日本交通 (東京都)
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| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 本社所在地 | 〒140-8586 東京都品川区八潮3-2-34 |
| 設立 | 1945年12月1日 |
| 業種 | タクシー・ハイヤー業 |
| 事業内容 | タクシー・ハイヤーによる一般乗用旅客自動車運送事業及びマネジメント、自動車整備事業ほか |
| 代表者 | 川鍋一朗 |
| 資本金 | 1億円 |
| 売上高 | 470億9,820万円 |
| 従業員数 | 6,629名 |
| 関係する人物 | 川鍋秋蔵・創業者 |
| 外部リンク | http://www.nihon-kotsu.co.jp/ |
日本交通株式会社(にほんこうつう、通称日交(にっこう)、Nihon Kotsu Co.,Ltd.)は、東京都を中心にハイヤー・タクシーを運行する事業者であり、グループ売上高では日本最大のハイヤー・タクシー会社[1]である。「桜にN」のマークが目印。都内にタクシー約1,700台[2]、ハイヤー約570台を擁する。本社は品川営業所のある東京都品川区八潮。
なお呼称については、「にっぽんこうつう」「NIPPON KOTSU」あるいは「NIPPON TRAFFIC」と表記もしくは称される時期もあったが、現在は「にほんこうつう」「NIHON KOTSU」とするのが正式である。
以前は観光バス部門を有していたが、2005年に売却されている[3]。ニッコー観光バス参照。
目次 |
[編集] 営業
ハイヤー
- ハイヤーは、国内最高級セダン車両を用いた個別輸送機関。タクシーのような流し営業を行わず、注文による定期送迎、来賓・国賓送迎、冠婚葬祭時の利用などが中心である。一部に1BOXタイプの車両がある。
- ハイヤー車両は基本的に全車黒色である。クーラーの無い1950~1960年代には、天井のみ白くした「日交カラー」のハイヤーが存在したが、クーラーの装備とともに再び黒一色に統一された。
- 自家用車の運行管理請負のアウトソーシングも行っている。
タクシー
- タクシー車両は、黄色に赤い帯の東京四社営業委員会の統一カラーと黒一色の「黒タク」が存在する。1952年にタクシーのカラー化を業界に先駆けて行い、前年に渡米視察した川鍋秋蔵社長がアメリカのイエローキャブをヒントに天井がブルー、ボディがグレーという「日交カラー」を提案統一した。その後、1963年からライトスカーレットオレンジとレモンイエローの四社統一カラーに変更[4]、1969年から現行四社カラーとなる。黒タクは2001年から。一部にワゴンタイプのタクシー車両もあるが、カラーは黒である[5]。日交本体の車両にはボンネットから屋根、トランクにかけて赤帯が塗られているが、提携会社の車両ボディ側面のみである。
- タクシーの車種はかつてクラウンコンフォート・デラックスとセドリック・スーパーカスタムを導入していたが、黒タク導入後は車体色関係なしにクラウンセダン・スーパーデラックスGパッケージとセドリック・クラシックSVを導入している。
- タクシーにはGPS無線システムを導入し、カーナビゲーションと連動させ、配車効率を向上。「GPSコード」を入力すればカーナビに目的地情報を表示することも可能。
- ドライブレコーダーをタクシー全車に装着しており、事故の際の記録のみならず、データの分析により事故の未然防止活動にも役立っている。
- 日本交通では接客サービス品質を重視しており、高品質化のための様々な社内的取り組みを行っている。特にタクシーのビジネスクラスに相当するハイグレードタクシー「黒タク」は、通常のタクシー料金でハイグレード車両を使用するのみならず、乗務員も特別な講習を受けた有資格者が乗務する。本社「パトロールカー」が定期的に都内を巡回して、サービス品質の維持に努めている。アイドリング・ストップにも積極的に取り組み、チーム・マイナス6%参加とともに環境品質の強化にも取り組んでいる。
