星野仙一
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 岡山県倉敷市 |
| 生年月日 | 1947年1月22日(62歳) |
| 身長 体重 |
180cm 83kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1969年4月13日 |
| 最終出場 | 1982年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督歴
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この表について
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星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。2009年現在、阪神タイガースオーナー付シニアディレクター (SD) 。
現役時代は中日ドラゴンズで投手として活躍し、現役引退後は、NHKの野球解説者を経て、中日・阪神の監督を歴任。監督時代に中日で2回、阪神で1回のリーグ優勝を果たすがいずれも日本シリーズ敗退。優勝3回で日本一なしは西本幸雄に次ぐ。また、現役時代にも2度リーグ優勝しているが、日本一経験はなく、複数回リーグ優勝経験監督の中で選手・コーチ時代から一度も日本一経験のないのは星野のみである。2008年には北京オリンピック野球日本代表日本代表監督を務めたが、4位。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] アマ時代
父・仙蔵は戦前、三菱航空機製作所(後の三菱自動車工業水島製作所)の工場長を務めていたが、仙一出生の3か月前に脳腫瘍で死去。母は工場の寮母として働く傍ら、仙一と2人の姉を育てた。阪神タイガースコーチの筒井壮は甥(筒井の実母が仙一の2番目の姉)にあたる。
高校時代は、強豪の岡山県立倉敷商業高等学校で甲子園出場を目指したが甲子園には出場できなかった。明治大学二部政治経済学部に進学。ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の後輩にあたる。また、県内の1年後輩には後の大洋ホエールズのエース・平松政次がおり、高校時代に直接対決したこともある。
明治大学では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合登板23勝25敗、防御率1.91、199奪三振。2年生秋には立教大戦でノーヒットノーランを記録した。が、田淵幸一・山本浩二・富田勝ら「法大三羽ガラス」率いる法政大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。読売ジャイアンツで活躍した高田繁は、大学の1年先輩にあたる。
大学時代は島岡吉郎監督の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。当時の全共闘による校舎封鎖を実力で解除するために、島岡の命を受けて野球部の同輩と共にバリケードへ殴り込んだというエピソードもある。
[編集] プロ時代
1968年、水原茂監督率いる中日ドラゴンズからドラフト1位指名され入団。少年時代から阪神タイガースの村山実投手に憧れており、村山と同じ背番号11を付けたかったが、空いていなかったため数字を倍にした22を希望した。後に中日のエースナンバーである20に変更後も非常に愛着のある番号だったという。入団3年目の1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、かわりに変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。与那嶺要監督時代の1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得し、巨人のV10を阻むチーム20年ぶりの優勝に大きく貢献した。この「巨人のV10阻止」の瞬間のリーグ優勝の際の胴上げ投手となっている。近藤貞雄監督時代の1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役を引退。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。
大学4年時のプロ野球ドラフト会議に際しては、読売ジャイアンツとの間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。しかし巨人は島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったエピソードがある。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄・王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次、川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主権試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったらしい)。そのことを現役引退後に川上哲治から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。
星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。
逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄や稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。1982年後半には衰えが顕著になり登録抹消こそされなかったが起用されることはなかった。
巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利をあげた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」とど真ん中ばかり投げていた。しかし阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した。
珍プレーの先駆けともいえる宇野ヘディング事件時の投手としても知られる(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。宇野のエラーにより得点を許したため星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾談)。
1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合になり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれマウンドを去る。その際、マウンドへ花束を届けに行ったのは、親友である歌手の小田和正だった。
[編集] 中日監督時代
1983年から1986年までNHKの解説者を務めた後、86年オフ、前年のシーズン途中で休養した山内一弘の後任として中日監督に就任。ロッテオリオンズからの落合博満を世紀のトレードで獲得などの大胆な補強を断行し、ドラフトでも86年近藤真一、1987年立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得、伸び悩んでいた中村武志・彦野利勝には鉄拳制裁で、山本昌を米留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手宇野を二塁手に、捕手中尾孝義を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新した結果、1988年に中日を6年ぶりのリーグ優勝に導くも、日本シリーズでは敗退。中日の球団史上、優勝に導いた生え抜き監督は星野が唯一人。1991年限りで「健康上の理由」で退陣。1992年の1年間中部日本放送の客員解説者を務め、1993年からは再びNHK解説者・日刊スポーツ評論家を務める。1995年に監督復帰し直後に愛甲猛を無償トレードで獲得、更に愛甲と同じく甲子園のヒーローとしてドラフト1位でロッテに入団し同じく高卒新人時代から一軍で活躍し人気・実力ともロッテの顔だった前田幸長も交換トレードで獲得。
自身が配偶者を亡くした直後の1997年春にはナゴヤドームが完成。球場が広くなった事でチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木監督時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。同年オフ、関川浩一・久慈照嘉を交換トレードで獲得し二宮至に外野守備コーチ就任を要請し実現、1998年は2位と持ち直す。1999年、1954年の西鉄ライオンズ以来45年振りとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは福岡ダイエーホークスに敗れる。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。
2001年、4年ぶりにBクラスに転落。この年、「健康上の理由」で山田久志投手コーチ兼ヘッドコーチに禅譲し退陣。中日での全11年間では先に挙げたように2度のリーグ優勝(平均5年半に1度のペース)を記録したに過ぎず「並の監督」といわれる一方で統率力など高く評価する声もあり評価は二分されている。
中日の第2次監督時代から選手補強に関してはかなり積極的で、中でも当時FA制度や逆指名制度で補強をしていた巨人に対しては、対抗意識を燃やしていた。宣銅烈、レオ・ゴメス、サムソン・リー、李鐘範ら有力外国人選手、明治大学の後輩である武田一浩、川崎憲次郎といったFA選手の獲得は、もちろんチーム補強の意味合いが第一とはいえ、「巨人に取られたくない」という感情も多分に入っていたのではと言われている(落合博満のトレードも、巨人と一旦決まっていたところを口出ししたと噂されていた)。
大型補強を断行する一方、生え抜き選手を放出することも多かった。第一期監督時代には、中尾、大島康徳や牛島和彦、確執を噂された平野謙、山田和利、音重鎮(第2次監督時代に中日復帰)、第2次監督時代では、酒井忠晴、仁村徹、前原博之、清水雅治、大豊泰昭(上記久慈との交換相手だが3年後に復帰)、矢野輝弘、門倉健、鶴田泰、種田仁などを他球団に放出した。これらの放出により、特に第1次政権時の主力選手は谷沢健一を除いてほとんど放出されてしまい、その谷沢も星野の就任と入れ替わりに引退させられた(就任1年目のオープン戦に引退試合を行った)。
近藤、与田剛、今中慎二、森田幸一、上原晃、宮下昌己といった若手投手を酷使して潰したとされる。例外は岩瀬仁紀。
武田一浩や川上憲伸、小笠原孝など明大の後輩をよく自球団に誘っていたが、鳥越裕介は同じく星野の後輩であるにも関わらず、福岡ダイエーホークスに放出されてしまった。鳥越は1999年のダイエー優勝祝賀会でのインタビューで星野に対して「あなたが放出してくれたことで優勝することができました、拝啓・星野仙一様」と発言、物議を醸した。鳥越によれば、放出された悔しさをバネにダイエーで頑張ろうと決めていたという程度の意味合いとのこと。
選手にタイトルを獲らせるためには手段を選ばない一面もあった。1987年、小松辰雄が最多勝を争っていた際は、消化試合3試合に5回から投げさせて勝ち星を稼がせ、タイトルを獲得させた。1991年には、最優秀防御率のタイトルがかかっていた今中を、既に優勝が決まっていた広島戦のダブルヘッダーの1試合目で完投させ、2試合目にも登板させた。1999年は、既に中日の優勝が決定し日本シリーズ出場が決まっていたが、最多勝まであと1つと迫っていた野口茂樹をシーズン最終戦(対ヤクルト)に中4日登板させた。また、「MVPは優勝球団から」を記者にアピールし、成績で勝る上原浩治への投票を牽制した。
