昭和28年西日本水害

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昭和28年西日本水害
発災日時 1953年6月25~29日
被災地域 日本の旗 福岡県佐賀県熊本県
大分県など九州北部地域
災害の気象要因 集中豪雨
気象記録
最多雨量 大分県日田郡上津江村
で1,148.5ミリ
最多時間雨量 熊本県阿蘇郡小国町宮原
で90.2ミリ
人的被害
死者
759人
負傷者
2,775人
建物等被害
全壊
3,441棟
半壊
29,588棟
床上浸水
200,298棟
床下浸水
252,895棟
被害総額
2,161億円
1953年価格)

出典

  

昭和28年西日本水害(しょうわ28ねんにしにほんすいがい)とは、1953年(昭和28年)6月25日から6月29日に掛けて、九州地方北部(福岡県佐賀県熊本県大分県)を中心に発生した梅雨前線を原因とする集中豪雨により発生した水害である。

阿蘇山英彦山を中心に総降水量が1,000ミリを超える記録的な豪雨により、九州最大の河川である筑後川を始め九州北部を流れる河川が全て氾濫(はんらん)、流域に戦後最悪となる水害をひき起こし死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という大災害となった。この水害により筑後川など九州北部の河川における治水対策が根本より変えられることになり、現在においても計画高水流量の基準となっている。

目次

[編集] 気象概況

1953年6月当時の九州地方の気象概況は、上旬に梅雨前線が一旦九州中部に停滞し大雨を降らせたがその後奄美大島付近まで一旦南下し、奄美大島と屋久島の間を上下するという状態であった。一方ルソン島付近にあった太平洋高気圧が次第に勢力を強くして梅雨前線を押し上げ、6月21日には対馬海峡付近に達した。ところが今度は中国大陸より移動性高気圧が九州方面へと張り出し、再度梅雨前線は南下して屋久島まで戻ったものの再度太平洋高気圧に押されて北上した。こうして南北から高気圧によって押された梅雨前線は阿蘇山付近に6月23日頃より停滞、そこに高気圧から吹く湿った暖かい空気が梅雨前線に流れ込むことによって前線が刺激され、さらに例年屋久島付近を通過するはずの低気圧がこの時は朝鮮半島・対馬海峡付近を次々通過。こうした気象条件が重なり九州北部地域に未曾有(みぞう)の大雨をもたらした。

加えて阿蘇山では同年4月に噴火を起こしており、堆積した火山灰が豪雨によって土石流となった。また筑後川上流域は堅固な安山岩溶岩を主体とする地質であり、透水性に乏しかった。さらに戦中・戦後に山間部は森林を乱伐していたこともあり森林の保水力は極端に低下していた。こうした地質・植生状況に加え地形的要因も洪水被害を増幅させた。すなわち阿蘇山外輪山や筑後川上流域は河川の流域面積が広く、ここに広範囲かつ持続的な豪雨が降り注いだことで下流地域へ一挙に洪水が押し寄せたことも、被害を大きくしている。

[編集] 各地の降水量

観測地点 所在地 総降水量
(mm)
最多日降水量
(mm)
最多時間雨量
(mm)
上野田 大分県日田郡上津江村 1,148.5 400.0(6月26日)
宮原 熊本県阿蘇郡小国町 1,002.6 426.2(6月25日) 90.2(6月26日)
小国 熊本県阿蘇郡小国町 994.6 433.6(6月25日) 88.3(6月26日)
矢部 福岡県八女郡矢部村 934.2 395.0(6月25日)
野上 大分県玖珠郡野上村[1] 929.7 364.0(6月25日)
黒川 熊本県阿蘇郡黒川村 888.4 500.2(6月26日)
日田 大分県日田市 705.6 292.4(6月25日) 52.0(6月27日)
大分 大分県大分市 698.5 223.1(6月26日)
門司 福岡県門司市 646.1 398.3(6月28日)
福岡 福岡県福岡市 621.4 307.8(6月25日)
熊本 熊本県熊本市 595.9 411.9(6月26日)
佐賀 佐賀県佐賀市 587.1 366.5(6月25日) 69.6(6月26日)
久留米 福岡県久留米市 564.3 308.7(6月25日) 43.0(6月26日)
飯塚 福岡県飯塚市 534.8 235.5(6月25日)