- 都内各所に日本交通の専用タクシー乗り場を設置するとともに、営業提携として「日本交通ブランド」のフランチャイズにより都内タクシー台数を確保し、「すぐ乗れる」タクシーを目指す営業展開をしている。
制服
- 2006年10月1日より、乗務員の制服を14年ぶりに一新している。今回のものは、「礼服」をコンセプトとし、ハイヤーや黒タクなどの黒塗り高級車両においても、その場の雰囲気を崩さず高級感が出るようにデザインされた。日本交通としては初めてベストを採用し[6]て、季節を問わず統一感が出るように配慮されている。黒を基調としたもので、上着の左腕とベストの左胸にロゴマークが入っているほか、袖口にボタンが無いのがデザイン上の特徴。また、素材には再生ペットボトルを使用し、環境保全も考慮している。なおデザイナーには、長野・シドニーオリンピック日本選手団公式ユニフォームを手掛けた、大矢寛朗が起用されている。
- 1992年4月[7]に導入した旧制服は、ネイビーブルーを基調としたスーツ[8]に、ネクタイに赤いストライプを用いた、若々しさを狙ったものであった。なお当初の女性用は、バスガイド用制服と同様の4つボタンでウエストの絞りのあるジャケットに、男性ネクタイと同じ柄のリボンという、全く異なるデザインのものであったが、1998年に男性用制服に近いデザインにモデルチェンジしている。これは、当時日本交通が女性乗務員を初めて採用した時期であり、そのためバスガイドの制服をベースに準備したものと思われる。しかしその後女性乗務員数が増えるに伴い、アンケートを実施したうえでモデルチェンジするに至った。
- 日本交通における制服は、川鍋自動車商会時代の1936年4月に導入したのが最初であった。揃いの折目正しい制服・制帽の着用によって乗務員の品位を高めようと制服を制定したもので、緑色のサージ、ダブルの金ボタンつき、帽子は黒の海員帽であった。その後1937年に東宝自動車に組織改変した際には、上衣を紺、ズボンを霜降りに変更している。1945年の日本交通発足の際は、12事業者からなる新会社であったため、すぐには制服の統制が出来ず、衣料事情も好転した1951年1月になって制服貸与規定を制定し、まずは乗務員に制帽を着用させた。そして翌年1月から全員に紺ダブル上下の制服を着用させた。なお、夏は白[9]の開襟シャツであった。制帽は濃紺の海員帽で、記章には、「桜にN」に月桂樹を金モールであしらい、夏季は白い日覆いをかけるようにした[10]。
社章
- 社章には創業以来「桜」が用いられ、1945年に日本交通が設立された際に、現在の社章が制定されている。桜が選ばれたのは、日本の国民性の象徴として親しまれていることから、明朗・親切を尊ぶハイヤー・タクシー業にはふさわしいと認められたためと伝えられる。
[編集] 歴史
創業から日本交通の設立まで
- 1928年4月、川崎造船所の運転手だった川鍋秋蔵が独立し、ハイヤーの個人営業を開始[11]。
- 1929年6月、銀座木挽町において川鍋自動車商会を設立。
- 1931年6月、おりからの不況に対して、大型車6台を売却し小型プリムス10台を購入することで乗り切る。
- 1934年7月、箱根で6台による夏季営業開始。
- 1936年4月、初めて制服・制帽を制定する。
- 1937年5月、東宝自動車株式会社を設立し、川鍋自動車商会は、同社に一部事業を譲渡。
- 1938年4月、日東自動車株式会社と改称。川鍋自動車商会は、同社に事業譲渡。
- 1938年1月、 東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄)がタクシー会社を統合する目的で東京タクシー株式会社を設立。
- 1940年3月、民衆タクシー株式会社を合併。
- 1940年10月、タクシー営業を開始。
- 1945年1月16日、日東自動車と東京タクシーを中心に11社1個人が経営統合する覚書を調印。
- 1945年7月1日、覚書を交わした12事業者による共同経営を開始。
- 1945年12月1日、日本自動車交通株式会社を設立し、11社は同社に事業を譲渡。
- 1945年12月29日、日本交通株式会社と改称。
日本交通の設立以降
