早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部

早稲田大学系属早稲田実業学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人早稲田実業学校
校訓 三敬主義(校是:去華就実)
設立年月日 1901年3月7日
創立記念日 4月20日
創立者 大隈重信
共学・別学 男女共学
中高一貫教育 併設型
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 2学期制(中・高等部)
3学期制(初等部)
高校コード 13547A
所在地 185-8505
東京都国分寺市本町1-2-1
北緯35度42分5.5秒東経139度29分10.6秒
電話番号 042-300-2121(中・高等部)
042-300-2171(初等部)
FAX番号 042-300-1123(中・高等部)
042-300-2175(初等部)
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
  

早稲田大学系属早稲田実業学校(わせだだいがくけいぞくわせだじつぎょうがっこう)は、東京都国分寺市に所在する私立小学校中学校高等学校

目次

[編集] 概要

通称早実(そうじつ)・実業。早稲田大学系属校である。理事長は早稲田大学総長白井克彦(2009年9月現在)。学校長は早稲田大学教育・総合科学学術院教授の渡邉重範。初等部校長は多宇邦雄。

小中高一貫教育を行い、早稲田大学への推薦入学制度がある。推薦率の向上や共学化に伴って早稲田鶴巻町に所在していた頃より人気が上昇し、首都圏では難関校の一つである。大学への推薦枠は他の附属・系属校とは別に独自の枠として定められ、近年は高等部卒業生総数を上回る。平成20年3月卒業生では総数に対して97%超にあたる者が推薦制度で早大に入学した。

他の附属校と比較すると校則が厳しい(校内への携帯電話の持ち込み禁止など)。 校名は実業学校であるが、現在は普通科のみで実業教育は施していない。「早稲田実業高校」の表記が散見されるが誤記である。

[編集] 校章

一対の稲穂を束ねた様子を図案化したもの。稲穂は早稲田大学系の学校の象徴である。

[編集] 制服

初等部
中・高等部
  • 男子 - 黒色詰襟学生服と一高型の学生帽(高等部は蛇腹織布を巻く。現在は着用自由)。
  • 女子 - 紺色のダブルのブレザーとリボン(中等部はえんじ色、高等部は紺色)。

[編集] 沿革

[編集] 略歴

1901年(明治34年)、早稲田大学の前身である東京専門学校が大学としての基礎を確立したころ、創立者である大隈重信の教育理念を実現し、その建学精神に基づいた中等教育をめざして大隈重信の周囲の者達により設立された。

「豊かな個性と高い学力をもち、苦難にうち勝つたくましい精神力を兼ね備えた人物」を育成するために、校是として「去華就実」(華やかなものを去り、実に就く)を、校訓として「三敬主義」(他を敬し、己を敬し、事物を敬す)を創立当初から掲げてきた。また、多くの旧制中等教育学校が5年制をとる中にあって、独自の6年制教育を行っていた。

以来、実業界を中心に多彩な人材を世に送り出し、また大正期に入るとスポーツ活動の充実を図り、質実剛健の校風が確立されていった。その後、戦災で校舎は廃墟となったが、関係者の尽力により復興を果たし、第二次世界大戦後の急速な発展を見た。

2001年に創立100周年を迎え、それまで早稲田鶴巻町にあったキャンパスを国分寺に移転し、中学部の呼称を中等部に改称した。さらに2002年4月からは、早稲田大学の系列校では初めて中等部、高等部とも男女共学を実施、また、初等部を開設するなど、早実第二世紀にふさわしいスクール・アイデンティティーの構築を目指し、学校改革に取り組んでいる。