(注)観測期間は6月25日から6月29日までの総降水量である。自治体は当時の名称。カッコ内は記録日。

[編集] 被害状況

この集中豪雨は特に福岡県・佐賀県・熊本県・大分県において被害が甚大で、死者759名行方不明者242名などの人的被害のほか、全半壊家屋3万5,000棟以上、床上・床下浸水は実に45万棟に及ぶ過去最悪の被害であり、その被害総額は当時の金額で約2,161億円にも達した。当時は1949年(昭和24年)のジュディス台風1950年(昭和25年)のジェーン台風による被害がまだ記憶に新しく、台風被害からの復旧に一段落付いた頃再度被害を受けた地域も多かった。当時の国家地方警察福岡警察管区本部[2]が発表した被害内容は下表の通りである。

県名 死者 行方
不明者
負傷者 全壊
家屋数
流失
家屋数
半壊
家屋数
床上
浸水
床下
浸水
被害額 氾濫河川
福岡県 259 27 1,402 1,321 829 12,116 92,532 119,127 793億円 筑後川矢部川遠賀川紫川今川など
佐賀県 59 3 337 319 108 4,425 37,895 38,053 249億円 筑後川、嘉瀬川松浦川など
長崎県 21 0 26 320 12 546 6,324 16,285 91億円
熊本県 339 198 558 1,009 850 10,412 49,038 39,607 850億円 菊池川白川など
大分県 55 13 239 333 653 1,435 6,179 18,513 178億円 筑後川、大分川など
宮崎県 0 0 0 0 0 2 10 123
鹿児島県 1 1 17 10 0 9 21 528
山口県 25 0 196 129 41 823 8,302 20,659
合計 759 242 2,775 3,441 2,493 29,588 200,298 252,895 2,161億円

特色としては平野部、山間部の別を問わず大きな被害を与えたことであり、福岡市を始め佐賀市熊本市大分市といった県庁所在地のほか小倉市北九州市)、久留米市など地方の主要都市にも多大な被害を与えている。また九州随一の大河である筑後川水系を始め遠賀川水系、矢部川水系、大分川水系、菊池川水系、白川水系など九州北部の河川は大小問わず全て氾濫し堤防決壊や橋梁・道路流失などを招き、これ以前より営々と行われてきた治水事業を全てご破算にした。以下は各県における被害状況を詳述する。なお、本文中の市町村名は当時の名称(カッコ内は現在の市町村名)を使用する。

[編集] 熊本県

最も被害が大きかったのは熊本県で、熊本市など県北部を中心に死者339名、行方不明者198名、全壊家屋1,009棟、床上・床下浸水8万8,645棟に達し、被害総額は850億円にも上った。

[編集] 熊本市

県都・熊本市では市内を流れる白川が氾濫した。白川上流部である阿蘇山一帯で豪雨となり、阿蘇郡黒川村阿蘇市)で5日間の雨量が888.4ミリを記録するなど猛烈な豪雨となった。さらに4月27日に阿蘇山が噴火して大量の火山灰が堆積しており、そこに豪雨が降り注いだことで大量の火山灰が土石流となって一挙に阿蘇谷を下り、熊本市内に流入した。熊本市では京町や健軍といった高台を除く全市の70パーセントが浸水し、最大で水深が2~3メートルに達した地域もあった。また白川の橋梁は17箇所市内に架けられていたが、国道3号長六橋と大甲橋を除いて残らず流失。特に子飼橋では至近距離にあった避難所で避難していた住民約40名が橋もろとも白川に流され、死亡した。

熊本市内は噴火した阿蘇山の火山灰が混ざった泥で埋まり、その総量は実に600万トンにも及んだ。また養老院が倒壊して52名が一度に圧死するなど、土砂災害による要因が死者を増加させている。また上流の阿蘇郡長陽村南阿蘇村)などでも土石流によって家屋や道路、鉄道への被害が大きく、孤立した村落も発生した。熊本県ではこの水害を特に白川大水害と呼んでいる。