- 1947年11月、本社を西神田へ移転。
- 1949年11月、横田営業所の15台に、車体に桜のマークを付ける[12]。
- 1950年12月、本社を赤坂溜池へ移転。
- 1951年1月28日、小田原交通株式会社[13]を傘下に収め、箱根地区に進出。
- 1951年6月15日、日本遊覧自動車株式会社[14]を傘下に収める。
- 1951年6月30日、東急系持株[15]の殆どが川鍋側に移行。川鍋家のオーナー企業となり、日交グループを形成。
- 1951年7月23日、五島慶太に顧問委嘱。
- 1951年、業界で初めて屋上灯を採用。
- 1952年4月1日、株式会社埼玉タクシー[16]を傘下に収め、郷里に進出。
- 1953年1月、立川営業所を開設し、多摩地区に進出。
- 1953年4月1日、日本遊覧自動車から観光バス事業を譲受し、兼営開始。
箱根交通・大宮交通[17]の事業も併せて譲受し、本社直営とする。 - 1960年、無線タクシー運行開始。
- 1964年、LPG車導入。
- 1969年6月、日本交通連合厚生年金基金が発足。
- 1969年12月、富国交通株式会社を買収。第十日本交通株式会社に商号変更。
- 1978年7月、常盤台、千住に新営業所を開設し、営業所を集約。
- 1980年7月、小型タクシーを導入[18]。2001年には小型タクシーの営業を終了した[19]。
- 1983年5月、TQC導入宣言。
- 1983年9月30日、川鍋秋蔵逝去、享年84。
- 1983年10月、川鍋達朗が代表取締役社長に就任。
- 1986年8月、小田原地区を小田原日交株式会社(現:日本交通小田原株式会社)に分社。
- 1989年6月、運行管理請負を営業開始。
- 1990年11月、稲城中央交通有限会社を買収。1991年4月に多摩日交有限会社に商号変更。
- 1991年7月、日米美術協会主催の美術展「Srange Adstraction―現代アメリカの先鋭たち」を協賛。
- 1991年8月、「第3回世界陸上競技選手権大会」を協賛。
- 1996年3月、中央無線に加盟していたこだま交通株式会社[20]を営業譲受される。
- 1996年5月、ハイヤー乗務員に救命技能訓練を実施。
- 1997年7月、立川地区を立川日交株式会社(現:日本交通立川株式会社)に、さいたま地区を埼玉日交株式会社(現:日本交通埼玉株式会社)にそれぞれ事業譲渡。
- 1997年3月、品川区八潮に営業所を集約し、品川営業所を開設。
- 1998年6月、観光バス事業を日本交通観光バス株式会社に事業譲渡。
- 1998年3月、日交埼玉のタクシー78台で電子マネー実験。
- 2000年2月、品川営業所で福祉タクシー1台を導入。
- 2000年6月、タクシー無線の顧客登録配車システムを導入。
- 2000年7月、株式会社日交マイクルを設立。ミニバンを用いた新型会員制ハイヤー及びリムジンタクシーの「My Crew」(マイクル)の営業を開始。
- 2001年10月、ハイヤー営業所を集約し、中央営業所を開設。
- 2001年9月、「黒タク」導入。
- 2001年10月、愛宕グリーンヒルズに日本交通専用のタクシー乗り場を開設。
日本交通の新しい動き
- 2002年5月、本社を品川区八潮へ移転
- 2003年3月、日本交通多摩有限会社[21]が日本交通立川株式会社に事業譲渡。
- 2003年4月[22]、無線電話に英語専用ダイヤル「Taxi English Phone」開設。
- 2004年6月、日交マイクルを経営統合して一般ハイヤー・タクシー事業に吸収。
- 2004年11月、ハイヤー新橋営業所を銀座営業所へ統廃合。
- 2005年4月、東洋交通、睦交通と業務提携。
- 2005年5月、扇橋交通、三和交通東京営業所と業務提携。
- 2005年7月、藤田無線グループ各社、ワイエム交通と業務提携。
- 2005年8月、川鍋一朗が代表取締役社長に就任、川鍋達朗は会長に就任。
- 2005年8月31日、川鍋達朗逝去、享年67。
- 2005年9月、日本交通埼玉が移転。
- 2005年9月、三鷹営業所が移転。
- 2005年9月、日本交通観光バスを売却。