1987年6月11日、熊本・藤崎台県営球場での巨人戦で、宮下投手がウォーレン・クロマティ選手の背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。後年のテレビ番組内でその際のことに触れ、拳を握って「これ(暴力)はいかんぞ」という抗議の意味であったと釈明している。
2000年5月6日、ナゴヤドームでの横浜ベイスターズ戦で、判定への不満から橘高淳審判に抗議、暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では立浪和義、大西崇之両選手も審判員への暴行により退場処分となり、後日星野、立浪、大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。
[編集] 阪神監督時代
中日監督を退任した直後の2001年オフ、阪神タイガースの監督に就任。中日監督時代からの片腕的存在であった島野育夫を中日からヘッドコーチに迎え、チームの改革に取り組んだ。
就任1年目には4年連続最下位だったチームを4位に押し上げ、同年オフに選手の大量解雇・トレードを断行。その結果山田勝彦、坪井智哉らが他球団へトレードで出された。同時に広島からFA宣言した金本知憲、テキサス・レンジャーズを自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛・中村豊らを引き入れ、投打の大型補強を行った。2002年は開幕7連勝を記録。翌2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、片岡篤史、井川慶、ジョージ・アリアスら主力選手の活躍により首位を独走、チーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たすも日本シリーズでは敗退。
2003年の日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には岡田彰布守備走塁コーチが就任。
[編集] 監督退任後
2004年1月1日に阪神のオーナー付シニアディレクターに就任した。また、同年5月31日には兵庫県より功労賞を受けた。
アメリカンホームダイレクトやキリンビバレッジ、大和證券、さくら不動産などのコマーシャルに出演し、タレントとしても活動。母校明治大学の評議員となった縁もあり、同大学のイメージキャラクターも務めている。2004年10月からは大阪人間科学大学の客員教授にも就任している。野球解説者としては放送局に契約しないフリーランスの形で各局のテレビ中継に出演している。
2005年7月、星野仙一を塾長とする「夢・星野スポーツ塾」がスタートしたが、2008年に閉鎖。
2005年8月、巨人の次期監督候補とされていると報道された。これに関して江夏豊は「阪神に籍を置く身分でありながら、星野サイドからの売り込みがあった」と週刊誌で暴露している。そして巨人OB、ファンなどの反発も大きかったことを受けて星野は9月10日に巨人入り拒否を公式に表明。
[編集] 北京五輪
2007年1月25日、2008年北京オリンピック野球日本代表の監督に就任。その翌日には「星野JAPAN」を星野仙一名義で登録商標出願した。しかし「金メダル以外いらない」と公言して臨んだオリンピック本選では4位で、上位3チームには5戦全敗という結果に終わり、皮肉にも金メダルを逃すどころか銀や銅すら逃す形で有言実行を果たすことになった。
北京代表監督としての星野への評価については「北京オリンピック野球日本代表#本戦での結果・評価」を参照
北京五輪後の2008年10月15日、星野も出席した第一回WBC体制検討会議において、星野が2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督に就任することが内定した。この時点で既に鹿取義隆・武田一浩らをコーチとするところまで予定されていたが、五輪で結果を残せなかった星野の監督就任に対して各方面より難色を示す声が多く、10月22日、星野は自身のHP上で就任をしないと最終的に宣言。代表監督は巨人の原辰徳監督が引き受けることとなった。
WBC代表監督選考問題については「2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表」を参照
[編集] 人物
中日の監督時代に『珍プレー好プレー』等のスポーツバラエティ番組で何度も取り上げられた乱闘(及び審判への暴行)や「闘将・星野」等のキャッチフレーズのせいで、非常に短気でキレやすいというイメージを持たれがちだが、現役時代は一度も退場処分を受けていない。監督としての退場記録は5で、これも最多記録ではない。
中日の監督時代には徹底的なスパルタ指導法で知られ、「プロは結果を残さなければ去るべし」という冷徹なポリシーを持っていた。1995年にドラフト1位で入団した金森隆浩が1996年10月9日の対阪神最終戦(甲子園)にプロ初先発し、日本プロ野球のタイ記録である1イニング2本の満塁ホームランを打たれ10失点で降板したときは、「これを記念に消えてなくなれ、もう二度と俺の目の前に姿を見せるな」と言い放ち、その後一度も一軍に上げることなく、翌年のオフに戦力外を通告した。また、負け試合で登板して7失点した入団2年目の山田貴志を、その年限りで解雇したこともある。なお金森に関しては、台湾球界で実績を積み、1999年に中日へ復帰したものの、またも1年で解雇している(その後打撃投手を務めた)。
当時は主に外野手として出場することが多かったとはいえ、自身の関わった1996年のドラフト1位で内野手として獲得した荒木雅博に対して、「セカンドはできるか?」と聞く。
