日本キリスト教史

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本項では日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。日本の宗教全般については日本の宗教を、世界のキリスト教の歴史については、キリスト教の歴史を参照のこと。

目次

[編集] 概要

日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、ネストリウス派キリスト教(中国景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある[1][2][3]。ただし、歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多い。

歴史的・学問的に見て証拠が多く、教科書などでキリスト教の日本への最初の伝来とされているのは、イエズス会フランシスコ・ザビエルによる布教である。戦国時代のさなか、1549年のことであり、当初はほぼザビエル達イエズス会の宣教師のみで布教が開始された、とされている。

宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増やした。しかし、豊臣秀吉の時代には勢力を拡大したキリスト教徒が、仏教徒や神道徒を迫害する事例が増え、さらに日本人奴隷奴隷貿易の商品となって海外に売られている事が発覚した。これを憂慮した秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止した。しかし、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると九州征伐で平定したばかりの九州(当時の日本では、特に宣教開始の地である九州でキリシタン大名やキリシタンが多かった)での反乱が考えられたため、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていた。だが、サン・フェリペ号事件が起き、キリスト教の布教が、日本に対するヨーロッパ諸国の侵略の第一歩と判断した秀吉は、キリスト教の本格的な弾圧を開始した。

やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収め、豊臣に代わって天下統一を成し遂げた徳川家康の時代には、一時的に布教は認められた。しかし、その後は江戸幕府鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、普通の外国人も許可無しでは日本に入国できなくなった。その間、江戸時代の末まで、日本では隠れキリシタンと呼ばれる人々が、密かにキリスト教の信仰を伝えていくこととなった。

やがて明治維新が起き、江戸時代は終わった。欧米列強と不平等条約を結ばされ、諸外国と対等になろうと必死であった明治政府は、政治法律経済軍事など、あらゆる分野の改革を断行した。その中には、キリスト教の布教許可も含まれており、完全ではなかったものの信教の自由が法的にも保障された。

以後、キリスト教は再度日本での布教を開始していった。戦国時代ではカトリックが主であったが、明治以降はプロテスタント正教会など、各派が布教を行った。この時、クリスマスなどのいくつかの行事が日本に持ち込まれ、日本の文化の一つとして定着していった。

第二次世界大戦が始まると、キリスト教も他の宗教と同じく戦争協力を命じられ、断った団体は弾圧されることとなった。第二次世界大戦が終わると、日本ではほぼ完全な形での信教の自由が法的に認められ、不自由のないキリスト教の布教が開始された。

現在、キリスト教の文化は日本の文化に様々な影響を与えている。しかし、キリスト教の信者そのものは、カトリック・プロテスタント・正教会の全てを合わせても、日本人全体の1%を超えていないと言われている。

[編集] 戦国時代から安土桃山時代

[編集] 背景

16世紀、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)でマルティン・ルターが起こした宗教改革が各国に波及しており、カトリックのお膝元のイタリアでさえ教皇の権威に陰りが見えていた。

カトリックは、権威を取り戻すために遠くアジアでの布教活動も視野に入れ始めていた。信者数が増えればプロテスタント勢力への牽制にもなる。また、金銭的な問題からも、アジア布教は急務と教会上層部は考えていた。当時は贖宥状(免罪符)への風辺りが強くなったため、売り上げが急減しており、カトリックの財政事情に影響を及ぼしていた。アジアの有力者を信者にすれば、カトリック教会への莫大な献金が期待できた。なお、贖宥状の金銭での売買は、トリエント公会議の決議によって1563年に禁止されている。

このようなヨーロッパの宗教事情が、イエズス会フランシスコ会の宣教師が、日本にやってくる下地となっていった。

宣教師は、アジアへ活発に派遣されていった。まず、植民地化が進んでいたインド東南アジアに大量に送り込まれた。宣教師達はさらに東にも目を向け、やがて極東にまで進出してくるようになった。