- 2005年11月、赤羽営業所を開設。
- 2005年12月、日本交通立川が移転。
- 2006年1月、グランドハイアット東京の宿泊ゲスト専用のハイヤーとして、ポルシェ・カイエンを導入。
- 2006年2月、藤田無線閉局に伴い、無線受注を引き継ぐ。
- 2006年4月、タクシーにアイドリングストップ機能付車両を導入開始。
- 2006年4月、国際自動車と共同でJR東日本のSuica導入を発表。
- 2006年5月、常盤台営業所が池袋サンシャインシティへ移転し、池袋営業所に名称変更。
- 2006年5月、千住営業所が移転。
- 2006年6月、日本交通が分社化。同時に第十日本交通は日本交通に事業譲渡。
- 2006年8月、監査室、事業開発部を設置。
- 2006年10月、大矢寛朗デザインの新制服を導入。
- 2006年11月、ハイヤーお茶の水営業所を赤坂営業所に統廃合。
- 2007年7月、東洋交通の全株式を創業者の西村家より取得。
- 2008年8月、NASVAネットを導入。
- 2008年10月、蔦交通の全株式を取得。フランチャイズ化は2009年4月~。
- 2008年10月、タクシー車両にトヨタ・プリウスを本格導入(2009年2月にかけて130台を代替)
- 2009年3月、ドコモIDおよびQUICPAY(QP)決済サービスを開始
- 2009年7月、陸王交通と業務提携[23]。
- 2009年8月、ハイヤー日比谷営業所を中央営業所に統廃合。
- 2009年8月、ベタープレイス・ジャパンと共同で、電気自動車(EV)バッテリー交換のタクシー向け実証実験を近く始めることを発表。
[編集] 営業所(車庫)の所在地
ハイヤー営業所
タクシー営業所
整備工場
- 池袋整備場
- 千住工場
- 品川工場
- 三鷹工場
採用研修センター
- 採用研修センター(中央区日本橋小網町)
専用乗り場
- 愛宕グリーンヒルズ
- 銀座営業所
- 品川インターシティ
- 六本木ヒルズ(日の丸自動車との共同運営)
- 東京ミッドタウン(帝都自動車交通との共同運営)
- 泉ガーデン
- 汐留住友ビル
- ロイヤルパーク汐留タワー
- 東京汐留ビルディング
- 住友不動産三田ツインビル西館
- セルリアンタワー東急ホテル
- ロイヤルパークホテル
- 汐留ビルディング(帝都自動車交通・大和自動車交通との共同運営)
[編集] 関連会社
- 日本交通小田原(神奈川県小田原市浜町)
- 日本交通立川(立川市富士見町)
- 日本交通埼玉(埼玉県さいたま市北区今羽町)
- 日交サービス(品川区八潮)
- 日交データサービス(中央区日本橋小網町)
- 日本交通健康保険組合(中央区日本橋小網町)
- 日本交通連合厚生年金基金(中央区日本橋小網町)
営業提携会社
- 東洋交通(北区浮間)
- 扇橋交通(江戸川区西小岩)
- 三和交通東京営業所(板橋区赤塚新町)
- 春駒交通(北区浮間)
- 春駒交通 練馬営業所(練馬区練馬)
- 日立自動車交通第二(足立区綾瀬)
- 日立自動車交通第三(葛飾区金町)
- 睦交通 本社(品川区南大井)
- 睦交通 羽田営業所(大田区京浜島)
- ライオン交通(葛飾区青戸)
- ワイエム交通(江東区辰己)
- 蔦交通(葛飾区東金町)
- 陸王交通 本社(板橋区中丸町)
- 陸王交通 赤羽営業所(北区赤羽南)
[編集] 備考
[編集] 日本交通の設立について
設立の経緯について
- 第二次世界大戦時に政府の交通統制を受けて、1944年11月に警視庁から「都内約4500台のハイヤー・タクシーを四社に統合し、1社1000台を確保する」という通達(旅客自動車運送事業統合要綱)が出されたことによる[24]。
- 当時は、業界最有力であった京成電鉄の後藤圀彦社長が大がかりな業者吸収に着手していたが、当時共に単独で企業統合を行いながらも行き詰まっていた川鍋と東急とが手を携える形で、11社1個人による新会社設立を果たす。
- 1945年7月より11事業者[25]が共同経営を開始、1945年8月には協心相互自動車(株)も参加した。
- 統合の経緯に関しては、川鍋側と東急側で若干認識が異なっている。