アメリカの新聞記者から「日本にもビリー・マーチンがいるのか?」という声もあったほどの熱血漢で、監督就任当初はよく乱闘を起こしていたため「暴れ星野」と呼ばれていた。「乱闘のときベンチにいるやつは罰金だ。止める役割でもいいから全員グラウンドに出て来い!」と発言している。
よい監督の条件を「担当記者との緊密なコミュニケーション」としており[1]、番記者との朝食会・昼食会を頻繁に行い、コーヒーやオムライスなどを振舞いながら長時間雑談するのを常にしていた[2]。マスコミを味方につけパフォーマンスを売りとする星野について、工藤健策は「プロ野球史上最高の『名優』」と評している[3]。
中日監督時代から「ジジ転がし」の達人と称されるほど地元財界と交流があり、中日時代・阪神時代ともに後援会が存在する。なお、星野自身は近藤貞雄会長の時に阪神監督就任を契機として中日OB会からは除名処分が下された。(当該項目参照)
現役そして監督時代共に「打倒巨人」を公言してきたが、監督時代は中日・阪神両球団とも巨人のリーグ優勝を3度(1996,2000,2002)目の当たりにしている。うち1996年と2000年の敵将は長嶋茂雄監督であるが、1996年はナゴヤ球場最後の日に敗退し「メークドラマ」が完結、2000年は巨人の東京ドーム最終戦で9回表まで勝利濃厚だったが9回裏に二岡智宏のサヨナラホームランで敗退したことで皮肉にも長嶋監督が掲げていた「メークミラクル」のお膳立て役となってしまった。また上述のように日本シリーズでは選手そして監督通じて5回出場して日本一は一度も手にしていないが、敵将は全て巨人OBである。また選手そして監督を通じて所属球団の本拠地球場で何れも相手チームの胴上げを目の当たりにしている[4]。
北京五輪の結果が4位に終わった事について、大会後の会見では「選手がかわいそうだった。」と結果の出なかった選手達を擁護する一方[5]、自分の采配について責任転嫁とも取れる発言を繰り返したことが多くのマスコミやネット上で批判の対象となった[6]。
[編集] 人脈・交友関係
中日時代の先輩にあたる板東英二、 大学時代の同級生、田淵幸一・山本浩二、 天野エンザイム会長の天野源博、コンサートによく招かれる小田和正
[編集] タイトル・表彰
- 最多セーブ:1回(1974年)(セ・リーグの初代最多セーブ投手である)
- 沢村賞:1回(1974年)
- 最高勝率:1回(1975年) ※タイトルではない
- オールスター選出:6回(1969年、1974年~1976年、1979年、1981年)
- 正力松太郎賞:1回(2003年)
- 報知プロスポーツ大賞特別功労賞(2003年)
[編集] 年度別投手成績
| 年度 | 球団 | 背 番 号 |
登 板 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
勝 率 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
三 振 |
暴 投 |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969年 | 中日 | 22 | 49 | 6 | 1 | 1 | 8 | 9 | 0 | .471 | 187.2 | 157 | 24 | 45 | 9 | 99 | 1 | 72 | 65 | 3.11 |
| 1970年 | 41 | 6 | 1 | 0 | 10 | 14 | 0 | .417 | 205.0 | 172 | 19 | 63 | 4 | 146 | 0 | 90 | 83 | 3.64 | ||
| 1971年 | 20 | 35 | 0 | 0 | 0 | 9 | 5 | 0 | .643 | 103.2 | 99 | 11 | 20 | 1 | 72 | 0 | 46 | 40 | 3.46 | |
| 1972年 | 48 | 0 | 0 | 0 | 9 | 8 | 0 | .529 | 98.2 | 71 | 12 | 39 | 5 | 70 | 0 | 33 | 22 | 2.00 | ||
| 1973年 | 44 | 7 | 1 | 3 | 16 | 11 | 0 | .593 | 166.0 | 134 | 16 | 55 | 3 | 96 | 1 | 57 | 56 | 3.04 | ||
| 1974年 | 49 | 7 | 1 | 1 | 15 | 9 | 10 | .625 | 188.0 | 149 | 19 | 50 | 7 | 137 | 0 | 67 | 60 | 2.87 | ||
| 1975年 | 40 | 6 | 3 | 1 | 17 | 5 | 4 | .773 | 217.2 | 208 | 20 | 48 | 11 | 112 | 0 | 71 | 67 | 2.77 | ||
| 1976年 | 20 | 6 | 3 | 1 | 10 | 6 | 0 | .625 | 132.2 | 141 | 20 | 26 | 8 | 60 | 1 | 64 | 58 | 3.92 | ||
| 1977年 | 42 | 13 | 3 | 1 | 18 | 13 | 5 | .581 | 245.1 | 245 | 26 | 71 | 12 | 125 | 0 | 105 | 96 | 3.53 | ||
| 1978年 | 34 | 2 | 0 | 0 | 5 | 8 | 14 | .385 | 92.0 | 106 | 10 | 36 | 2 | 47 | 0 | 55 | 50 | 4.89 | ||
| 1979年 | 28 | 4 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | .588 | 154.1 | 168 | 29 | 51 | 7 | 85 | 0 | 90 | 80 | 4.68 | ||
