日本への原子爆弾投下
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日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、太平洋戦争の末期(1945年8月)にアメリカ軍が日本に投下した2発の原子爆弾による空爆である。人類史上で初めて核兵器が実戦使用されたものである。
日本の本土決戦を避け太平洋戦争を早期に決着をつけるために原子爆弾投下が行われたという説と、第二次世界大戦後の世界覇権を狙うアメリカが人類初の原子爆弾の威力を示すとともに、その放射線障害の人体実験を行うために行われたという説がある。
- 1945年8月6日に日本の広島市に投下された原子爆弾については、広島市への原子爆弾投下を参照してください。
- 1945年8月9日に日本の長崎市に投下された原子爆弾については、長崎市への原子爆弾投下を参照してください。
本稿では、この二発の原子爆弾に、投下されなかった三発目の原子爆弾を含めて、論争となっている諸説について解説する。
目次 |
[編集] 原子爆弾投下の背景と経緯
日本への原子爆弾投下(1945年8月)までの道程は、その6年前のルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画によって開発している原子爆弾の投下目標として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
具体的に広島市が目標として決められたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備候補地として決定された。また、京都市や小倉市(現・北九州市、長崎原爆・ファットマンの当初の投下予定地)などが投下候補地とされていた。
[編集] ルーズベルトの決断
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した。ナチスから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アメリカが原子爆弾の開発を行うことをルーズベルト大統領へ進言する手紙を作成した。その署名者には同じ亡命科学者で著名なアインシュタインの名を借用した。この手紙は1939年10月11日に送り届けられた。その手紙には原子爆弾の原材料となるウラン鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえるように提言している。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった。
2年経過した1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とルドルフ・パイエルスがウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、イギリス原子爆弾開発委員会 (MAUD Committee) に報告した[1]。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。ウィンストン・チャーチル英国首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗北等を憂慮しアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は1941年10月に原子爆弾の開発に踏み切ることを決断した。
1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画(DSM計画)を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
1944年9月18日、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機及び部隊総員1,767人)、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動した。
エドウィン・レントン少佐は、「天皇のみが戦闘中止命令を持っているが、日本陸軍に戦闘中止を命令するとなると話は別になり、戦闘を停止しなければ日本が完全に破壊されることが証明されないかぎり、天皇が命令を下しても、その命令は行われない。原爆投下はその証明の可能性になる。」と、原子爆弾投下の直接的な目的が政治的な目的であることを米海軍に説明している。[要出典]
[編集] 原子爆弾投下阻止の試みと挫折
デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
1944年5月16日にボーアはチャーチル英国首相と会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルト米国大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌1945年4月25日にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。
また別の科学者の動きとしては、1944年7月にシカゴ冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用の開発に注力すべきで、原子爆弾の都市破壊への利用をすべきでないと提言した。しかしこの提言も生かされることはなかった。
ドイツ降伏後の1945年5月28日には、米国に核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、バーンズ国務長官に原爆使用の反対を訴えている。
1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、エウゲニー・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会に提出した。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、アメリカ政府に拒絶された。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。
更に1945年7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原爆使用反対の書簡を提出したが、流れを変えることはできなかった。
軍人としては、ヨーロッパ戦線を勝ち抜いたアイゼンハワー将軍が、対日戦の勝利にはもはや原爆の実戦使用は不必要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しており[2]、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的でロタ島への爆撃を示唆している。また政府側近でも、ラルフ・バードのように原爆を使用するとしても、事前警告無しに投下することには反対する者もいた。