[編集] ザビエルによる宣教活動

イエズス会カトリック教会修道会)の創設メンバーの一人で、西インドで宣教活動に従事していたバスク司祭フランシスコ・ザビエルマラッカで知り合った「ヤジロウ」(アンジロウとも)という日本人によって日本のことを知り興味を抱いたことが、日本における宣教活動のきっかけとなった。

教科書では、このザビエルによる宣教活動が日本へのキリスト教の最初の伝来とされており、広く知られている。戦国時代のさなか、1549年のことであった。

[編集] ザビエルとイエズス会

フランシスコ・ザビエル

ザビエルは8月15日に鹿児島に上陸し、2年3か月にわたって宣教活動を行った。ザビエルは「日本国王」(天皇)の宣教許可を得ようと鹿児島から平戸山口をへて京にたどりついたが、当時の京都は戦乱で寂れきっていた。天皇の権威も失墜しており、将軍も不在であったため、ザビエルは目的を果たせなかった。その後、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら徐々に日本人協力者を得ることが出来、七百名ほどに洗礼を授けた。各地を旅する中で、ザビエルは日本文化に中国が大きな影響を与えていると見抜き、中国宣教を志して広東の上川島に上陸したが、中国本土を目前にして病没した。

日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られた。彼ら宣教師たちの無私の生き方やその教えが日本人たちの心をとらえ、信徒が急増した。入信の動機やきっかけはさまざまだったが、戦国の世の無常にあって、仏教や神道などの既存の宗教までもが自衛や領地獲得のために武装し、戦いに明け暮れていた最中、それまで存在しなかったキリスト教の新鮮な価値観や弱者へのいたわりの精神、精鋭主義によって送り込まれた質の高い宣教師の宣教活動などが人々の心を惹きつけたことは疑いのない事実であった[要出典]

これは、キリスト教が仏教・神道に勝ったというよりも、少数精鋭で危険を顧みずに日本に乗り込んだ、ザビエル達の崇高な精神に引かれた結果であったといえる(前述の通り、ヨーロッパ本国では宗教改革が起きており、日本人が既存の宗教に懐疑的だったのと同様、ヨーロッパ人もまた、既存のキリスト教に対して疑念を抱くようになっていた)[要出典]

ザビエル以降、コスメ・デ・トルレスルイス・デ・アルメイダ(豊後に日本最初の病院を開設)、ガスパル・ヴィレラルイス・フロイス織田信長豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。

[編集] 日本での布教活動

日本では、他の植民地化されたアジア地域と違ってヨーロッパの影響が及ばず、本国の軍事的・経済的な支援が無かった。そのため、宣教師達はまずその土地の大名などの有力武将と会見し、南蛮貿易の利益などを訴えながら布教の許可を得ると共に、安全の確保を図った。これ以前、1543年にはポルトガルの船が種子島に難破しており、火縄銃などが伝来していた。大名は、独自に南蛮人との交易の道を模索している真っ最中であり、ザビエル達は来日当初、大名達から基本的に歓迎された。

この過程の中でキリスト教に触れた大名たちの中にも、洗礼を受けるものがあらわれた。彼らがキリスト教を信仰した理由は、キリスト教の理念に真剣に惹かれた者の他、単に南蛮との貿易をより円滑かつ大規模に行いたいため、または南蛮の文化や科学技術を習得する目的から信仰するようになった者もいた。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名なものとして大友宗麟大村純忠有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長蒲生氏郷などがいる。

なお布教当初は、言葉の問題や、ヤジロウが聖書のデウス(神)を大日と訳した事、ザビエルらが仏教発祥の地であるインドから来た事、日本人の間で外来の宗教と言えば仏教という考えが強かった事など、複数の要因からキリスト教は天竺教などと呼ばれ、仏教の一派と誤解される事も多かった。布教当初、知らずに仏教用語を使っていたことがキリスト教の正確な理解を妨げていると認識したザビエルらは、仏教用語を出来るだけ廃した「原語主義」を採用していく事となる。

イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これは同時代のヨーロッパ人の、非ヨーロッパ文化に対する態度としては他に例をみないものであり、イエズス会の先進性と日本人の資質の高さがあいまって生み出されたものだった。適応主義と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進んだ。例外的に日本人には司祭になる能力も適性もないと考えて軽視したフランシスコ・カブラルが布教長であった時代、ポルトガル人と日本人たちの間で溝が深まって宣教活動が停滞した。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたヴァリニャーノは各地をまわって実情を視察した上で、カブラルを解任してその方針を否定、従来行われていた適応主義の復活を命じた。ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、各地にセミナリオ(小神学校)とノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置した。これらの学校では当時の学術語であったラテン語、日本語および哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させていた。これは人文主義的素養を重視したイエズス会の教育方針によるもので、イエズス会による教育は日本の明治以降の学校教育の先取りともいえるものであった。

さらにヴァリニャーノは将来の日本を担う少年たちに直接ヨーロッパを見せ、同時にヨーロッパに日本の存在をアピールしようと天正遣欧使節1582年-1590年)を企画。イエズス会員に伴われた四人の少年たち(伊東マンショ原マルチノ千々石ミゲル中浦ジュリアン)はヨーロッパ各地で熱狂的な歓迎を受け、使節の企画は大成功を収めた。

[編集] 秀吉とキリスト教

日本二十六聖人の記念碑

織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。彼の後をついだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。

しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって無数の神社が焼かれ、仏教徒が迫害を受けているとの報告を聞き、激怒した。また秀吉は日本人が奴隷となって海外に売られている実態も知り、九州征伐完了直後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚して、当時ポルトガル商人によって行われていた日本人奴隷の貿易をやめ、海外の日本人を帰国させるよう命令する。

しかしコエリョは、奴隷をポルトガル商人に売る日本人が悪いと開き直り、日本人に対して行われた奴隷貿易を黙認した[4]。宣教師達がポルトガル奴隷商人に対して「奴隷購買者破門令」を発布したのは、日本二十六聖人が殉教してから10年後の事であった。

この態度に激怒した秀吉は、懲罰的な意味から伴天連追放令を発した。コエリョは有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した[要出典]。有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる[5]

一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師達は立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。

しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会ドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)当時のイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化した事で、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。

サン・フェリペ号事件1596年)でスペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインによる領土拡大の手段である」と発言したこと、秀吉自身が九州で日本人の奴隷貿易・人身売買を大々的に行っていたスペイン人やポルトガル人の貿易商と宣教師との関係を現地で目の当たりにしてから、宣教師とキリシタンの命運は決定的となった。秀吉は当時のキリスト教宣教の危険性を認識し、1597年には京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。フランシスコ会は当時スペインの庇護によって活動していた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。

[編集] 江戸時代

徳川家康

秀吉没後、実権を掌握した徳川家康は当初キリスト教宣教を黙認していた。たとえば1598年にはスペイン人宣教師ヘロニモ・デ・ヘスース(Castro Jeronimo de Jesus)にスペイン船来航の斡旋を依頼し、江戸における教会の建設と布教許可を与えている。しかし、1600年にオランダ船リーフデ号が漂着し、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(William Adams)やヤン・ヨーステンが家康に仕えるようになる。家康は、彼らイギリス人から、最新の欧州事情の情報を得た。かつての強国スペイン・ポルトガルに対して、新興のイギリスオランダアルマダの海戦八十年戦争(オランダ独立戦争)などで勝利して追い上げている当時のヨーロッパ情勢を理解し、両陣営を競わせながら貿易の実利を得ることを狙った(ウィリアム・アダムスは、実際にアルマダの海戦に参戦していた)。