[編集] 菊池・阿蘇

また菊池川流域でも菊池川本流や支流の迫間川などが氾濫して菊池市玉名市などが浸水被害を受け、菊池川流域では死者7名、全半壊家屋572棟、浸水家屋1万5,335棟に上った。筑後川上流部の熊本県流域では阿蘇郡小国町宮原で5日間の降水量が1,002.6ミリを記録するなど猛烈な豪雨が降ったことにより、筑後川(杖立川)の水位が6月26日10時に九州電力杖立取水堰地点で警戒水位を7メートル以上上回る12.50メートルに達した。これにより川沿いにある杖立温泉では全ての連絡手段が不通となり孤立、旅館などが流失・損壊するなど壊滅的な被害となった。

[編集] 福岡県

熊本県に次いで被害が大きかったのは福岡県である。特に筑紫平野(筑後川・矢部川流域)、北九州(門司・小倉)、福岡市の被害が深刻であった。福岡県では死者259名、行方不明者27名、全壊・流失家屋2,150棟、半壊家屋1万2,116棟、床上浸水9万2,532棟、床下浸水11万9,127棟と人的被害もさることながら、家屋への被害が群を抜いている。被害総額は793億円であるがこれは当時の県予算の二年分に相当する莫大なものであった。

[編集] 筑後川流域

豪雨による洪水で両岸が決壊した夜明ダム筑後川)。写真は復旧後の現在のもの。手前側と奥の発電所取水口部分が崩落した。

筑後川では上流部の大分県日田郡上津江村日田市上津江町)上野田にある建設省[3]の観測所で5日間の総降水量が1,148.5ミリに達したのを始め熊本県阿蘇郡小国町宮原で1,002.6ミリ・時間雨量90.2ミリ、小国町小国で994.6ミリなど本流大山川)流域で平均900ミリ、支流玖珠川流域で平均700~800ミリの豪雨が降り注いだ。このため筑後川の水位は6月25日22時に治水基準点である久留米市瀬の下観測所で警戒水位の5.14メートルを超え、以後一時間毎に60センチメートル上昇。日田市では計画高水位[4]を6月26日14時の時点で過去最悪の水位を突破した。6月26日以降筑後川の水位は8メートルから9メートルの水位まで上昇し、堤防天端すれすれの状態が6月27日まで続き、警戒水位を下回る平常の水位に戻ったのは7月2日以降になってからであった。

本流及び支流・玖珠川の膨大な濁流は日田市から浮羽郡浮羽町うきは市)・朝倉郡杷木町朝倉市)間の夜明峡谷に集まり、一挙に筑紫平野に流入した。この地点には当時九州電力が水力発電専用ダムである夜明ダム(よあけダム)を建設中であったが、濁流は夜明ダム堤体に激突。九州電力は水門を全開して濁流からダムを守ろうとしたが濁流はダム両岸をえぐるように流れ、25日夜半から翌26日午前中にダムは左岸の発電所取水口と右岸の国道386号から決壊、ダム本体に据付けられた水門も3門吹き飛んだ。その後濁流は1674年延宝2年)に建設された大石堰に激突し、ここで堤防を決壊させ浮羽町役場を始め町内全てを水没させた。堤防を決壊させた濁流は支流の巨瀬川(こせがわ)の洪水と合流しさらに堤防を決壊させ、吉井町(うきは市)、田主丸町(久留米市)では橋梁がことごとく流失、町内は水深1メートル以上の浸水となった。原鶴温泉街も完全に水没し筑後川南岸は一面がのようになったと伝えられている。筑後川北岸の朝倉郡でも甘木町[5]朝倉町(朝倉市)で堤防決壊が発生してほぼ全ての地域が浸水。三井郡では小郡町小郡市)などを除き完全に外部との交通が遮断され、数日間陸の孤島と化した。