学校創立前後の経緯については岩波文庫『湛山回想』で石橋湛山による記述がある。

[編集] 年表

[1]
  • 1901年 - 早稲田大学の創設者たちにより、早稲田実業中学(3年制各種学校)が早稲田中学校の校舎内に開校。
  • 1902年 - 早稲田実業学校と改称。甲種商業学校に編成され、修業年限を予科1年・本科4年・専攻科2年に変更。大成会発足。
  • 1903年 - 早稲田大学の構内に校舎を構える。
  • 1904年 - 修業年限を本科3年・専攻科2年に変更。
  • 1907年 - 早稲田鶴巻町に校舎を移す。修業年限本科4年に変更・専攻科廃止。
  • 1908年 - 予科2年を設置。
  • 1912年 - 夜間部(2年制各種学校の扱い)設置。
  • 1913年 - 校歌を制定。
  • 1917年 - 早稲田騒動により、大学の傘下から離れる。
  • 1925年 - 本科6年制に変更(予科廃止)。夜間部も4年制に延長(同時に甲種商業学校に昇格)。
  • 1926年 - 早稲田商科学校(2年制各種学校)を併設。
  • 1928年 - 昼間部を第一本科・夜間部を第二本科に改める。
  • 1929年 - 早稲田商科学校を3年制に変更。
  • 1933年 - 第二本科の修業年限を5年に変更。
  • 1937年 - 武蔵関にグラウンド造成。
  • 1942年 - 修業年限を5年に短縮。
  • 1943年 - 修業年限4年に短縮。
  • 1944年 - 早稲田実業学校としての生徒募集停止。替わりに早実工業学校を設置(翌年廃止)。早稲田商科学校廃止。
  • 1945年 - 戦時教育令を受けて授業停止。空襲により校舎焼失。終戦直後は、早稲田中学校校舎の借用や青空教室などで授業を再開。
  • 1947年 - 学制改革により新制の早実中学校設置(翌年中学部に改称)。
  • 1948年 - 学制改革により第一本科を中学・高等部の6年制へ、第二本科を4年制の第二高等部(従来通り夜間部)に改編。
  • 1957年 - 応援歌「若き力」・「伝統の旗」・「勝利の歌」発表。
  • 1961年 - 大成会、新しく発足した生徒会に包括される。
  • 1963年 - 「早稲田実業学校の早稲田大学系列下編入に関する合意書」調印。創立時の形態に戻り、早稲田大学系列に復帰。第二高等部廃止[2]
  • 1964年 - 普通科を設置。
  • 1966年 - 2学期制に移行。
  • 1975年 - 駒ヶ根校舎およびグラウンド完成。
  • 1999年 - 武蔵関グラウンド閉鎖。
  • 2001年 - 中学部を中等部に改称。国分寺市本町の新校舎に移転。創立百周年記念歌「ワセダ輝く」発表。
  • 2002年 - 商業科募集停止。男女共学を実施。初等部開校。

[編集] 学校施設

国分寺キャンパス(本部)
  • 1号館 - ホール・普通教室・特別教室
  • 2号館 - 体育館食堂ラウンジ・普通教室・特別教室
  • 3号館 - 図書館・普通教室・特別教室
  • 4号館 - 屋内運動場・部室
  • 5号館 - 初等部校舎(普通教室・特別教室)
  • 6号館 - 体育館(初等部用)
  • その他、グラウンド(中・高等部と初等部別に設置)や屋外プールなどが用意されている。
校舎移転前は新日本製鐵の関連施設があった。校舎も新日本製鐵が「環境にやさしい鉄骨造エコスクール」のコンセプトの下に設計・建設した[3][4]
駒ヶ根校舎
長野県駒ヶ根市に位置する。宿泊機能を備え、新入生のオリエンテーションや各クラブの合宿に利用される。2008年に建て替え工事が完成。
王貞治記念グラウンド
東京都八王子市南大沢にある。主に硬式野球部が練習・試合に使用する。2004年より使用。

[編集] 過去に存在した施設

旧校舎(早稲田鶴巻町キャンパス)
1907年4月 - 2001年3月まで使用された。旧制早稲田中学校の寄宿舎跡地を受け継いだものであった。現在は早稲田大学の120号館として、研究開発センター・大学史資料センターが置かれている他、大学の授業に利用される。
武蔵関グラウンド
東京都練馬区に所在した。1937年より運動場として使用されたが、1999年に、国分寺キャンパスへの移転に伴い閉鎖される。硬式野球部員だった頃の王貞治荒木大輔らも汗を流した場所であった。戦時中は食糧増産のために生徒が野菜を栽培していたことがある。現在、グラウンド跡にはマンションが建ち、その近くには「早実グラウンド記念公園」が整備されている。

[編集] 学校歌

[編集] 校歌

早稲田実業学校校歌
ウィキソース
ウィキソース校歌の原文があります。
1913年に制定された。作詞は相馬御風、作曲は永井建子
6番から構成されるが、現在は1番と2番のみ歌われる。歌詞に登場する「都のいぬゐ(乾=北西)」や「常磐の森」、「大なる使命」が、同じ作詞者による「早稲田大学校歌」とのつながりを連想させ得る。

[編集] 創立百周年記念歌

ワセダ輝く
2001年に制定された。作詞は奥島孝康、作曲は小室哲哉。全2番構成。

[編集] 応援歌

紺碧の空」や「コンバットマーチ」など、早稲田大学の応援歌や応援曲を多用するが、オリジナルの応援歌も存在する。
若き力
1957年に制定。作詞は西沢実、作曲は古関裕而。全2番構成。
伝統の旗
1957年に制定。作詞は西沢実、作曲は館野信平。全2番構成。
  • なお、これら2曲と同時に「勝利の歌」(作詞:西沢実、作曲:館野信平)も発表されたが、現在は使用されていない[5]
  • また、学校公認ではないものの、生徒に広く親しまれた歌として「早実ツンツン節[6]や「早実音頭」などがあったが、現在伝承はほぼ途絶えている。