家康は、将軍職を徳川秀忠に譲り、大御所として駿府に引退した後の1607年にもイエズス会員フランシスコ・パジオ(Francisco Pasio)を引見し、外国人宣教師の滞在と布教の許可を与えている。

家康は貿易の実利を求めながらもキリスト教そのものには一貫して無関心であった。これは、三河一向一揆で宗教に苦しめられた記憶があったからとの説がある。また、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由は無くなった。

1612年岡本大八事件(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらもキリシタンであったことから、家康は諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近崇伝の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。1619年に京都で52名が殉教し、1622年に長崎で55名が殉教(元和の大殉教)、1623年江戸でも55名が殉教した。以後禁教令の解除まで250年程度の間キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害されることになる。

[編集] 島原の乱

1637年に肥前島原と天草で百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成)3万人が蜂起した事件は幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩(天草を支配)による残酷な収税制度にあったが、同地にキリシタン大名であった有馬家、小西家統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態が再来する危機を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみにでることを幕府が恐れたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された(幕府が反乱の原因として藩による圧政を認識していた証左として、農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで当時の島原藩主松倉勝家は斬首、唐津藩主寺沢堅高は領地没収の上、自害させられている。江戸期を通じて一藩の藩主が自害でなく斬首となったのはこの一例のみである)。

この事件を重く見た幕府は1639年に寛永の鎖国令を発してポルトガル船の来航を禁止、九州沿岸の防備体制を整えると共に、キリスト教徒の根絶に乗り出した。やがてキリスト教布教と直接の関係がないオランダの商館も出島に移転され、商船の入港が制限されるようになった。各地で宗門改制度が整備されると、キリスト教の禁止は幕藩体制の根幹に組み込まれていく。

[編集] 鎖国

壊滅したかに見えたキリスト教徒たちであったが、九州の一部では信徒たちが宣教師たちの教えを口伝えに伝え、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていった。これが隠れキリシタンである。彼らは仏教徒を装いながらも信仰をひたすら守り、キリスト教を自由に信仰できる日が来るのを待ち続けた。

ヨーロッパのカトリック教会はキリスト教徒が完全追放された日本に興味を持ち続けた。日本における教会の発展と受難の物語はヨーロッパで語り継がれ、多くの人々がこの東洋の国への再宣教の日が来ることを待ち続けた。鎖国令以降、江戸期の日本に渡航した数少ない宣教師の1人にイタリア人教区司祭ジョバンニ・シドッチ(Giovannni Sidotti)がいる。シドッチは鎖国下の日本への渡航を願い、教皇庁に許しを求めていた。教皇庁は殉教することが明白な地に司祭を送ることはできないと拒絶したが、シドッチの再三の願い出に教皇クレメンス11世は特別な許可を与えた。1708年、シドッチは苦労のすえ屋久島に上陸したが、すぐに捕らえられ、長崎を経て江戸に送られ、死ぬまで切支丹屋敷にいた。江戸では儒学者新井白石が取り調べにあたったが、シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受け、尋問というよりは対話という形で多くの新知識を学び取った。その成果が『西洋紀聞』『采覧異言』である。

[編集] 幕末から明治時代

アメリカ合衆国からの要求をきっかけに日本は西洋諸国に門戸を開くようになった。1858年には日米修好通商条約日仏修好通商条約などが結ばれたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日した。

[編集] カトリック教会の復興

鎖国期を通じて教皇庁は日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見てフランスに本部を置くパリ外国宣教会に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード(Theodor Forcade)神父が那覇に派遣され、二年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。その後1855年から司祭メルメ・ド・カション(Merumet de Cachon)、セラフィン・ジラール(Prudence Seraphin-Barthelemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ(Louis Theodore Furet)の三人が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年に横浜に開国以来最初のカトリック教会(聖心教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として「二十六聖人の列聖」(1862年)が行われたことがあげられる。

