明治神宮

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本来の表記は「明治神」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
明治神宮
明治神宮内拝殿
内拝殿
所在地 東京都渋谷区代々木神園町1番1号
位置 北緯35度40分34秒
東経139度41分57秒
主祭神 明治天皇
昭憲皇太后
社格 官幣大社
創建 大正9年(1920年
例祭 11月3日(明治天皇御誕生日)
  
正月三日早朝の外拝殿

明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社初詣では例年日本一の参拝者数を集め、明治天皇昭憲皇太后を祭神とする。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神[1]

目次

[編集] 由緒

1912年(明治45年)に明治天皇崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、なんらかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館など様々な案があった[2])、続いて1914年(大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が亡くなると、明治天皇昭憲皇太后の遺徳を偲ぶ国民からふたりを祀る神社を求める機運が高まった。

これを受けて政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて1915年(大正4年)5月1日官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。

明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われた。ちなみにこの御料地は、かつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。

面積約70万平方メートルの境内は、そのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木を青年団が植樹したものである。また本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」至誠館などがある。

明治神宮外苑(一般には「神宮外苑」として知られる)は、「明治天皇昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝える為、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって」造営された。聖徳記念絵画館を中心に明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)・明治神宮野球場・神宮水泳場などがある。

1943年(昭和18年)10月21日明治神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会が開催され、雨のなか、約7万の入隊学徒が行進した。

1945年(昭和20年)の空襲の際に社殿のほとんどが消失したが、1958年(昭和33年)10月31日に再建された。

第二次世界大戦後は宗教法人神社本庁被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、2004年(平成16年)に包括関係を解消し、単立神社となった[3]

2007年(平成19年)現在の初詣では、大晦日から正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めている。

2008年(平成20年)10月31日-11月1日:明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ『アカリウム』奉納行事開催[4]

[編集] 歴代宮司

[編集] 境内

航空写真に見る明治神宮付近。1989年度撮影。隣接する代々木公園を含め一帯は広大な緑地となっている。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。

内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となっていて、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。

明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計には林学本多静六本郷高徳上原敬二、川瀬善太郎、中村斧吉(林苑課長)、大溝勇、山崎林志、中島卯三郎、農学/造園原煕大屋霊城狩野力太田謙吉森一雄水谷駿一田阪美徳、寺崎良策、高木一三、森一雄井本政信、北村弘、横山信二、石神甲子郎、また奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。

こうして集められた明治神宮造営局の技師らは、大正10年(1921年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわばこれが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは大正4年(1915年)には開始されている。

[編集] 神宮御苑

明治神宮御苑(通称、神宮御苑)は江戸時代から大名下屋敷の庭園として使われ、明治時代に宮内省の所轄となり、代々木御苑と呼ばれて、明治天皇、昭憲皇太后が行かれたゆかりの深い名苑である。苑内には隔雲亭、お釣台、あずまや、菖蒲田、清正井などがある。菖蒲田のハナショウブ(花菖蒲)は、明治天皇が昭憲皇太后のために植えさせられたと言われ、6月が最盛期である。

[編集] 神宮外苑

明治神宮外苑(通称、神宮外苑)は1886年(明治19年)に近衛師団第一師団に所属する部隊の教練場として作られた、青山練兵場の跡地に明治天皇崩御の後に造営されたもの。東京都新宿区港区にわたり、国民の献金によって絵画館・憲法記念館(戦後は明治記念館)・陸上競技場野球場などを備えた公園施設として整備された。

[編集] 祭事

[編集] 建立資金

神社を奉祀するとはいっても、現実にその領地確保や建立には幾ばくかの資金が必要である。幾つかの候補から、領地は東京公園を建設予定だった新宿村代々木御料地と定められた。当初の理念において内苑は国が、外苑は国民が造るもととされ、資金を賄うに国による税金と国民による寄附金となった。

その総額は国税の納付額などで明治神宮奉賛会によっておおよそ標準額として予め計算されたものがあり、東京では200万、東京以外の内地では250万円、外地(当時は領土であった樺太台湾朝鮮関東州)からは20万円、また帝国国内だけではなく国外からは25万円とされた。内地においてはその目標額が公平な負担となるよう各都府県に割り当てられた。各市町村群へは各都府県が割り当てられた額面を調整し、その寄附金を募った[5]。基本的には寄附であるので個人の自由であるが、官吏などはそうではなかったところもある(地位により額面が決められていたが、一部を除いては自らに割当られた額面の寄附は望んでのことであった。総理大臣は100円とされた)。

標準額総額は495万円であったが、結果的には想定を大きく上回る約676万円となった。必要とされた額は670万円とされていたので、目標額は達成できたことになる。

[編集] 交通

最寄駅

[編集] ギャラリー

[編集] 脚注

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  1. ^ 明治神宮サイト Q&A
  2. ^ 古川隆久『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』(中公新書、1998年) ISBN 4-12-101406-5 第二章 幻に終わった明治の大博覧会計画 p21~p59 を参照。
  3. ^ 明治神宮 神社本庁離脱 外山宮司 神社私物化か(國民新聞平成16年7月5日)
  4. ^ 明治神宮御社殿復興50年記念「アカリウム」明治神宮HP
  5. ^ 千葉県ではキッコーマンからの1万円の寄附金をうけ、市町村群への割当を1万円差っ引いて寄附金を集めた。

[編集] 参考文献

  • 山口輝臣『明治神宮の出現』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2005年) ISBN 4-642-05585-1
  • 明治神宮社務所 編『「明治神宮の森」の秘密』(小学館文庫、1999年) ISBN 4-09-411251-0
  • 内山正雄、蓑茂寿太郎『代々木の森』(郷学舎、1981年)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年10月8日 (木) 05:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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