久留米市では東櫛原町など数箇所で堤防が決壊し東・西・北の三方向から一挙に市内に濁流が流れ込んだ。東櫛原町の堤防では決壊の一時間前より堤防上を洪水が越流し始めたが、その様子はあたかものようであった。決壊した堤防から流出した水は久留米市内に押し寄せ、国鉄[6]久留米駅久留米大学医学部附属病院など久留米市中心部をことごとく水没させ、市内の80パーセントが浸水した。水位は市内中心部の明治通りにある井筒屋久留米店前で約1メートル、最も深い場所では約3メートルに達した。交通網も完全に遮断され、国鉄鹿児島本線は久留米駅と肥前旭駅間が不通、久大本線は浸水・がけ崩れなどで全線寸断。西日本鉄道天神大牟田線は筑後川鉄橋が上流から流れてきた大量の流木で完全に曲がり不通となった。道路も国道3号久留米大橋、国道264号豆津橋などが不通となり、特に福岡県道17号久留米基山筑紫野線の小森野橋では交通規制を行っていた警察官など10数名もろとも流失した。

筑後川流域における被害は死者147人を出した[7]のを始め堤防決壊・崩落84箇所、護岸崩壊38箇所、道路損壊1,889箇所、橋梁流失948箇所などに及び、家屋の被害も下表に示すとおりとなった。被災者数は54万4,060人に及び被害総額は約32億8,700万円にも上った。浸水した区域は筑紫平野のほぼ全域であり、東は夜明ダム直下、西は佐賀市の嘉瀬川堤防、南は矢部川堤防、北は筑紫野市宝満川流域にまで及び、さながら有明海が内陸山沿いまで海域を拡大したかの様相を呈した(参考・筑後川流域浸水区域 国土交通省九州地方整備局筑後川河川事務所)。1890年(明治22年)の洪水、1921年(大正10年)の洪水と並んでこの水害は「筑後川三大洪水」とも呼ばれている。

市郡名 死者 行方
不明者
負傷者 全壊
家屋数
流失
家屋数
半壊
家屋数
床上
浸水
床下
浸水
道路
損壊
橋梁
損壊
被災者数
久留米市 5 0 274 336 409 2,380 4,880 9,284 10 6 82,351
浮羽郡 7 0 965 213 162 206 3,748 2,752 11 81 42,405
朝倉郡 15 4 669 133 91 861 1,349 1,998 41 74 24,883
三井郡 8 0 1,094 384 47 812 6,717 1,190 285 86 55,737
三潴郡 2 0 1,104 29 0 122 16,675 3,925 249 183 124,132

[編集] 矢部川流域

矢部川流域でも上流部を中心に豪雨が降り、八女郡矢部村で5日間に934.2ミリの総降水量を観測したのを始め黒木町で609.5ミリ、星野村で667.8ミリ、辺春村(立花町)で666ミリ、福島町(八女市)で613.6ミリ、柳川市で496.2ミリなど流域は降り始めからの平均が700ミリ近くに達した。このため矢部川本流は国道209号船小屋橋の道路が冠水するほどの水位となったほか、支流の星野川、笠原川、辺春川などが軒並み氾濫し各所でがけ崩れや橋梁、家屋、田畑の流失を招いた。こうした濁流は福島町や羽犬塚町(筑後市)、三潴郡に押し寄せ、甚大な被害を与えた。特に山門郡瀬高町みやま市)では全町が水没、三潴郡や柳川市といった下流部では筑後川の支流である花宗川の濁流と矢部川の濁流が合流して大川町(大川市)や柳川市に流入、被害をさらに拡大させた。三潴郡内では筑後川・矢部川の洪水が合流したことで郡内にある家屋の98パーセントが浸水するなど被害は凄まじく、「全郡水没」状態となった。死者は2人であったがほぼ全郡が床上・床下浸水の被害を受け、被災者数は12万4,132名にも上った。

矢部川流域における被害は死者29名、負傷者209名、全壊家屋154棟、半壊・床上浸水2,557棟、床下浸水9,336棟。被災者数は6万3,042名にも及んだ。

[編集] 北九州・筑豊

北九州市は当時門司市門司区)、小倉市小倉北区小倉南区)、八幡市八幡東区八幡西区)などに分かれていたがほぼ全域で豪雨が降り注いだ。降り始めからの雨量は門司で646.1ミリ、小倉で544ミリ、八幡で501ミリなどの記録的な豪雨となった。筑豊地方でも飯塚市で534.8ミリとなり、この地域を流れる遠賀川水系、紫川水系、今川水系などが氾濫した。

