武「最後の帝国海軍」主婦の友出版サービスセンター,1989
  • 藤田信勝 「敗戦以後」プレスプラン,2003年

[編集] 歴史書・伝記

  • 半藤一利「決定版 日本のいちばん長い日」文藝春秋、1995、文春文庫 2006
  • 半藤一利「聖断」文藝春秋、1985、PHP文庫 2006
  • 秦郁彦「昭和天皇五つの決断」文春文庫,1995
  • 小堀桂一郎「宰相鈴木貫太郎」文藝春秋,1982、文春文庫 1987
  • 東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」文藝春秋,1993
  • 萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」 原書房,新版2005、朝日新聞社,2008 
  • 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」中央公論新社,2006
  • 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」(上下)NHKブックス,2000
  • 五百旗頭真「20世紀の日本3 占領期−首相たちの新日本」読売新聞社,1997、中公文庫,2001
  • 五百旗部真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」中央公論新社,2001
  • 戸部良一「日本の近代9 逆説の軍隊」中央公論新社,1998
  • 保阪正康「新版 敗戦前後の日本人」朝日文庫,2007
  • 加藤聖文「<大日本帝国>崩壊 東アジアの1945年」 中公新書,2009

[編集] 辞典・事典項目

  • 師岡佑行「終戦工作」 「社会科学大事典 10」鹿島研究所出版会,1969
  • 波多野澄雄「終戦工作」 「国史大辞典 7」吉川弘文館, 1986
  • 木坂順一郎「終戦工作」 「日本史大事典 3」平凡社,1993

[編集] その他

  • 日本テレビ「知ってるつもり?!」『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』(2002年5月28日放送分)

[編集] 脚注

  1. ^ 池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社、2007年)、米濱泰英『日本軍「山西残留」』(オーラル・ヒストリー企画、2008年6月)、山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』(草思社 1994年、新版が光人社文庫、2006年)に詳しい、また中国山西省日本軍残留問題を参照。
  2. ^ 小野寺百合子『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』共同通信社

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月19日 (木) 14:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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