大浦天主堂

1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン(Bernard Petitjean)神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒であることを告白、神父は驚愕した。これを長崎の信徒発見という。しかし、信仰を表明して司祭の指導を受けるようになった信徒たちは幕府の指示でとらえられた。彼らの身柄を受けついだ明治政府はキリスト教禁止の踏襲を表明、信徒たちを各地へ流罪とした。これが浦上四番崩れである。なお、明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒は、カトリックに留まらず、他教派の宣教師によって改宗した日本人信者も含んでいる。明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。後に岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の禁止が条約改正の最大のネックになっていることに気づいたため、1873年にキリスト教禁止令は解かれたが、弾圧への補償はとくにしなかった。

カトリック教会は復興当初から宣教のみならず、教育と社会福祉事業に力を注いでいた。早くも1872年にはプティジャン司教の招きによってフランスから幼きイエス会(サン・モール会)が招かれている。最初の5人の修道女たちは横浜に修道院と孤児院を建てた。1888年には彼らの手で築地に高等仏和女学校が開かれた。これが後の雙葉学園の前身である。プティジャン司教は同じくフランスの女子修道会であるショファイュの幼きイエズス修道会にも修道女の派遣を依頼、これにこたえて1877年に来日した四名は神戸で孤児院と学校(後の信愛女学院)を開いた。1878年には同じくフランスからシャルトル聖パウロ修道女会が来日、函館に仏蘭西女学校を開設した。同学校は白百合学園へと発展していく。キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年上智大学を開いている。

[編集] プロテスタント教会他の動向

プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年到来の米国聖公会ジョン・リギンズ(John Liggins)とチャニング・ウィリアムズ(Channnig Williams)であった。これを皮切りに1859年中には,「ヘボン」とよばれた長老派教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)をはじめとし、アメリカのオランダ改革派教会から派遣された牧師サミュエル・ブラウン(Samuel Robbins Brown)とグイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)、ダン・B・シモンズ(Danne B.Simmons)などが続々と来日した。さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル(Jonathan Goble)、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ(James Ballagh)などが日本の土を踏んだ。これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループである。

やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(American Board of Commissioners for Foreign Missions)のダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)が来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)が函館に着任した。

近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがある。それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」である。ここでいうバンドとは「団体」という意味である。

1863年にヘボンの開いた横浜英学所(ヨコハマ・アカデミー)はジェームズ・バラの弟ジョンに引き継がれ、バラ学校と呼ばれていた(バラ学校は1880年に築地居留地に移転して築地大学校となる)。1872年、押川方義東北学院創立者)らバラ学校の青年たちが信仰を告白し、洗礼を受けた。このグループが「横浜バンド」である。同じ年、横浜に最初の教会「日本基督公会」(海岸教会)が開かれた。1873年にはサミュエル・ブラウンの自宅に集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足。生徒の中には前出の押川方義のほか、青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである井深梶之助、植村正久らがいた。このバラ学校とブラウン塾の流れから1877年に東京一致神学校が生まれ、1887年に東京一致英和学校(築地大学校の後身)・東京英和予備学校と統合した上で白金に移転して明治学院が誕生した。また,一時帰国していたブラウンと共に1869年に来日したメアリー・キダー(Mary E. Kidder)が,ヘボンの診療所で教育していた。ここから後のフェリス女学院が誕生する。

1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官リロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lancing Janes)は会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たちが信仰に入った。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループは、熊本洋学校廃止によってジェーンズが大阪英学校に移るとこれに従い、ジェーンズがすすめたことで(新島襄が1875年に開いた)同志社英学校に加わった。その中に宮川経輝、小崎弘道(同志社第二代総長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいた。

ウィリアム・スミス・クラーク

札幌農学校で教壇に立ったウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)とメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)である。クラークの教え子たちの中には佐藤昌介大島正健内村鑑三新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいた(内村鑑三はのちに「無教会主義」を唱えることになる)。