しかし結局、これら一連の原爆投下阻止の試みが、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領の決意を動かすことはなかった。
[編集] 原子爆弾投下都市の選定経過
広島と長崎が原子爆弾の目標となった経過[3]は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃が続く中で、以下のように推移した。
1943年5月5日軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった[4]。
1944年11月24日~翌3月9日 通常兵器による空爆第一期。軍需工場を主要な目標とした精密爆撃の時期。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められている。
1945年3月10日~6月15日 通常兵器による空爆第二期。大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃の時期。
1945年4月12日のルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原爆政策の遺志を継いだトルーマンには、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。
1945年4月中旬~5月中旬 沖縄戦を支援するために九州と四国の飛行場を重点的に爆撃したので、大都市への焼夷弾爆撃が中断した時期。そのため京都大空襲が遅れた[4]。
- 日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が邪魔な石は残らず取り除くという第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市[4]。
- 次の17都市及び地点が研究対象とされた。東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市。
1945年5月10日-11日第2回目標選定委員会、アメリカ合衆国のロスアラモスにあるオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市がはじめて選定された[4]。
このとき以下の3基準が示された[4]。
- 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
- 爆風によって効果的に破壊しうむものであること。
- 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
1945年5月28日第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された[4]。
- 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
- 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
- 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
これらの原爆投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなる。
1945年5月29日原子爆弾の標的でなくなった翌日に横浜大空襲。
1945年6月1日暫定委員会(委員長:ヘンリー・スチムソン陸軍長官)は、
- 原爆は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、
- それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
- その際、原爆について何らの事前警告もしてはならない。
と決定した[4]。原爆投下の事前警告について、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説[5]があるが、一般的に認められているわけではない。
この経過のなかで、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた[4]。
- 人口100万を超す大都市であること。
- 日本の昔の首都であること。
- 多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
- 小さな軍需工場が多数存在していること。
- 原子爆弾の威力を正確に測定しうる十分な広さの市街地を持っていること。
しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスチムソン陸軍長官の強い反対や、「アメリカと親しい日本」をつくる上で、「千数百年の長い歴史があり、価値がある文化財まで破壊する可能性があり、それらが数多く点在する京都への投下は、戦後の国民の反感が大きすぎる」との配慮から、京都への原爆投下は問題であるとして、京都市が除外されて新潟市が加えられた。
1945年6月14日目標が小倉市、広島市、新潟市となり、京都市が除外される。ただし、京都の爆撃禁止は続いた[4]。
1945年6月16日~終戦まで 通常兵器による空爆第三期。中小都市への焼夷弾爆撃の時期。
1945年6月30日アメリカ軍統合参謀長会議が、マッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド大将に宛てた指令。同様の指令はこれ以前から発せられていて、原爆投下目標に選ばれた都市は原子爆弾の投下用に予約され、爆撃禁止命令が出されていた。そして、この指令はほぼ完全に守られていた[4]。
- 新しい指令が統合参謀長会議によって発せられないかぎり、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。
- 右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。
1945年7月3日それでもなお、京都が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返しによって京都が目標として復活した[4]。
1945年7月20日後述のパンプキン爆弾10発による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された。
1945年7月21日ポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスチムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スチムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電を打ち、京都の除外が決定した[4]。
1945年7月24日京都の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があったけれども目標に加えられた。スチムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した」とあり、アメリカが戦後の国際政治で占める歴史的地位の優位を守るために京都案に反対したためである[4]。