特に被害が顕著だったのは門司市街地である。降水量646.1ミリを記録する豪雨は現在新関門トンネルが通過している戸の上山を始めとした風師・戸の上山系へと降り注ぎ、山腹崩壊という形で門司市街や門司港周辺へと土石流やがけ崩れとなって押し寄せた。その崩落箇所は600箇所にも及び、北九州地域における豪雨死者の大半を出す結果になった。隣接する小倉市街地では紫川や板櫃川など中小河川の氾濫によって市内の広範囲が浸水、市内の80パーセントが浸水し井筒屋小倉店前でも腰まで水に浸かる水位となった。国鉄小倉駅日豊本線南小倉駅など中心部も完全に浸水し、紫川流域は上流部は現在のます渕ダム付近及び日田彦山線呼野駅付近から、下流は河口に至るまでほぼ全て浸水した。さらに関門鉄道トンネルに10万立方メートルにも及ぶ洪水が流入して不通となり、一時陸路による本州・九州間の連絡が途絶した。浸水したトンネルを復旧させるため、ドラム缶などによる人力での排水作業が行われたが、この間九州方面へ向かう旅客などは下関駅で立ち往生したり、海路による迂回を余儀なくされた。トンネルは7月13日に排水が終了し復旧、営業運転が再開され陸路による九州方面の交通が再開されたのは7月19日のことであった。門司・小倉・八幡三市における被害の合計は死者183名、全壊家屋3,812棟、浸水家屋7万9,123棟に及び現在に至るまで過去最悪の豪雨被害となった。

また遠賀川水系でも遠賀川本流や支流の彦山川・福智川・犬鳴川などが氾濫し流域の飯塚市田川市田川郡などで浸水被害を及ぼした。遠賀川は遠賀郡植木町(直方市)で堤防決壊を起こし、下流の農地や人家を水没させた。特に国鉄鹿児島本線・遠賀川駅は遠賀川の決壊によって完全に水没。鹿児島本線は筑後川流域だけではなく遠賀川流域でも不通となった。遠賀川駅の復旧が完了するのは7月3日まで待たなければならなかった。上流部の田川地方では当時多くの炭鉱があり、ボタ山も多数存在したが豪雨によるボタ山崩壊で大量のボタが遠賀川やその支流に流入、河床(川底)の上昇を来たして堤防決壊や越流を助長した。豊前地域でも河川の氾濫による被害が多く、京都郡では今川や祓川(はらいがわ)などの氾濫で堤防が決壊。築上郡では山国川を始め城井川や佐井川の氾濫で死者1名、負傷者274名、全壊家屋2棟、半壊家屋10棟、床上浸水306棟、床下浸水1,810棟という大きな被害を受けている。

[編集] 福岡市

九州地方最大の都市である福岡市でも豪雨被害は深刻であった。市内では6月4日~6月7日に掛けても総雨量300ミリを超える豪雨を記録しており、これに追い討ちを掛けるように5日間で621.4ミリの猛烈な豪雨が降り注いだ。このため那珂川御笠川室見川樋井川、十郎川、須恵川など市内を流れる中小河川がことごとく氾濫。福岡市内の大部分が浸水した。

浸水範囲は福岡市最大の繁華街である中洲天神を始め現在の福岡市城南区警固・薬院・大濠新町、早良区城西町、博多区渡辺通など福岡市中心部のほとんどであり、警固地区ではがけ崩れによる土砂災害も発生した。隣接する糟屋郡でも多々良川水系が全て氾濫、多々良川本流や支流の猪野川、久原川、長谷川などが各所で堤防決壊や堤防がない場所での洪水流入で浸水被害や農地流失が相次いだ。糸島郡前原町前原市)でも町内を流れる瑞梅寺川の氾濫で町内の大部分が浸水している。

福岡市内では全壊家屋11棟、半壊家屋59棟、床上浸水5,735棟、床下浸水2万1,900棟の大きな被害を受けており、人口密集地を中心に被害が集中していることから被災者数も11万3,789名と多数に上った。