- 統合のキーマンは川鍋であるが、実際は川鍋が大東急の力を借りて統合したものである。このため代表者として社長には川鍋秋蔵が就任して実権を掌握するが、会長に当初は東京タクシーの品川主計、後に東急副社長の立花栄吉と東急側の人間を据えており、表向きの主導権は当初東急側が握っていた。これは出資比率も関係していて、共同経営者の出資持分の大半を日交成立時までに東急が肩代わりしたのがその理由である。
- 1947年末頃には、川鍋側と東急側の対立による川鍋排斥運動[26]があったという。しかし川鍋秋蔵は五島慶太にその手腕[27]を見込まれており、「実際に同社を執り仕切っている川鍋が自らオーナーとなって経営した方が良い」と判断し、1951年川鍋に持株の大半を譲渡し、川鍋側へ正式に経営が肩代わりされた。
- この一件に関して、当時の日交の業績から周囲より「五島が手放すには惜しい会社」と言われた。現在の日交社史等の記述が川鍋寄りなのはこのためである。
「大日本帝国」について
- 同時期に成立した大和自動車交通、帝都自動車交通、国際自動車の頭文字をとって「大日本帝国」と呼ばれる事がある。また、これは東京大手四社の意味も表し、四社共通カラーリングであるレモンイエローに赤帯、球型行灯[28]、四社共通チケットなど「東京四社営業委員会」を通じて営業的にも歩調を合わせている。
東急グループ・同業他社との関係
- 歴史的な経緯から日交グループ形成後も東急グループの一員として列していたが、2000年頃には資本関係を解消し、東急グループからは完全に独立しており[29]、東京城南地区や箱根地区ではむしろ競合関係にある。
- 大阪ハイタク大手の同名会社である日本交通[30]とは、全く関係がないもののチケットの提携は行っている。
[編集] 歴代社長について
初代・川鍋秋蔵
- 1899年8月28日に埼玉県北足立郡宮原村(後の大宮市、現・さいたま市北区)に9人兄姉の一人として生まれた。鉄道省大宮工場(現・大宮総合車両センター)に勤めたが、独立を志して20歳で上京し梁瀬自動車商会(現・ヤナセ)でタクシー乗務員となり、後に独立を果たす[31]。
- 1947年、出身地である大宮市の市議会議員に当選。同年には宮原小学校へプールの寄贈を行っている。現在も宮原駅前には川鍋の胸像が建っている。
- 戦時統合による企業統合を進めていた当時、小山亮元代議士の紹介で、当時運輸通信大臣から東京急行電鉄の会長に返り咲いたばかりの五島慶太の知るところとなり、東急系のタクシー会社でやはり企業統合を進めていた東京タクシー300台との連携に成功し、日本交通の設立を果たせた[32]。日本交通設立後の戦後事業復興にあたっても、五島慶太による川鍋への後援は非常に大きく、1955年に東急グループが自動車産業への進出を決定した際には、日本自動車工業(後の東急くろがね工業)の社長就任を川鍋に依頼している。没後は、東急グループ所有の神社である東横神社[33]に合祀された。
- 1960年4月、それまで三団体に分裂していた東京のタクシー業界を一本化し、東京乗用旅客自動車協会を発足させたほか、二つ存在していた全国組織も同年7月に統一させ全国乗用旅客自動車連合会も発足させ、当時社会問題になっていた「神風タクシー」に対して業界の体質改善運動を行なった。
- 1970年代初頭に問題となった、タクシー不足による乗車拒否、乱暴運転の横行に対しても、業界の体質改善に取り組み、同時に「タクシー下駄・靴論議[34]」を展開し、業界の不祥事続発の根源の一つは本来は多少ぜいたくな乗り物であるタクシーが長年低い料金に抑えられていることによると主張し、マスコミを通じて一般利用者にも理解を求め、東京タクシー近代化センター(現:東京タクシーセンター)設立への流れを作った。
- 日本交通というハイヤー・タクシー業を経営し、その業界発展に尽力するかたわらで、アジア石油(現・JOMO)において石油の精製・販売業の経営、東急くろがね工業において自動車製造業の経営と、自動車産業の川上統合の可能性も有していたといえるが、これは川鍋が実業家・政治家として自動車産業を通じて日本の産業の復興と発展を志していたことの表れである。
