日進 (装甲巡洋艦)
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| 艦歴 | |
|---|---|
| 発注 | |
| 起工 | 1902年3月29日 |
| 進水 | 1903年2月9日 |
| 就役 | 1904年1月7日 |
| 除籍 | 1935年4月1日 |
| その後 | 1935年砲弾実験中に転覆 |
| 性能諸元(竣工時) | |
| 排水量 | 基準:7,700t |
| 全長 | 105.0m |
| 全幅 | 18.7m |
| 吃水 | 7.29m |
| 機関 | 2軸レシプロ蒸気機関、角罐4基 |
| 最大速 | 20.0ノット |
| 航続距離 | |
| 兵員 | 568名 |
| 装甲 | |
| 兵装 | 20.3cm砲4門 15.2cm砲14門、76mm砲8門 45cm魚雷発射管5門 |
日進(にっしん)は、日露戦争で活躍した旧日本海軍の春日型装甲巡洋艦の2番艦。一等巡洋艦(装甲巡洋艦)に類別された。同型艦は「春日」。
目次 |
[編集] 概要
日露戦争開戦直前に、日本海軍がアルゼンチン海軍から買い取ったリバダビア級装甲巡洋艦2隻のうちの1隻である。アルゼンチン名は「モレノ」といった。
日露戦争中、触雷により戦艦2隻(八島、初瀬)を失った後は、戦艦と同等(射程の長さ)の戦力があるとみなされ、同型艦春日とともに第1艦隊第1戦隊に編入され、黄海海戦や日本海海戦の主力として活躍した。
日本海海戦では、少尉候補生として山本五十六(当時は高野姓)が乗り組み、海戦中に砲身爆発(敵弾によるとも砲門内爆発ともいわれている)により、左手人差し指と中指を失っている。また、アルゼンチン海軍大佐で日進の建造委員長だったマヌエル・ドメック・ガルシアが観戦武官として乗艦し、その記録を「海戦記」としてまとめている。
海戦中の敵前回頭でも殿艦の番になるころにはロシア艦隊の照準も合い出して集中砲撃を食らう。その一発が「後部砲塔に命中し、熱い細粉が司令塔のスリットに吹き込み、提督と副官は一瞬にして視力を失った…さらに同じ砲弾は艦橋も襲い、艦長と砲術士官は甲板上に投げ出された」。「日進」の指揮系統は大きなダメージを受けたが、しかし、何ごともなかったようにその後の作戦をこなした。被弾後、砲術士官だった観戦武官 ドメク・ガルシアが指揮を執って戦闘を続行した。これは許されない国際法違反の行動だが、「日本を知り、この戦争の意味を知っていたからこそ、信念をもって協力に踏み切った」と謂われている。翌明治三十八年二十八日にはネボガトフ艦隊を捕捉した。
ちなみに、明治39年(1906年)5月10日に愛知県愛知郡の香久山、白山、岩崎の3村が合併した際には、日進の日露戦争での活躍にあやかって新村名を日進村(現・日進市)としている。
[編集] 略歴
- 明治35年(1902年)3月29日 アルゼンチン軍艦としてイタリア アンサルドで起工。
- 明治36年(1903年)2月9日 進水式。
- 12月30日 日本海軍が購入。
- 明治37年(1904年)2月2日 一等巡洋艦に類別し日進と命名。
- 明治38年(1905年)5月27日 日本海海戦に参加。
- 7月4日~ 第3艦隊第5戦隊に所属し、樺太占領作戦に参加。
- 明治39年(1906年)11月22日 第1艦隊旗艦
- 大正3年(1914年) 第一次世界大戦により、北太平洋、ボルネオ、シンガポール、南太平洋警備。
- 大正6年(1917年)4月29日 第1特務艦隊に所属、オーストラリア、インド洋で船団護衛。
- 大正7年(1918年)11月22日 第2特務艦隊に所属、マルタ基地から地中海船団を護衛後、日本に回航される旧ドイツ潜水艦を護衛。
- 大正10年(1921年)9月1日 一等海防艦
- 大正11年(1922年)4月4日 シベリア出兵により沿海州方面警備。
- 昭和6年(1931年)6月1日 海防艦
- 昭和10年(1935年)4月1日 除籍、廃艦第6号。
[編集] 艦長
- 川原袈裟太郎 大佐:1914年5月27日 - 1915年5月1日
- 島内桓太 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 小牧自然 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月26日
- 長谷川清 大佐:1926年5月1日 - 12月1日
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年10月25日 (日) 15:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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