日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展した。横浜バンドの流れから「日本基督教会」が、「熊本バンド」から日本組合基督教会が生まれた。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソヂスト教会が誕生した。初期の宣教師たちの宿願であった日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすすめられ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版された。

なお、福音派(特にホーリネス運動)の源流の1つで「松江バンド」(1893年)というものもある。聖公会牧師バークレー・バックストン松江市での伝道が始まりであり、竹田俊造三谷種吉堀内文一らを輩出。日本伝道隊日本イエス・キリスト教団関西聖書神学校などの設立に関わった。

[編集] 正教会の動向

ニコライ・カサートキン

日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会ニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが嚆矢である。当初からニコライは「日本人への伝道・日本正教会の建設」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。派遣したロシア正教会上層部もまた同様の考えであった。その後もニコライは、この基本方針を貫いた。

函館・仙台の人士が初期の信徒を構成した為、函館・東北地方での浸潤がまず始まった日本の正教会だが、1872年に神田駿河台の土地2300坪を得て、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議が東京で開催される。1880年にはニコライは主教叙聖され、この時からロシア正教会から派遣される主教を待たずに司祭輔祭を叙聖する事が出来るようになり、日本正教会神品が増加する環境が整った。1880年には現存するものの中では日本最古の木造教会建築である、石巻ハリストス正教会の聖使徒イオアン会堂が完成。1891年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。

また出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国した山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。正教会は急速に教勢を拡大していく。

しかし1891年大津事件にみられるように日本の対露感情が悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本の正教会もまた各地で迫害を受けていく。1904年にはついに日露戦争が開戦される。この時、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒達を激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の敗報に苦悩していたようだが[6]、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通す事になる。同時に日露戦争時、日本の正教会は日本政府と協力し正教徒ロシア人捕虜の世話に当たり、「日本正教会」でありかつ「日本人の為だけではない正教会」である姿を両立させることとなった。

日露戦争終結直後、日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂もあわや暴徒に襲撃されるところであったということからも、当時の日本の正教会が置かれた立場が垣間見える[7]。こうした逆境にも関わらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝道師121名に達した。これは当時の日本にあって、カトリック教会に次ぐ規模であった。

明治最後の年、1912年にニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花環が与えられた。外国人宣教師の永眠に際して花環が与えられたのは異例の事であった。ニコライの伝道はその後、日本ハリストス正教会に結実する。

[編集] 明治から大正時代

内村鑑三

明治初期から中期にかけては、国をあげて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ者が増えた。しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こる。1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言しているが、この中で信教の自由は限定的なものとされた。さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていく。このような風潮を象徴する出来事が内村鑑三の不敬事件(1891年)であった。

この時期はキリスト教にとって困難な時期ではあったが、売買春の廃絶を目指した日本基督教婦人矯風会(1886年)の発足や、石井十次による岡山孤児院(1887年)、石井亮一の聖三一孤女学院(1891年、後の滝乃川学園)のような養護施設活動、山室軍平による救世軍運動(1895年)などキリスト教的社会福祉事業、社会運動が起こっている。このことはキリスト教精神がようやく日本社会に浸透し、社会への働きかけという形で実を結び始めたことの証ともいえる。

明治の終わりから大正期にかけて、明治時代後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏基による三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのような印象を与えたが、その一方で昭和に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働組合運動など活発に社会運動を行ったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながった。

なお大正以降の正教会の動向については、日露戦争ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なる為に独特の経緯を辿った部分が少なく無い。詳細は(日本正教会の)大正・昭和時代を参照。