[編集] 部活動

早稲田実業学校の部活動の起源は1902年に発足した「大成会」に求めることができる。2代目校長天野為之が「大器晩成」の語より命名し、「学生相互の親睦を計り知識の交換をなし体育を奨励し校風を発輝する」ことを目的に発足した。 そのため、古くから体育・文化系を問わずクラブ活動が盛んであり、現在も多くの部が全国レベルの活躍をしている。

中でも硬式野球部は全国高校野球大会(甲子園)に出場45回(夏の選手権大会は第1回大会から出場して27回、春の選抜大会も第1回大会から出場し18回)と全国でも屈指の名門校である。春夏併せての甲子園通算成績は58勝44敗。優勝は1957年春大会、2006年夏の大会各1回。

バスケットボール部もインターハイ11回、春の選抜・ウィンターカップ4回出場の名門である。1971年インターハイと1974年春の選抜では準優勝を果たしている。

硬式テニス部(男子団体)は全国選抜高等学校テニス大会の第1回大会では優勝を果たしている。

[編集] 硬式野球部

第88回夏の大会初優勝を遂げた試合のスコア。スコアボードの左上に掲揚されているのは早実の校旗。
第89回夏の大会・阪神甲子園球場へ優勝旗返還のために開会式に参加した早実・川西啓介主将

早稲田実業学校高等部硬式野球部は全国高校野球大会に計45回出場している。春の選抜高校野球大会にはこれまで18回出場し、1957年の第29回大会では王貞治投手(現・プロ野球コミッショナー特別顧問)が投打に活躍し、決勝戦で高知商業を5-3で下し初優勝している。

夏の全国高校野球選手権大会にはこれまで27回出場している。2006年第88回大会では決勝戦で南北海道代表の駒大苫小牧を引き分け再試合で4-3で下し初優勝を果たした(第88回全国高等学校野球選手権大会決勝を参照)。優勝投手は斎藤佑樹

夏の大会は学校を移転したことや、東京都の東西地区割りが変更されたこともあり両地区から出場。地区予選で旧東京都大会東東京・西東京ブロックの3大会での優勝は史上初である。

2006年ののじぎく兵庫国体では決勝戦では駒大苫小牧と再び対戦し、1-0で駒大苫小牧を下し29年ぶり2度目の優勝を果たし、夏の甲子園大会・国体の2冠を達成した。

第1回全国中等学校優勝野球大会(1915年・大正4)に出場した学校のうち、第1回大会で優勝した京都二中、大正期に連覇した和歌山中(現桐蔭)に続いて、第二次世界大戦後では初の深紅の優勝旗を持ち帰った学校となっている。

[編集] 部・同好会一覧

  • ※2009年度現在

体育系

アイススケート・米式蹴球・弓道・剣道・ゴルフ・サッカー・山岳・少林寺拳法・柔道・水泳・スキー・ソフトボール・卓球・軟式テニス・硬式テニス・バスケットボール・バドミントン・バレーボール・ハンドボール・ボート・少年野球・軟式野球・硬式野球・ラグビー・陸上

文化系

英語・演劇・音楽・科学・考古学・写真・珠算・商経・書道・吹奏楽・美術・文芸

同好会

映画研究・空手道・軽音楽・茶道・JRC・将棋囲碁・女子軟式野球・新聞・体操・鉄道研究・馬術・ボクシング・漫画研究・ワープロ

[編集] 学校関係者一覧

早稲田大学系属早稲田実業学校の人物一覧」を参照

[編集] 交通

[編集] 関連書籍

  • 早稲田実業学校編『早実七十五年誌』 1976年発行
  • 早稲田実業学校編『早実・生徒活動八十五年の歩み』 1989年発行
  • 早実野球部OB会製作委員会編『早実野球部史』 1990年発行
  • 中稲会(第四十四回生同期会)編『戦争と共に歩んだ青春 中島飛行機学徒動員の記録』 1996年発行
  • 早稲田実業学校編『百年を拓く』 2001年発行
  • 早稲田実業学校編『百年を彩る人びと』 2001年発行
  • 早稲田実業学校大成会新聞部編『早實新聞 縮刷版 1号(昭和24年4月15日) - 213号(平成12年3月28日)』 2001年発行

[編集] 脚注

  1. ^ 『百年を彩る人びと』巻末年表より作成 p.146-158
  2. ^ 夜間定時制課程、男女共学であった。廃止時、最上級生は卒業させ、下級生は他校へ転出させる措置をとった。
  3. ^ 環境社会報告書|環境への取り組み - 新日本製鐵株式会社 - 2002年度環境・社会報告書(Pdf形式)を参照のこと。
  4. ^ 現校地は元々、国分寺市の都市開発計画では「なだれ上公園」に再整備して市民に開放する予定であった。
  5. ^ 歌詞については『早実新聞 第53号(昭和32年7月1日発行)』の1面特集記事で確認が可能。
  6. ^ 『戦争と共に歩んだ青春 中島飛行機学徒動員の記録』p.99

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月19日 (木) 14:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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