- 交通事業を中心に実業界各方面の発展に尽くした功績から、1960年運輸大臣賞、1961年藍綬褒章、1969年9月に勲二等瑞宝章、1980年5月に勲二等旭日重光章を受章している。
- 日本電信電話公社経営委員会委員も務めた。
- 1983年9月30日没、享年84。
2代目・川鍋達朗
- 1938年1月29日生まれ。
- 1963年1月に取締役選任により入社。1983年10月社長就任。アメリカ留学で得た経営感覚で、それまでの古い体質から近代的組織への変革に尽力した。特に、1982年にはTQCを導入し、乗務員の組織単位である「班」をQCサークルとして機能させサービス品質を改善・標準化し、社内の管理・営業体制の改革を推進した。
- また、経営の安定化を目指して、ハイヤー・タクシー事業以外にも事業の柱を構築すべく、新分野への進出を推し進める。具体的には、ハイヤーのノウハウを生かせるレジャー産業や、所有不動産(営業所用地)の有効活用を図れる不動産事業への進出であり、多角化による分社経営を効率的に統括する「総本社構想」であった(下記「関連事業「日交グループ」について」参照)。
- 2005年8月30日会長就任するが翌8月31日に没、享年67。
[編集] 旧・関連事業「日交グループ」について
- 以前は30社近くの企業により「日交グループ」を形成し、「限りない信頼を未来につなぐ日交グループ」のキャッチコピーの下、グループで統一的なコーポレートアイデンティティを構築し総合サービス業を目指していた。グループ各社の持つ有形・無形の資産(不動産や営業ノウハウ)を有効活用・高度利用しながら各社の相乗効果を狙うものであり、実績として一定の評価も得てはいた[35]ものの、結果的には充分に相乗効果を活かしきれず、加えてバブル崩壊という社会情勢の変化もあり、事業再構築の中で運輸事業のみに専念することとなる。2000年頃から数年間にわたり、ハイヤー・タクシー関連以外の関係会社を全て売却・閉鎖し、自社及びグループ会社所有の不動産も一部を除き全て売却した。
現在も残る元関係会社
- 観光バス部門は、1998年より日本交通観光バス株式会社として分社化されていたが、2005年に全株式がJ-COACHに買い取られJ-COACHグループに加わった(現・ニッコー観光バス)。
- 一時期 アジア石油の経営に参加していた関係から、JOMO系列のアジア商事、昭和シェル石油系列の安全石油[36]といったガソリンスタンド会社がある[37]。
- 1996年、東京・芝浦に「ニューサテライトホテル」を開業したが、2000年にJALホテルズに運営委託、「ホテルJALシティ田町 東京」となる。2002年には経営権も別会社に譲渡されている。
- 「千葉夷隅ゴルフクラブ」、「那須黒羽ゴルフクラブ」、米国カリフォルニア州「San Juan Oaks GOLF CLUB」[38]の各ゴルフ場。
- スキー場および宿泊施設「白馬ハイランドヴィレッジ」。
- 日交オーシャンパーク(沖縄瀬良垣ビーチ、沖縄コーラルヴィレッジ)は全日空に売却され、万座ビーチリゾートになる。
- 日本で最初のピザ専門店「ニコラス」[39]を東京赤坂ほかで運営。現在はグループを離れたものの、同地で営業中。
- 日交ファシリティマネジメント(ビル管理業)、現・共立メンテナンス
- 日本建設コンサルタント(建設コンサルタント業)、現・いであ。
- 日本シューター(エアシューター製造業)
廃業した関係会社
- 1950-80年代には輸入車ディーラー、日英自動車を経営。MG・モーリス・ルノー・ウーズレイ・ポンティアック等の輸入販売を手がけ、1960年にはMini日本上陸一号車[40]も輸入している。80年代前半にはアルファロメオも手がけたが、メーカー直接出資のオースティン・ローバー・ジャパン設立時に事業譲渡して同社は解散した。
- 旅行業を営んでいた日本交通観光はグループからの離脱後、香港のエキスプレスグループの日本法人に買収され、同じく同社に買収されていたクリスタル旅行(元マイカルトラベル)と2007年に合併してエキスプレス・トラベルとなったが、2008年11月13日付で全店舗が閉鎖された。