[編集] 昭和から平成へ

[編集] 軍国主義の時代

昭和期に入ると、国中が軍国主義に染まり、軍国主義のイデオロギーとして国家神道が利用されるようになると神道以外の宗教団体への圧力が強まった。特に教育や思想の分野において国粋主義が強化されたことで西洋の宗教であるとみなされたキリスト教は苦しい立場におかれることになった。1931年満州事変が勃発すると国家の主導権は完全に軍部の手に握られた。1939年に成立した宗教団体法は戦争遂行に向けてすべての宗教団体を統制しようとするものであった。これを受けて開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の決議に基づいて、1941年にプロテスタント32教派が自発的に統合し、日本基督教団が結成された。カトリック教会においても元来ローマ教皇直属の修道会と日本の各教区をすべて統合する団体として「日本天主公教教団」(現在のカトリック中央協議会の前身)が設置された。

どちらの団体も政府に求められて戦争協力を表明し、戦後になってこのことを非難された時、教会と信徒を守るためには他に選択肢がなく、苦渋の決断であったと弁解した。キリスト教にとってもっとも困難な時代であった。ほとんどの日本のキリスト教界が国家に妥協する一方、戦争反対を表明した一部の教会、再臨信仰を咎められたホーリネス系教団神社参拝を拒否した美濃ミッション等には徹底した弾圧が加えられ、解散に追い込まれた。弾圧の中で命を落とした者にホーリネスの菅野鋭などがいる。

この時代に日本正教会は大主教ニコライの後継者であるロシア人府主教セルギイ・チホーミロフをその任から解き日本人を主教にするよう当局から圧力がかかり、府主教セルギイは引退を余儀なくされた。代わってニコライ小野帰一が主教に着任した。

[編集] 戦後

1945年8月に戦争が終わると、進駐してきたGHQの指示によって国家神道が廃止(1945年)され、かつて「現人神」とされた天皇が人間宣言(1946年)を行った。日本国憲法(1946年)によって完全な信教の自由が認められると、海外のキリスト教諸団体は活発に宣教師を派遣し、戦争で荒んだ心の癒しを求める人々も教会に足を運ぶようになった。かねてから準備されていた口語訳聖書も出版(新約1954年、旧約1955年)された。

二つの世界大戦を防げなかったこと、戦後も冷戦構造の中で精神的な指導力を発揮できないことへの反省から、1962年以降、カトリック教会で「アジョルナメント」(現代化)を目指した公会議(第2バチカン公会議)が行われた。この会議ではカトリック教会の冷静な現状認識と今後の方向性が確認された。その中でヨーロッパ中心的な思考にとらわれすぎていたカトリック教会の姿勢が正され、もっと世界規模の視野を持って教会のあり方を考える必要性が痛感された。公会議のこのような精神に沿って教会生活全体の見直しが行われたが、その一環として典礼の国語化がすすめられた。

日本でもミサをはじめとする典礼の日本語式次第と典礼の中で用いられる日本語聖歌(典礼聖歌)が作成された。また公会議では他宗教、特にキリスト教他教派への敬意と対話という方針がはっきりと打ち出された(エキュメニズムと呼ばれるこの宗教間対話の動きはもともとプロテスタントの中から起こったもので1910年のエディンバラ会議を嚆矢とする)こうしたエキュメニズムの精神にそってプロテスタント諸教派とカトリック教会の聖書学者が結集して聖書の翻訳事業が行われることになった。ここに共同訳聖書1978年)が完成し、さらに共同訳聖書における問題点を改善して出版されたのが新共同訳聖書1987年)である。

1959年は、プロテスタント宣教百周年記念行事が、エキュメニカル派福音派で別々に開かれた。エキュメニカル派では日本キリスト教協議会、日本基督教団を中心として開催され、一方、福音派(聖書信仰派)はイムマヌエル綜合伝道団蔦田二雄ホーリネス車田秋次日本キリスト改革派教会のマキルエン、常葉隆興、岡田稔を指導者として、日本宣教百年記念聖書信仰運動を展開し、翌年、日本プロテスタント聖書信仰同盟の発足を見た。この働きが新改訳聖書(新約1965年、旧約1970年)の出版と日本福音同盟の成立(1968年)につながった。エキュメニカル派は世界教会協議会(WCC)と交わりを持ち、福音派は世界福音同盟ローザンヌ運動と交わりを持っている[8][9][10]

