旭富士正也
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| 旭富士正也 | |
|---|---|
| 四股名 | 旭富士 正也 |
| 本名 | 杉野森 正也 |
| 生年月日 | 1960年7月6日(49歳) |
| 出身 | 青森県西津軽郡木造町 (現在のつがる市) |
| 身長 | 189cm(現役時) |
| 体重 | 143kg(現役時) |
| 所属部屋 | 大島部屋 |
| 得意技 | 右四つ、寄り、上手出し投げ |
| 成績 | |
| 現在の番付 | 引退 |
| 最高位 | 第63代横綱 |
| 生涯戦歴 | 575勝324敗35休(67場所) |
| 幕内戦歴 | 487勝277敗35休(54場所) |
| 優勝 | 幕内最高優勝4回、幕下優勝1回 三段目優勝1回、序ノ口優勝1回 |
| 賞 | 殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞5回 |
| データ | |
| 初土俵 | 1981年1月場所 |
| 入幕 | 1982年3月場所 |
| 引退 | 1992年3月場所 |
| 引退後 | 安治川部屋→伊勢ヶ濱部屋師匠 |
| 備考 | |
| 金星2個(北の湖1、双羽黒1) | |
| 2009年8月28日現在 | |
旭富士 正也(あさひふじ せいや、1960年(昭和35年)7月6日 - )は、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市)出身で大島部屋所属の元大相撲力士、第63代横綱。本名は杉野森正也(すぎのもり せいや)。現役時代の体格は身長189cm、体重143kg。現在は、年寄・9代伊勢ヶ濱親方。血液型はB型、趣味は音楽鑑賞、映画鑑賞。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 大島部屋入門まで
五所川原商業高校在学中に長野県で行われた国民体育大会で、少年の部の団体優勝に貢献。その後近畿大学に入学したが、近大相撲部の合宿所での団体生活に馴染めずに退部、大学も一旦退学する(その後現役時代に近大の通信課程に再入学して卒業)。
青森に戻り漁業に従事していたが、スカウトを受けて大島部屋に入門。一度は断ったものの、その後入門を応諾したのは、当時の大島部屋はまだ歴史の浅い小部屋で、関取が所属していなかったという理由もあると言われている。
[編集] 現役力士時代(初土俵~大関)
1981年(昭和56年)1月場所初土俵。前相撲から取ったが格の違いを見せた。旭富士の四股名は、師匠・大島親方の現役時の四股名「旭國」と、入門当時に頭角を現した「千代の富士」に因んで名づけられた。
もっともこれは若名乗りの名で、大島親方やタニマチは幕内に昇進したら大島の現役時代の四股名を継がせ、2代目旭國を名乗らせる予定でいたが、タニマチが宴席で「早く幕内に上げて、親方の名前を継がせなきゃ」と切り出した際、本人が「自分の名前を大きくしたいから」と断り、大島親方は憤慨しつつも結局許され、最後まで旭富士で通したという逸話が伝わっている。旭國は1967年(昭和42年)3月場所で幕下優勝を果たしているが、その場所に三段目で優勝したのが「旭冨士」という、静岡県出身で時津風部屋所属の力士だった。
新十両まで7場所、1983年(昭和58年)3月場所新入幕。懐の深さを生かした柔軟な体つきが持ち味で、新入幕当時から将来の大関候補と期待されていた。幕内時代から三役時代には技を活かして勝つ相撲が多く、技能賞を5回も受賞している。
1987年(昭和62年)9月場所後に待望の大関昇進。大関2場所目の1988年(昭和63年)1月場所、千秋楽で大の苦手としていた横綱・千代の富士に勝ち、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。その後も次期横綱にふさわしい安定した成績を収めていたが、終盤まで優勝争いに加わるも、ここ一番で敗戦というパターンが続いて、あと一歩で優勝を逃すという場所が続いた。