1945年7月25日、トルーマン大統領は原爆投下の命令を発令した。広島・小倉・長崎のいずれかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下するべしとした。さらに8月2日により具体的な原爆投下作戦命令書「野戦命令第13号」が発令された。その攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域(照準点を相生橋とする)」、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」である。しかしこの命令直後の数日間は台風8号の影響で天候不順のため作戦実行を避けられ、太平洋高気圧が張り出して天候が回復した8月6日が作戦決行日と最終決定された。
1945年8月9日 長崎市への原子爆弾投下では、当初小倉市を目標に出撃したが、天候不良のために、第2次目標である長崎市に投下された。
[編集] 模擬原子爆弾「パンプキン」の投下訓練
詳細は「パンプキン爆弾」を参照
1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下訓練を繰り返した。すなわち原爆の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
パンプキン練習作戦は、7月24日、7月26日、7月29日、8月8日、8月14日と終戦寸前まで行われた。
[編集] 原子爆弾の輸送
並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。また陸軍航空隊のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
このインディアナポリスは帰路の7月30日、フィリピン海で橋本以行海軍中佐指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷により撃沈されている。この潜水艦は、当時回天を搭載していて回天隊員の出撃許可の求めを断り「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労や低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」とチョークで記された。インディアナポリスの艦長はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。戦後米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。歴史に「if」は禁物だが、もしインディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原爆投下は不可能となっていた。
[編集] 日本軍の対応
当時、大本営と帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン方面のB-29部隊について主に電波傍受によりその動向を24時間体制で監視していた。大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が長文の電報をワシントンに向けて打電したこと、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、新部隊の進出を察知していた[6]。
その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン近海を飛行しだし、7月中旬に入ると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったため、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒を行っていた。しかしこれらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった[7]。
そもそも日本軍は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、少なくとも当時の特情部においては「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目に付いたのみであった[8]。もちろんこれはトリニティ実験を指した報道なのだが、実験直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」と語っている。また特情部では、当時スウェーデンを経由して入手した米国海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」の文字列が現れたのが8月11日[9]のことで、時既に遅しの状態であった。
[編集] 第三の原爆投下準備
長崎市への原子爆弾投下をした時点でテニアン島には原子爆弾完成品はなかったが、プルトニウム以外の外形の爆弾は存在しており、後はプルトニウムをアメリカ本土から運んでくれば原子爆弾が完成する予定だった。8月14日にプルトニウムを積んでロスアラモス基地から出発してテニアンに到着する予定となっており、8月20日前後に第三の原爆を投下することが可能であった。結局8月14日の段階で日本から降伏の通告が来たため、第三の原爆が日本に投下されることはなかった。
第三の原爆投下の候補地は小倉市、京都市など諸説あるが、1945年8月14日に投下された7発のパンプキン爆弾の愛知県への投下は3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していたことが、第三の原爆投下の標的は京都市であったと考えられる理由の一つになっている[4]。
[編集] 原子爆弾投下理由の論争
原子爆弾を投下した理由自体についても政治的な争点を含んだ様々な論議があり、今でも論争がかわされる部分である。ここでは概略を述べるに止める。
[編集] アメリカの公式理由
アメリカ政府筋は、戦後一貫して「日本本土決戦(オリンピック作戦)によって予想される日米双方の犠牲者を救うため、原子爆弾によって日本の抵抗意思を砕き、降伏に導いた」と主張してきた。これについてはいくつか説がある。
- 日本政府は水面下でソ連を仲介とした戦争終結のための工作をすでに盛んに行っており、原子爆弾の投下がポツダム宣言受諾への直接的な動機となったのではなくソ連の宣戦布告が直接の原因だとの主張。
- 原子爆弾の投下によって200万人を動員した決号作戦が根底から打ち砕かれることになったのは事実である。また、原子爆弾投下以降、急速に日本は全面降伏へ実際に動いた。
[編集] 対ソ戦略説
これ以外に有力な説は、英米のいくつかの軍人が暴露している戦後の極東アジアにおけるアメリカのイニシアティブを確保するため、日本の降伏へのソ連の参戦の寄与を下げたいという目的である[要出典]。これはヨーロッパ戦線でのドイツが東西分割占領となってしまったことへの反省からきている。
