春風亭一柳
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春風亭 一柳(しゅんぷうてい いちりゅう、1935年10月12日 - 1981年7月9日)は、東京都出身の落語家。本名、長坂静樹。生前は落語協会所属。出囃子は『筑摩祭』。1978年までは三遊亭 好生(さんゆうてい こうしょう)の芸名を名乗っていた。東京都立西高校中退。
好生時代に、1969年4月6日から兄弟子5代目三遊亭圓楽などの笑点メンバーが司会7代目立川談志との対立により番組を降板した時の代役として、笑点の大喜利メンバーに抜擢されるが同年11月2日限りで降板している。[1]
芸風だけではなく、背格好や高座での立ち振る舞いまでが師匠6代目三遊亭圓生と余りにも似ており、「圓生の影法師」と言われた。真面目な性格であり、かつ本人が師匠圓生を神の様に崇めていた結果、芸風や立ち振る舞いが良く似てしまったと思われるが、[2]師匠圓生から疎まれる事になり、さらに8代目春風亭柳枝一門から移籍してきた弟弟子三遊亭圓彌・6代目三遊亭圓窓に真打昇進を先んじられ、内気な性格からか思い悩むようになっていった。後に真打乱造問題の際にあれ程まで崇拝していた師匠圓生と行動を共にせず、同じく師匠圓生に冷遇されていた兄弟子三遊亭さん生と共に破門される。破門後は師匠圓生より芸名の強制返却を強いられ、後に圓生の天敵8代目林家正蔵(後の林家彦六)一門の客分格となる。
さん生と共に師匠圓生から芸名の返却を迫られ、さん生は5代目柳家小さんから川柳川柳の名を付けて貰い、改名。好生は5代目春風亭柳昇から「春風亭」の亭号使用許可を貰い、「一柳」の「一」は正蔵が尊敬する、三遊一朝の「一」を貰い、春風亭一柳に改名した。詳細な記録が残ってはいないが、明治中頃の噺家番付に春風亭一柳の名前が載っており、色物に“春風一柳”(後の一柳斎柳一)という人物が存在した事から、本人は「3代目春風亭一柳」を自称した。又、川柳川柳が先に改名し、「“川柳一柳”になれ」と誘われ、好生は「漫才じゃあるまいし」と断ったというエピソードも記している。[3]
元師匠圓生の死後、1980年7月に『噺の咄の話のはなし』を晩聲社から出版。この本の中で「圓生が死んで嬉しかった」と書き、物議を醸した。しかし、翌年自殺。死の2ヶ月前から妻に「話し方の間の取り方がわからなくなり、生きていく望みがなくなった」と話していたという。精神面を害していたという見方が根強いが、その原因については、圓生との対立による長年の心労の蓄積が要因として大きいと考えている者は少なくない。
なお、青春ドラマおれは男だ!第37話(1972年、日本テレビ)に「警察官」役でゲスト出演している。
[編集] 略歴
- 1956年 6代目三遊亭圓生に入門。好生を名乗る。
- 1969年 4月から11月まで笑点の大喜利レギュラーを務める。
- 1973年9月 弟弟子三遊亭生之助と共に兄弟子さん生よりも先に真打昇進。
- 1978年6月 師匠圓生が真打乱造問題で落語協会を脱退する際、協会に残り破門される。8代目林家正蔵一門に入り、春風亭一柳と改名。
- 1980年 『噺の咄の話のはなし』を著す。
- 1981年 自宅であった葛飾区金町の団地屋上から投身自殺。享年45。
[編集] 脚注
- ^ 兄弟子圓楽が復帰したのは8ヵ月後の1970年6月21日。同日に連れられて加入したのが圓窓である。
- ^ 好生が「圓生の影法師」とあだ名されたのが「下手な噺家」と陰口を叩かれていた真打初期、20代頃までを模倣していたのが気に障った結果こうなった。
- ^ 本人著書『噺の咄の話のはなし』参照
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最終更新 2009年3月31日 (火) 09:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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