日系アルゼンチン人
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| 日系アルゼンチン人 Japonés Argentino |
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| 総人口 |
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2世以降の日系人が23,000人、日本国籍保有者が11,692人(2006年10月)[1] |
| 居住地域 |
| ブエノスアイレス、ミシオネス州、メンドーサ州 |
| 言語 |
| リオプラテンセ・スペイン語、日本語 |
| 宗教 |
| キリスト教、大乗仏教、仏教、神道 |
| 関連する民族 |
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日本人、日系ブラジル人、日系ボリビア人、日系パラグアイ人、日系ウルグアイ人、日系コロンビア人、日系ベネズエラ人、日系ペルー人、日系エクアドル人、日系チリ人、日系キューバ人、日系ドミニカ人、日系メキシコ人、日系アメリカ人、日系カナダ人、アジア系アルゼンチン人 |
日系アルゼンチン人(スペイン語: Japonés Argentino)とは日本にルーツを持つアルゼンチンの市民である。
目次 |
[編集] 歴史
記録に残る最古のアルゼンチンに足を踏み入れた日本人は、1597年に奴隷であることを不服として訴訟を起こし、解放を勝ち取ったフランシスコ・ハポンである[2]。
その後、19世紀になってから本格的な日本人の海外移民が始まった後、1886年に牧野金蔵が最初にアルゼンチンに移住し、日系アルゼンチン人第一号となった。20世紀にブラジル移民が解禁され、1908年に日本からブラジルに向けて移民船の笠戸丸が出港した際、780人の日本人内160人がブラジルのサントスに着く前にブエノスアイレスで下船した。その後第二次世界大戦までに、ブラジルやペルーやパラグアイといった他の南米諸国から少なくない数の日系人がアルゼンチンに再移住した。日系人はブエノスアイレスやその近郊で工場労働者や港湾労働者として働いた他、花卉栽培や洗濯業に従事し、地方で農業に従事する者も存在した。戦前の日系人の多くは沖縄や鹿児島県の出身だった。
第二次世界大戦が始まった後、1943年に政権を握った統一将校団(GOU)の軍事政権は親枢軸と絶対中立を標榜しており、連合国との協調を重視した他のラテンアメリカ諸国よりも弾圧は少なかったことに加え、日系人へのさらに当時労働大臣となり労働者階級に大きな支持基盤を築いたフアン・ペロン将軍が親枢軸志向と親日的な傾向から日系人を重用したこともあり[3]、日本語教育や日系人の集会の禁止といった措置は採られたものの、アルゼンチンは千を超える日系人人口を擁する国としては、ほぼ唯一の財産没収やアメリカ合衆国の強制収容所への追放(日系人の強制収容)などの大規模な弾圧の歴史を持たない国となった。
第二次世界大戦後、日本政府とアルゼンチン政府の協定により、百人規模の移民が続いた。1959年にはメソポタミア地方のミシオネス州に、1962年にはクージョのメンドーサ州に移住地が設立された。
しかし、その後のアルゼンチンが政治不安により、戦前占めていた先進国の一角としての立場を失い、一方で戦後日本の急速な経済成長やバブル景気による労働力不足の影響もあり、1990年の日本の入国管理法の改正以降、少なからざる日系アルゼンチン人が日本に「デカセギ」(es:Dekasegi)や逆移住を行い、日系コミュニティの空洞化現象が指摘されている。
[編集] 言語と宗教
三世以降の多くの日系人の多くは日本語を理解せず、スペイン語が主要言語となっている。
[編集] 著名な日系アルゼンチン人
[編集] 脚註
- ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/argentine/data.html 2009年5月29日閲覧
- ^ http://moscar.hp.infoseek.co.jp/fjapon.htm 2009年5月29日閲覧
- ^ 津田正夫 『ボカ共和国見聞記 知られざるアルゼンチン』中公文庫、1984年 pp.130-131
[編集] 参考文献
- アルベルト松本 『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年(ISBN 978-4-7503-2185-1)
- 津田正夫 『ボカ共和国見聞記 知られざるアルゼンチン』中公文庫、1984年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
http://fananikkei.exblog.jp/i17/
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最終更新 2009年10月12日 (月) 21:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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