| 1980年 | 29 | 4 | 1 | 0 | 6 | 12 | 1 | .333 | 129.2 | 143 | 25 | 44 | 6 | 70 | 1 | 79 | 73 | 5.05 | ||
| 1981年 | 23 | 4 | 0 | 0 | 10 | 9 | 0 | .526 | 142.0 | 152 | 20 | 37 | 4 | 69 | 0 | 67 | 62 | 3.93 | ||
| 1982年 | 18 | 1 | 0 | 0 | 3 | 5 | 0 | .375 | 66.0 | 77 | 15 | 21 | 3 | 37 | 0 | 43 | 39 | 5.32 | ||
| 通算成績 | 500 | 66 | 15 | 8 | 146 | 121 | 34 | .547 | 2128.2 | 2022 | 266 | 606 | 82 | 1225 | 4 | 939 | 851 | 3.60 | ||
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1987年 | 中日 | 2位 | 130 | 68 | 51 | 11 | .571 | 8.0 | 168 | .265 | 3.64 | 40歳 |
| 1988年 | 1位 | 130 | 79 | 46 | 5 | .632 | - | 131 | .258 | 3.20 | 41歳 | |
| 1989年 | 3位 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 15.5 | 149 | .256 | 3.68 | 42歳 | |
| 1990年 | 4位 | 131 | 62 | 68 | 1 | .477 | 26.0 | 162 | .264 | 4.26 | 43歳 | |
| 1991年 | 2位 | 131 | 71 | 59 | 1 | .546 | 3.0 | 178 | .262 | 3.59 | 44歳 | |
| 1996年 | 中日 | 2位 | 130 | 72 | 58 | 0 | .554 | 5.0 | 179 | .278 | 4.01 | 49歳 |
| 1997年 | 6位 | 136 | 59 | 76 | 1 | .437 | 24.0 | 115 | .243 | 4.33 | 50歳 | |
| 1998年 | 2位 | 136 | 75 | 60 | 1 | .556 | 4.0 | 100 | .248 | 3.14 | 51歳 | |
| 1999年 | 1位 | 135 | 81 | 54 | 0 | .600 | - | 120 | .263 | 3.39 | 52歳 | |
| 2000年 | 2位 | 135 | 70 | 65 | 0 | .519 | 8.0 | 111 | .266 | 4.19 | 53歳 | |
| 2001年 | 5位 | 140 | 62 | 74 | 4 | .456 | 15.0 | 98 | .253 | 3.48 | 54歳 | |
| 2002年 | 阪神 | 4位 | 140 | 66 | 70 | 4 | .485 | 19.0 | 122 | .253 | 3.41 | 55歳 |
| 2003年 | 1位 | 140 | 87 | 51 | 2 | .630 | - | 141 | .287 | 3.53 | 56歳 |
※1 1987年から1996年は130試合制
※2 1997年から2000年は135試合制(引き分けは再試合)
※3 2001年から2004年は140試合制
[編集] 監督通算成績
- 1744試合 920勝791敗33分
[編集] 背番号
- 22(1969年 - 1970年)
- 20(1971年 - 1982年)
- 77(1987年 - 1991年、1996年 - 2003年、2008年)
[編集] 歌
- 六つの星(1976年5月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
- 街の灯がゆれる(1981年12月20日発売)
- 1988年シングルカセットで再発売。
[編集] 参考番組
- 『勇退〜星野仙一・激闘の半生』(2003年11月3日 毎日放送)
- 『人間・星野仙一〜もう一度ユニホームを!!』(2004年3月 毎日放送)
[編集] 星野仙一役を演じた俳優
[編集] ドラマ
[編集] アニメ
[編集] 脚注
- ^ 『野球が好きだ』 サンケイスポーツ(関西版)2008/10/18付
- ^ 三浦勝男「できることは何でも協力する」 大阪ニッカンスポーツ2002/04/06付[1]
- ^ 星野「WBCでも負ける」―五輪惨敗でわかった短期決戦に弱いリーダー AERA2008年09月08日号[2]
- ^ 日本シリーズは選手時の1974年(中日球場),中日監督時の1999年(ナゴヤドーム)で、リーグ優勝は選手時の1970年(中日球場),中日監督時の1996年(ナゴヤ球場),阪神監督時の2002年(甲子園球場)である。但し、2002年は試合は阪神がマジック1としていた巨人に勝利したが、2位のヤクルトが中日に敗れ巨人のリーグ優勝となったため「自力優勝による胴上げ」ではない。
- ^ 「選手がかわいそうだった」星野監督 一問一答 MSN産経ニュース2008/08/23[3]
- ^ 清水満「采配より見事な“すり替え戦術”」 MSN産経ニュース2008/08/26 [4]
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 星野仙一記念館
- 星の虎会(出身地・岡山県の後援会)
- 星野仙一の男塾
- 星野ドリームズプロジェクト
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最終更新 2009年11月4日 (水) 23:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【星野仙一】変更履歴