1989年(平成元年)には、大関の地位で1月場所から5月場所の連続3場所で40勝5敗、優勝同点2回の好成績を収めていた。一昔前なら既に横綱昇進の成績だったが、1987年(昭和62年)11月場所後に優勝経験なしで横綱になった同門(立浪一門)の双羽黒(立浪部屋)が不祥事で廃業したことから、横綱昇進基準厳格化の声が高まっており、その煽りを受けて不運にも昇進が見送られた。その後、持病の膵臓炎が再発し、その病の影響により暫くは8勝・9勝止まりで勝ち越すのがやっとの状態が続いたが、1990年(平成2年)5月場所に14勝1敗で、14場所ぶり2度目の優勝を遂げた。
そして翌7月場所は、千秋楽で宿敵の千代の富士に勝利、14勝1敗で3度目の優勝を2連覇で果たし、場所後に苦労の末ようやく横綱に昇進した。この千代の富士との対戦、二人が土俵際投げの打ち合いになり、旭富士が千代の富士の頭を押えつけて掬い投げで下した一戦は、旭富士の最高の大相撲と言われている。
[編集] 現役力士時代(横綱~引退)
横綱土俵入りは、人数が少なく短命のジンクスが有る不知火型を敢えて選んだが、これは所属する立浪一門が代々不知火型を採用していた(羽黒山、吉葉山、双羽黒)という事情もあった。土俵入りの指導は一門外の佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)が行った。また昇進伝達式後によく行われる騎馬に乗っての記念撮影では、珍しく部屋の関取衆(旭道山・旭豪山・旭里)が組んだ騎馬に乗った(普通は若い衆が騎馬を組む)。
新横綱の1990年9月場所は初日から12日目まで12連勝を達成、先場所から24連勝を記録したが、13日目で大関・霧島に初黒星を喫した。そして千秋楽結びの一番は北勝海と横綱同士の相星(13勝1敗)決戦となったが、惜しくも北勝海に敗れて13勝2敗の優勝次点に留まり、旭富士の3連覇はならなかった。その後は12勝・11勝・11勝と、やや成績下降の状態が続いたが、横綱5場所目の1991年(平成3年)5月場所には、前日まで全勝だった大関小錦を本割と優勝決定戦で破り、逆転で4度目の優勝を果たした。旭富士にとって横綱昇進後では初めての優勝だったが、これが現役最後の優勝となった。
翌7月場所は優勝候補筆頭と言われたが、膵臓炎の再発の影響で崩れて8勝7敗(他の横綱陣も北勝海は9勝6敗、大乃国は9日目に引退という成績不振だった)。なお、この場所千秋楽の北勝海戦が、日本人横綱同士による最後の対戦となっている(帰化した曙、武蔵丸は除く)。9月場所は若花田に右手一本の上手投げで吹っ飛ばされる等散々で途中休場、平幕時代の1987年1月場所から続いた連続勝ち越し記録も28場所でストップした(当時2代若乃花と並ぶ歴代2位タイだった。現在は歴代3位タイ)。翌11月場所も慢性膵臓炎と脊椎分離症のため全休した。
そして復帰した1992年(平成4年)1月場所で進退を賭けて臨んだものの、初日から曙、安芸ノ島、若花田と3連敗を喫してしまい、同場所限りで現役引退を表明した。横綱在位はわずか9場所に終わった。
千代の富士と全く相性が悪く、対戦成績は旭富士の6勝30敗、横綱同士とは思えない対戦成績である。また、1988年(昭和63年)11月場所14日目、千代の富士が53連勝を達成した時の相手が旭富士で、この相撲では千代の富士に豪快な吊り出しで敗れた。
引退相撲は、1992年(平成4年)9月場所後に行われた。当時現役の横綱が不在だったため、同じ大島部屋所属の幕内力士だった太刀持ち・旭道山と露払い・旭里を従えて、横綱最後の土俵入りが披露された。断髪式では、止めバサミを大島親方が入れると感極まって大粒の涙を流した。
[編集] 親方として
引退後、四股名の「旭富士」を年寄名として5年期限の年寄を襲名。その後、若いころから目をかけてくれた同じ青森県出身で同じ一門の安治川親方(元関脇陸奥嵐)が病気を理由に廃業する意向を示したことから、引退相撲の後に、後継者として大島部屋から安治川部屋へ移籍する。1993年(平成5年)春に年寄「安治川」と安治川部屋を継承し、旭富士親方改め安治川親方となり、その後は陸奥北海らを関取に育てあげた。又大相撲ダイジェスト(テレビ朝日系列)では、現役力士に対して辛らつな解説が話題を呼んだ。