- 日交サテライト「サテライトホテル」[41]「サテライトボウル」[42]
- 「熱海サーフサイドホテル」「軽井沢ハイランドヴィレッジ」
- 日本農林ヘリコプター[43]
- 練馬自動車教習所[44]
- 品川自動車練習所[45]
[編集] 玩具について
- 日本交通のタクシーや観光バスは古くからおもちゃやミニカーとしてたびたび登場していたが、昭和30年代はまだ色や塗装が意匠登録できなかったため、勝手に作られることもあったという。[46]
- 最近では、株式会社トミーテックが発売するカーコレクション、トミカリミテッドヴィンテージや、株式会社タカラトミーのチョロQなどの製品化がある。
THEカーコレクション
- 2004年発売「THEカーコレクション」第1弾シークレット(プリンスグロリア スーパー6=ハイヤー・タクシー、日産セドリック デラックス=タクシー)
- 2005年発売「THEカーコレクションHG」日本交通セット(同上)
THEカーコレクション80
- 2006年発売「THEカーコレクション80」第1弾 トヨタクラウンセダン(黒タク・四社カラー)
- 2007年発売「THEカーコレクション80」第4弾 日産セドリック5代目・430型、日産ブルーバード6代目・910型[47](ともに四社カラー)
トミカリミテッドヴィンテージ
- 2004年発売「トヨタクラウンRS40型」(タクシー・旧四社カラー)
- 2007年発売『日本交通 2MODELS』初代セドリック、2代目グロリア(ともにタクシー・旧四社カラー)
- 2008年発売『日本交通 2MODELS Vol.2』セドリック130型スタンダード(タクシー・四社カラー)、グロリアPA30型スーパーDX(ハイヤー・日交カラー)
- 2010年発売予定『日本交通 2MODELS Vol.3』日産グロリア230型(タクシー・四社カラー、ハイヤー・日交カラー)
全国タクシー物語(チョロQ入り入浴剤)
- 2005年発売 第1弾、チョロQ(タクシー・四社カラー)昼バージョン、夜バージョン
チョロQ
- 2008年 黒タク(創業80周年記念として制作、一般発売なし)
1/43 アンチモニー製ミニカー アドバンスピリット
- 2008年発売 230型セドリック、330型セドリック(以上タクシー・四社カラー)、プレジデント、センチュリー(以上ハイヤー)
- 創業80周年記念として制作され、I I ADO COMPANY(アイアイアド・カンパニー)より販売されたもの。
1/64 GULLIVER64 東京のタクシーシリーズ
- 2010年発売予定 クラウンGパッケージ(タクシー・四社カラー)
[編集] 脚注
- ^ 日経MJ第22回サービス業総合調査ハイヤー・タクシー部門第1位。
- ^ グループを含めると約3,000台。
- ^ 2005年9月30日付で日本交通観光バス株式会社の株式が(株)ジェイ・コーチへ売却されている。『日本交通社史 桜にN 走り続けて80年』(日本交通株式会社 社史編纂プロジェクトチーム、2008年10月発行)参照
- ^ トミカリミテッドヴィンテージで製品化された[1]
- ^ 以前は四社カラー、グレーのワゴン車両も存在した。
- ^ 旧制服では女性用のみベストがあった。
- ^ 観光バス部門は6月より。
- ^ 男性用は二つボタン、女性用は三つボタン。
- ^ 当初はタクシーのみセピア色。
- ^ 1954年10月からは清潔感を与えるために四季を通じてつけるようになった。
- ^ トンボ自動車での同居営業。
- ^ 業界初のアイディアで、その後全車に普及。
- ^ 本社は小田原市にある、1946年7月設立の休眠会社。
- ^ 1948年5月設立の後楽園資本で、東急から観光バス事業を承継。
- ^ 発行株式の5割超。
- ^ 1950年8月設立、本社・埼玉県大宮市(現・さいたま市)。
- ^ 1952年12月、埼玉タクシーを改称。
- ^ 当初はカペラその後はカスタムキャブ → クルー → コンフォート。
- ^ これと引き換わる形でハイグレードタクシー仕様による「黒タク」を営業開始。
- ^ 本社・北区赤羽。現在の赤羽営業所とは無関係。