[編集] 佐賀県

佐賀県では神埼郡三瀬村佐賀市)で711.4ミリ、鳥栖町(鳥栖市)で665.2ミリ、神埼郡神埼町神埼市)で633.7ミリ、佐賀市で587.1ミリなどとなった。これにより嘉瀬川松浦川など背振山系を水源とする河川が軒並み氾濫したほか、筑後川の洪水が支流に逆流することで堤防決壊などの被害が拡大した。

逆流した筑後川の洪水は支流の上流から流れ来る洪水と衝突して堤防を越流、6月26日に鳥栖町を流れる大木川の堤防が決壊した。その後宝満川に逆流した筑後川の濁流が宝満川支流の安良川に逆流、築堤以来300年にわたり流域を水害から守った成富茂安(なりどみ・しげやす)の千栗(ちりく)堤防を決壊させ三養基郡北茂安村みやき町)を水没させた。筑後川の濁流はそのまま南西へと押し寄せ、三養基郡や神埼郡をことごとく呑み込んだ。特に被害が甚大だったのは神埼郡三田川村吉野ヶ里町[8])で、筑後川支流の田手川と城原川(じょうばるがわ)が決壊したが、上流から流れ来る大量の土砂が流域の家屋や田畑を一挙に押し流した。この濁流はさらに蓮池町(佐賀市)に流れ込み、筑後川の逆流した洪水と合流して西へ押し寄せ、佐賀郡東川副村(佐賀市[9])を経て遂に佐賀市内に流入した。そして佐賀郡南川副町川副町)に達して海岸堤防でせき止められた。

また嘉瀬川は天井川で河床が佐賀平野よりも高く、かつ複雑な流路だったことから鍋島村(佐賀市)で堤防が決壊、濁流は佐賀市内に流入したが同時に東より筑後川本流や田手川・城原川の濁流が押し寄せ、両者が佐賀市近辺で合流することにより浸水被害を倍化させた。最終的に有明海の海岸堤防を人工的に破壊するなどして濁流を排水することにより浸水は収束したが、水が完全に引くまで1ヶ月以上掛かった地域もあった。唐津市を流れる松浦川でも源流部である天山山麓で豪雨となり、特に支流の厳木川(きゅうらぎがわ)が氾濫して浸水被害が多発している。

佐賀県内では死者59名、全壊家屋319棟、床上・床下浸水7万9,898棟の被害となった。

[編集] 大分県

大分県でも大分市で698.5ミリの雨量を降り始めから観測したのを始め、日田市で705.6ミリ、玖珠郡森町(玖珠町)で835.5ミリなどの記録的豪雨となったが、日田郡上津江村ではこの豪雨災害では最も多い1,148.5ミリを記録した。これにより県都・大分市や日田市、玖珠郡などで被害が拡大した。また県南部の祖母山傾山でも山腹崩落が多発している。

[編集] 大分市

大分市では市内を流れる大分川が氾濫。七瀬川合流点に程近い宗方地区と、南大分尼ヶ瀬水門付近にある大分川の堤防が決壊し市内に濁流が押し寄せた。国道197号の舞鶴橋も流失し市内だけで9,317棟が浸水、大分市街地もほとんど浸水した。特に舞鶴橋右岸の大分市津留(今津留・東津留)地区が橋梁流失による県道の寸断で交通が完全に寸断され、500世帯が孤立した。またこの地区には大分県立大分商業高等学校など高等学校2校、中学校1校があり通学にも影響を与え、仮の橋を大分川に架けることにより大分市内への交通がようやく再開した。この豪雨で被災した大分市民は4万8,340人に及んだ。