又、スーツ姿で指導し話題となった貴乃花親方とは対照的に、当時の安治川親方は「廻しの切り方などを実際にやって見せられるから」と40代半ばに入っても廻しを締めて稽古場に下りて稽古をつけていた。部屋を受け継いだ直後には、相撲雑誌のインタビューに答えて、陸奥北海や春日富士に稽古をつける際、どれだけ力を入れるかを「こうですね」と笑いつつ実際に動作をしてみせたこともある(春日富士に胸を出し、転がす時の方が少し力が入っている)。なお、部屋継承後の直弟子で関取の安美錦、その兄安壮富士は、彼の従兄弟の息子である。
2007年(平成19年)5月場所後、安治川部屋(当時)と同じ立浪一門である宮城野部屋から、一門では旭富士以来17年ぶりに白鵬が横綱に昇進した。5月31日には白鵬に対し、不知火型の横綱土俵入りを指導。その土俵入りに「オレよりも上手。足腰の構えが低くて、格好良いよ」と絶賛していた。
2007年11月30日、日本相撲協会は年寄「安治川」(4代)の、「伊勢ヶ濱」(9代)への名跡変更を承認し、結果しばらく断絶していた伊勢ヶ濱部屋を再興した。今後は師匠として、弟子の大関日馬富士(2008年11月場所後に大関昇進)と安美錦らを中心に、名門復興へ歩み出す。
[編集] 人物
非常にユーモアのある性格で、正月の歌番組に出演したときはいつも笑わせる芸を行ってファンを喜ばせた。27代木村庄之助の最後の土俵になった1990年11月場所千秋楽結びの一番に勝つと、懸賞金を庄之助への餞別にし、「いつも力士に懸賞を渡してばかりだが、一度くらい自分がもらってみたいもんだ」と言っていた庄之助を喜ばせた。庄之助は「一度やってみたかった」と言い、手刀を切ってその懸賞金を受け取ったらしい。
しかし何故かマスコミには評判が悪く、「稽古をしない」などとさんざんに書き立てられた。この稽古をしない旭富士像はマスコミ報道が国民の情報源のほぼ全てだった当時だけに、また一日に二十番の申し合いをこなすなど豊富な稽古量で知られた若花田・貴花田の若貴兄弟が台頭してきた時代、しかも引退前で力の落ちていた時期であっただけに事実であると信じられ一般に広く浸透してしまい、勉強をしない学生が「旭富士になる」と言われるなど怠けて力が落ちる例として広く用いられた。報道被害というべき出来事である。この報道には大変立腹していたようで、後日実際にやっていた稽古について「朝早く土俵に下りて四股を踏んでいた」などと詳しく述べて反論しつつ憤慨していた。また大関・横綱時代「稽古しなかったらこの地位まで行ってないですし、部屋からも関取がこんなに出ないですよ。」と言ったことがある。下積み時代に部屋を脱走したことがあると報道されたこともある。
長身で身体が柔らかいことから懐が非常に深く、強烈な印象を持つ決め技がないのにいつの間にか勝ち星を挙げるという、一種の天才的な力士と見る向きもあった。この点、同じ青森出身の先輩横綱である2代若乃花(現間垣)と似たタイプと言えるかも知れない。稽古嫌いという風説や、一見厳しさに欠けるかのような取り口、あるいは強烈な強さの印象が薄いことなどからか、「津軽なまこ」(柔らかくて捕らえ所のないことの形容と思われる)というあだ名もあった。最も、津軽地方では「なまこ」には悪い意味もあるそうで、旭富士はこう呼ばれるのを嫌っていたという。また、取り口の柔軟性とは裏腹に、実は股割りなどの柔軟体操は苦手であった。
「街道をゆく」によると、司馬遼太郎が旭富士のファンだったらしいとのこと。
夫人は、元大昇の夫人の姪。その大昇が営んでいた春日山部屋の力士を、安治川部屋(大昇停年後の力士移籍先)継承後に面倒を見ることになった。
食べ物はスイカが好物。スイカは膵臓に持病のある旭富士にとって、膵臓の機能回復な役割を果たす食品でもある。また、出身地の木造町(現つがる市)は、スイカの名産地である。
車が好きで、現役時代から外車を好んで運転していた。夫人によると、初デートの時は真っ赤なキャデラックのオープンカーに乗ってやって来たとの事。
講談社「月刊少年マガジン」に連載されていた人気漫画『名門!多古西応援団』では旭富士にソックリな「横綱旭富司」が応援団員の一人と相撲で対決するシーンがほぼ一話じゅうに描かれている。また、井上純弌作のTRPG天羅万象のサプリメント「天羅万象ビジュアルブック」には旭斧持という名前の力士が設定イラストに登場している。また天理教の信徒であり、同教の機関紙のインタビュー記事に登場したこともある。