- ^ 多摩日交から商号変更。
- ^ 本格稼働は7月から。
- ^ ただし、当面はボディカラーも白色に青のラインで自社無線を使用した陸王仕様車と東京4社カラーに塗り替え、もしくは黒ハイグレード車て日本交通の無線システムを搭載した車両が混在する。
- ^ いわゆる戦時統合による成立。
- ^ 日東自動車(株)・東京タクシー(株)・高輪自動車(株)・日本相互タクシー(株)・東芝自動車(株)・鐘ヶ淵自動車(株)・帝国自動車(株)・東京安全交通(株)・錦興自動車(株)・鶴野定助<個人>・扇自動車(株)
- ^ 当時の重役間の内紛から労組幹部と結びついた東急系重役が川鍋の排斥運動を激しく展開し、川鍋の脱税行為を国税庁に密告するほどの抗争劇であった。
- ^ 周囲からは小佐野賢治、大川博とともに「五島門下生」と並び称されるほどであった。
- ^ ランプ色は日本交通のみ白。大和・帝都。国際は緑。
- ^ 同じ東急をバックボーンとして戦時統合で発足した神奈川都市交通とは、全くの無関係であるが、東京四社営業委員会とチケットの提携は行っている。
- ^ この他、札幌、仙台、名古屋等で通称「日交」と呼ばれるタクシー会社とは一切関係はない。
- ^ 小田獄夫著『くるま人生―川鍋秋蔵』(1962年)より。
- ^ 川鍋が五島慶太に実際に面会したのは、統合直後に小山亮元代議士に連れられて五島邸を訪問したのが初めてであることを、自著『流れる銀星』(1951年、文友社発行)で述べているが、それ以降「信仰的なまでの愛情」をもって五島慶太を敬愛していたとのことである。
- ^ 横浜市港北区太尾町1014
- ^ 選択性の強い個別輸送機関たるタクシーは、市民のゲタではなくクツであり、本来大量輸送機関とは扱いを異にされるべきという理論。
- ^ 殊にグリーンクラブにおいては、千葉夷隅ゴルフクラブの(社)日本能率協会主催・サービス優秀賞特別賞受賞(1989年)、日本経営品質賞委員会主催・日本経営品質賞受賞(1997年)、那須黒羽ゴルフクラブの(財)日本科学技術連盟主催・第25回全日本選抜QCサークル大会金賞受賞(1995年)など。
- ^ 同社は今日見られるようなガソリンスタンドを1918年に設置しており、ガソリンスタンドの草分け的存在である。
- ^ その名残で、現在もアジア商事のLPガススタンドで日交のハイヤー・タクシーの燃料給油が行われている。
- ^ 日交USA(ハワイ、カリフォルニアにおける不動産開発・賃貸事業)が1996年10月に開業させたもの。プロゴルファー・フレッドカプルスが設計した。
- ^ 同社は1954年に「日本で初めてピザを紹介した店」として知られる。
- ^ 後年著名な自動車評論家となる小林彰太郎は横浜から溜池までこのモーリス・ミニ・マイナーを陸送している。
- ^ 東京・後楽園と横浜山下町にて営業し、プロ野球阪神タイガースの定宿ともなっていたシティホテル。
- ^ 板橋区前野町で営まれたボウリング場。102レーンあり、「サウナサテライト」併設していた。
- ^ 小田急電鉄と共同経営。1989年5月に富士重工業へ売却、エースヘリコプターに社名変更の後に2002年解散している。
- ^ 練馬区豊玉南3丁目。土地は売却され、現在はマンション「ルネアクアパークス」に改築。
- ^ 品川区東大井1丁目。同社は自動車教習所業界のパイオニアである名門教習所として知られた。土地は売却され、現在は分譲賃貸マンション「東京ナイル」に改築。
- ^ しかし川鍋秋蔵は「子供の頃から日本交通に親しんでもらえればいい」と考え、逆に会社で100台ほど買いクイズの景品にしたこともあったという。
- ^ ブルーバードは日本交通では、実際には使用されていなかった。
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最終更新 2009年12月4日 (金) 15:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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