[編集] 兵器実験説
ある米国政府高官のメモからは、「巨費を投じたマンハッタン計画が原子爆弾を使用しないで終わらせると議会への説明に苦慮する」という別の理由も示唆されている[要出典]。また、実戦での原子爆弾の威力を検証するための「実験」とする説もあり、実際アメリカでは、一般兵を対象に被爆実験を行っている経緯がある[要出典]。こうした様々な理由がからみあい、日本への核爆弾投下という決定が下された。
原子爆弾の効果を測定するために、投下目標都市の決定に際して直径3マイル以上の大きな都市でそれ以前に空襲で破壊されていない都市が選択され、投下目標都市が決定された後に直ちにその都市への空襲が禁止されて都市と住民が温存された。原爆傷害調査委員会 (ABCC) が広島市内にアメリカによって設置され、被爆者の健康診断が繰り返されたが治療をすることは決してなかった。
[編集] 人種差別説
米国が、日本には投下し、同じく報復能力の無かったドイツには投下しなかったことは有色人種に対する差別心からきたものであるという説もある[要出典]。しかしながら、戦争勝利のため大戦中アメリカ軍では日本兵の遺骨を故郷への土産にしたり、ペンホルダーをつくるなどとしていたといった事件が発覚した後はすでに規制された後である。反日キャンペーンを張っていた「ライフ」で、日本兵の遺骨をプレゼントされた少女が、戦地の米兵に感謝の手紙を書いている写真が表紙となった事例もこの時点では過去のものとなっていた。
日本に対する勝利が時間の問題になった時点で米国は占領後のことを考えはじめていたのである。ドイツとの戦争もすでに終結している。一方でドイツはソビエトに大部分を占領された事実も考慮し、やはり原子力爆弾の投下は、日本の交戦意思を即座に打ち砕き、日本を単独で占領しソビエトに備えるため、という説が妥当性を帯びてくる可能性もある。事実、ソビエトと共産主義の脅威の南下から朝鮮戦争が勃発する。
しかし、トルーマンは戦後のキリスト教団体による抗議に対して「獣に接するには獣として取り扱わなくてはならない」と返事しており、回想録にも"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」)と書いているのもまた事実である。
[編集] 原子爆弾投下の歴史認識
[編集] 日本
日本では広島・長崎への原爆投下を知らない人はほとんどいない。社会科・地歴の教材のほか、国語の説明文など、長年学校教育で触れられてきたこと、毎夏テレビのドキュメンタリー番組や平和式典などで報じられているので、少なくとも小学校を卒業する頃にはほとんどの児童が知っている。しかしながら、「核兵器廃絶運動に関心も参加したこともない」とする者が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の希薄化が進行している[10]。
世界で唯一原子爆弾の直接被害を受けた国ではあるが、この経験は反米感情や報復意識にはつながらず、なぜ惨事が起きたかの追求も行われず、単に2度と起きてはならない悲劇と受け止める傾向が一般的に見られる。被害の惨状を伝え原爆の死者の霊を弔い被爆者の労苦を思う事が、平和を願う行為であるという受け止め方が多い。
これに呼応する形で日本の仏教、神道系の一部の宗教指導者が原爆投下を背教による「罰」と主張し[要出典]、被爆者や遺族の強い反発を受けたことがある。近年では、元長崎市長の本島等も日本軍の戦争拡大による当然の報いという旨の発言を行って批判を浴びている。
なお、湾岸戦争以降にアメリカ軍などが使用している劣化ウラン弾については、その放射能による被害があるとして、原水禁などの反戦平和団体が厳重な抗議をおこなっている(詳細は項目参照)。
[編集] アメリカ
戦時中のアメリカ人の日本への敵愾心は強く、市民も含めて大量の死傷者を出した原爆使用には大多数が賛成した。しかし戦後、原爆の様相が明らかになるにつれ、過剰な殺戮ではないのかという懐疑論が一部の人々から表明された。
そのような状況下で、1946年スティムソン陸軍長官名での原爆投下に関する論文が発表された。そこでは、上陸作戦で予想される100万人の米兵の犠牲を避け、戦争の早期の終結のためという原爆投下の大義名分が説明されていた。これ以降、アメリカの大衆の間では、この認識が一般的となっていった。なお戦後の公文書公開に伴い、歴史研究者の間ではこの論文は宣伝の為の物であることは明確になったが、現在でも戦争を早く終わらす為の仕方のない作戦であったという認識は一般的である。
原爆開発はこうした認識以外に、成功した国家的巨大プロジェクト、先進的な科学技術開発の例、冷戦の開始といった様に見られている。なお通常爆弾による被害と原爆による被害は区別しない考え方が多勢で、被爆者という言葉は一般的とはいえない。
上記から原爆の被害を訴えることは、日本が起こした戦争の責任を回避しアメリカの加害の責任のみを不公正に問うことと認識される場合も多い。
[編集] 中国・韓国
日本との交戦国であった中国や植民地であった韓国では「原子爆弾によって日本の支配から解放された」という歴史認識が主流であり、学校教育でもそのように教えているようだが、具体的にどのような記述があるかは不明[要出典]。原爆投下の犯罪性、悲惨な被害を省みる姿勢はほとんどなく、そうした点に言及するのは日本の戦争を美化する行為とされがちである。
[編集] 英語版での議論
Wikipedia英語版では原爆投下の賛成派と反対派の論争がある。
- (各論のディベートはen:Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki参照)
[編集] 脚注
- ^ Frisch-Peierls memorandum
- ^ 参照:ハリー・S・トルーマン#大統領職(『スチムソン回想録』)
- ^ 荒井信一「原爆投下への道」東京大学出版会、1985年11月。ISBN13 978-4130230339
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り ぬ る を わ か 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年8月。ISBN 4-02-261353-X
- ^ 黒木雄司「原爆投下は予告されていた!」光人社、1992年7月、ISBN-13 978-4769806196。
- ^ 堀栄三「大本営参謀の情報戦記 - 情報なき国家の悲劇」文春文庫、1996年、ISBN-13 978-4167274023、p.254。
- ^ 『大本営参謀の情報戦記』pp.256-259
- ^ 『大本営参謀の情報戦記』p.257
- ^ 『大本営参謀の情報戦記』p.260
- ^ 中国新聞「『原爆の日』前に全国世論調査」(2001/7/16)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月23日 (月) 15:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【日本への原子爆弾投下】変更履歴