安治川時代に行った「大相撲ダイジェスト」での解説が、現役力士達に対してあまりにも辛辣だったために、新聞の投書欄、ラジオ、週刊誌等で大きな話題となる。足を滑らせたような形で敗れた、かつての兄弟弟子である旭道山に対しては、「滑るんなら足袋履かなきゃいいのにね!」と言い捨てた事もあった。
[編集] 主な成績
- 通算成績:575勝324敗35休 勝率.640
- 幕内成績:487勝277敗35休 勝率.637
- 横綱成績:71勝29敗24休 勝率.710
- 幕内最高優勝:4回
- 幕内在位:54場所
- 大関在位:17場所
- 横綱在位:9場所
- 年間最多勝:1988年(73勝17敗)、1990年(70勝20敗)
- 三賞:殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞5回
- 金星:2個(北の湖1、双羽黒1)
- 連勝記録:24(1990年7月場所4日目~1990年9月場所12日目)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:28場所(歴代3位タイ・1987年1月場所~1991年7月場所)
[編集] 幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1983年 (昭和58年) |
x | 西 前頭 #10 8–7 |
東 前頭 #4 4–11 |
東 前頭 #11 9–6 |
西 前頭 #5 8–7 |
西 小結 6–9 |
| 1984年 (昭和59年) |
東 前頭 #4 1–3–11[1] |
東 前頭 #14 9–6 |
東 前頭 #6 8–7 |
西 前頭 #2 8–7 ★ |
西 小結 5–10 |
東 前頭 #5 11–4 敢 |
| 1985年 (昭和60年) |
東 小結 7–8 |
東 前頭 9–6 技 |
東 小結 8–7 |
東 小結 5–10 |
東 前頭 #2 10–5 技 |
東 小結 8–7 |
| 1986年 (昭和61年) |
西 関脇 11–4 殊 |
東 関脇 7–8 |
西 小結 11–4 殊 |
東 関脇 4–11 |
東 前頭 #2 8–7 ★ |
西 小結 7–8 |
| 1987年 (昭和62年) |
東 前頭 #1 8–7 |
西 関脇 10–5 |
西 関脇 10–5 技 |
東 関脇 11–4 技 |
東 関脇 12–3 技敢 |
西 大関 11–4 |
| 1988年 (昭和63年) |
東 大関 14–1 |
東 大関 12–3 |
東 大関 12–3 |
東 大関 11–4 |
東 大関 12–3 |
東 大関 12–3 |
| 1989年 (平成元年) |
東 大関 14–1[2] |
東 大関 13–2 |
東 大関 13–2[2] |
東 大関 8–7 |
西 大関 9–6 |
西 大関 8–7 |
| 1990年 (平成2年) |
西 大関 9–6 |
西 張出大関 8–7 |
西 張出大関 14–1 |
東 大関 14–1 |
西 横綱 13–2 |
西 横綱 12–3 |
| 1991年 (平成3年) |
西 横綱 11–4 |
西 横綱 11–4 |
東 張出横綱 14–1[3] |
東 横綱 8–7 |
西 横綱 2–4–9[1] |
休場 |
| 1992年 (平成4年) |
西 横綱 引退 0–4–11 |
x | x | x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
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[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月18日 (水) 07:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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