[編集] 日田・玖珠

また筑後川流域では筑後川本流と支流の玖珠川が氾濫、濁流は日田市内へ流れ込み市内の通りを激流となって押し寄せ三隈川に架かる銭淵橋が吹き飛ばされた。日田市は日田盆地にあるが、この地は筑後川と玖珠川・花月川が一斉に合流する土地で、かつ下流に夜明峡谷があるため河水の流下能力が乏しく、洪水の際には峡谷がダム化し河水が逆流するバックウォーター現象が起こる。このため日田市内は行き場を失った洪水が「貯水」され、全市が平均1~2メートルの深さで浸水した。これに輪をかけて完成したばかりの国道210号三隈大橋に上流から流れ来る大量の流木がせき止められてダム化し、浸水被害に拍車をかけた。玖珠川合流点より上流部の筑後川(大山川)流域や玖珠川上流部でも水位が軒並み10メートルを超え、河道が変わるほどの濁流となり農地や家屋の流失が深刻であった。

国道210号、国道212号国道386号および久大本線は完全に不通、通信線や送電線も寸断されたことで日田市や玖珠郡は一時完全に孤立した。日田市では死者17名、被災者数3万7,000人に及んだ。

[編集] 被災者の実態

1947年(昭和22年)のカスリーン台風1948年(昭和23年)のアイオン台風に匹敵する被害をもたらしたこの水害に対して当時の第5次吉田内閣は直ちに大野伴睦国務大臣を本部長とする「西日本水害総合対策本部」を福岡市に設置、戸塚九一郎建設大臣を現地に派遣したほか、駐留アメリカ軍や発足したばかりの保安隊[10]災害派遣を命令し救助活動や救援活動を行った。この水害の後、政府は福岡・佐賀・熊本の被災者2,000名を対象に7月30日から8月7日までの間、「西日本水害に関する世論調査」を行った。水害における行動や被害実態、救助活動や支援活動に関する被災者の実態を調査する内容であったが、被災直後における被災者の実態や考えを垣間見ることが出来る。

まず水害を何で知ったかという質問であるが、回答者の55.4パーセントが「突然やってきた」と答えており、この水害が予測の付かなかったものであると認識していた。「自らの経験で予測できた」と答えた被災者が19.7パーセントと次に多く、ラジオなどで知ったと答えたのは19.1パーセントと少なかった。一方その後の水害情報の入手元についてはラジオが55.7パーセントと最も多く、新聞が38.1パーセントと続いており、予報よりもその後の被災情報にラジオ・新聞といった報道を活用していた。因みにデマが飛ぶということはほとんどなかったようである。

被災後の食糧・物資に関してであるが、食糧調達については「自分で凌いだ」・「他人の援助を受けた」という答えが最も多く、拮抗していた。被災者は何らかの方法で食糧を確保していたようだが、「食事が無かった」と答える被災者が18パーセントいた一方で「困らなかった」と答える被災者も18.5パーセントおり、被災地によって状況が分かれている。しかし飲料水については食糧に比べ困窮する割合が高く、全体の44パーセントが雨水や他人から水をもらうことで何とか凌いでいた。災害後の物価に関しての質問では野菜類やの価格が高くなっていると答えた被災者が多く、道路・鉄道といった陸路が洪水による寸断によって発生した交通麻痺や水害による農地流失が影響していることが考えられる。

政府の救援対策については「十分」24.9パーセント、「不十分」21.7パーセント、「よくわからない」45.8パーセントと被災者の意識は様々であった。被災者間で最も評価されたのは食糧の無料配給で39.2パーセントが評価している。食糧配給については1日目~2日目に行われたと回答した被災者が50.3パーセントに上り、被災直後より比較的速やかな食糧配給が行われたことも評価につながっている。また救援物資について37.9パーセントの被災者が毛布・寝具、衣料が最も役立ったと答えた。保安隊による災害派遣については65.1パーセントの被災者が「有難かった」・「役立った」と答えており、肯定的な意見が多かった。そして今後政府に求める被災対策としては被災した商工業者に対する融資などの金融支援や税金の減免措置を求める声が多く、生活再建に対する被災者の不安がにじみ出ている。

なお、この水害は防ぐことが出来たかという質問に対し、被災者の38.4パーセントが「天災だから防ぎようがない」と答えており、「護岸整備や治水で防ぐことが出来た」と答えた26.1パーセントを上回っており、水害常襲地帯に暮らす住民の本音がうかがえる。