このように西方教会諸派が戦後に日本で教勢を回復する一方で、日本正教会は戦後を迎えてもなお安定する事は無かった。第二次世界大戦も他教派と同様に正教会にとり苦悩の原因であったが、それ以上の長期に亘る苦悩の原因としてソビエト連邦の存在があったためである。共産主義諸国で弾圧を受けており、経済的・人的援助はロシア正教会から行われなかったにも拘わらず、正教会は「アカ」のレッテルを貼られて各地で教勢を衰退させた。また、日本正教会内部も、ソビエト連邦による弾圧・監視下にあるモスクワ総主教庁の意思の真正性に対する疑問から、母教会たるロシア正教会との関係をどのような形にするのかについてロシア革命直後から戦後しばらくまで様々な立場に割れた状態が続いており、これも教勢衰退の原因となった。1970年になってモスクワ総主教庁とアメリカ正教会と日本正教会の合意が成立し、日本正教会はロシア正教会を母教会とする自治教会の祝福を得ることで、ようやく教会組織の安定を得た。2000年5月には史上初めてモスクワ総主教アレクシイ2世が日本を訪問した(逆に言えば日本正教会はロシア正教会の子教会であるにも拘わらず、モスクワ総主教が訪日した事が歴史上実に一度も無かったことを意味する)。来日時、アレクシイ2世は日本正教会の首座主教の着座式を執り行うとともに、天皇とも会見している。また、着座式にはアメリカ正教会からも首座主教の出席があった。混乱の時代を経ながらも、日本正教会は明治時代の日本語訳による奉神礼を守り続けて今日に至っている。

[編集] 現状

2001年現在、日本におけるキリスト教徒の概数は人口の1%を超えていない。大まかな内訳はカトリック教会50万人、プロテスタント諸教派総計50万人、日本ハリストス正教会1万人などである。

[編集] 参考書籍

  • 大貫隆他編、『岩波キリスト教辞典』、岩波書店
  • 太田淑子編、『日本史小百科 キリシタン』、東京堂出版
  • 五野井隆史、『日本キリスト教史』、吉川弘文館
  • 『日本キリスト教歴史大辞典』、教文館
  • 中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波新書、1996、ISBN 4-00-430458-X

[編集] 脚注

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  1. ^ 日本キリスト教歴史大事典編集委員会『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、ISBN 9784764240056、の「景教」の項目。広隆寺が何らかの役割を担っていた、といった記述もある。複数の文献が掲載されている。
  2. ^ 平凡社編『世界大百科事典』第7巻、平凡社、502頁
  3. ^ 景教の日本への伝播によってイエス・キリストの誕生時の物語も日本にも伝わり、そのイメージを重ねる形で聖徳太子が馬小屋の前で生まれたとされ、その幼名が厩戸皇子となったとする説もいくつかの通俗本などで書かれているが、これに関しては証拠があるわけではなく、想像の域を出ない。
  4. ^ コエリョは一切の対策を取らず、ただ秀吉の出した布教許可書に基づいて布教したに過ぎないと反論するばかりだった。[要出典]
  5. ^ 下山晃. "コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷". Shimosan's OpenLab - Slavery in Japanese Society : 日本社会と奴隷制. 2008年8月6日 閲覧。
  6. ^ 参考図書:ニコライ著/中村健之介 ・中村喜和 ・安井亮平 ・長縄光男編訳『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学出版会
  7. ^ 出典:中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』191頁~194頁、岩波新書(1996年:第一刷) ISBN 9784004304586
  8. ^ 中村敏『日本における福音派の歴史』いのちのことば社
  9. ^ 『クリスチャンの和解と一致』地引網出版
  10. ^ 参考文献:牛丸康夫『日本正教史』日本ハリストス正教会教団 1978年

[編集] 関連項目

最終更新 2009年9月12日 (土) 22:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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