[編集] 対策

水害を機に建設された松原ダム筑後川)。

この水害は過去営々と積み上げてきた治水事業を根本から覆す災害であった。また同時期には南紀豪雨紀州大水害7月17日~18日、死者・行方不明者1,046名)や「集中豪雨」という言葉が初めて使用された南山城豪雨(8月14日~15日、死者105名)なども起こっており、1953年は水害の当たり年でもあった。戦後の日本は台風や豪雨による甚大な人的被害を伴う水害が毎年頻発していたが、その原因は森林の乱伐と治水対策の不備であった。決壊した夜明ダムについては「水害を増幅したのではないか」とする意見が出たことにより、河川管理者である福岡県と大分県が合同で[11]調査を行ったが、ダムによる水害増幅という意見は否定され、やはり上流部の河川改修不備が原因であるという調査結果がまとまっている。

内閣経済安定本部は水害の続発による被害額の増大が日本経済の復興に影響を及ぼすことに懸念を抱いていた。そこでテネシー川流域開発公社(TVA)方式で治水を行い、併せて農地灌漑水力発電を組み合わせることで河川開発を行い、日本経済の復興に資するとした河川総合開発事業を日本各地の河川で企画していた。一方河川行政を司る建設省北上川江合川鳴瀬川利根川木曽川淀川吉野川と筑後川の主要7河川でダムを中心とした治水計画である「河川改訂改修計画」を1949年(昭和24年)に立案しており、同年に「筑後川改訂改修計画」が立案されていたが今回の水害を機に再検討が行われた。そして河川総合開発事業と組み合わせて治水と利水を同時に行える多目的ダムを建設する方針に切り替え、併せて大規模な河川改修を行うこととした。また福岡・大分両県も多目的ダムの建設に乗り出した。

建設省は筑後川本流と支流の津江川、玖珠川[12]、城原川への多目的ダムを建設を軸に、同時に筑後川中流部に三本の分水路を建設、さらに下流部は大規模な堤防改修を行う計画を立案。1957年(昭和32年)に筑後川水系治水基本計画を発表。これに伴い建設されたのが松原ダム・島内可動堰(筑後川)と下筌ダム(津江川)のほか、下流の狭窄部を拡張して河水の流下能力を向上させるための大石・原鶴・千年分水路(筑後川)と久留米市東櫛原大規模引堤事業、支流への洪水逆流を防止するための水門整備や補強などである。この後さらに筑後大堰(筑後川)、寺内ダム(佐田川)が建設され、現在は小石原川ダム(小石原川)、大山ダム赤石川)、城原川ダム(城原川)が建設中である。福岡県は矢部川、遠賀川、紫川水系などへの多目的ダム建設を実施し、日向神ダム(矢部川)、ます渕ダム(紫川)、油木ダム(今川)、陣屋ダム(中元寺川)などを建設、現在は筑後川の支流・巨瀬川に藤波ダムを建設している。大分県は早い段階で大分川の河川総合開発事業に乗り出し、支流の芹川芹川ダムを完成させた。

こうした治水事業の整備により、これらの河川では複数県をまたぐ広範囲の浸水被害や、堤防決壊による多数の家屋・橋梁・鉄道流失を伴うような大規模水害は発生していない。しかし、1980年代以降は地球温暖化ヒートアイランド現象との関連が指摘される極端な集中豪雨や都市型豪雨が頻発、2009年(平成21年)にはこの災害の降水量に匹敵する集中豪雨、平成21年7月中国・九州北部豪雨が発生した。土石流やがけ崩れにより多数の死者を出す惨事となり、新たな災害対策が求められている。また蜂の巣城紛争に見られる、治水対策の遂行による住民の新たな犠牲というものも生じている。

[編集] 脚注

  1. ^ 昭和の大合併で野上町となり、その後九重町となった。
  2. ^ 現在の警察庁九州管区警察局
  3. ^ 現在の国土交通省
  4. ^ 治水計画で定められた限界の河川水位。現在の氾濫危険水位を上回る水位であり、これを超えると洪水の危険が極めて高くなる。
  5. ^ 昭和の大合併で市制を施行し甘木市となり、平成の大合併朝倉市になる。
  6. ^ 現在のJR九州
  7. ^ 福岡・佐賀・大分三県における総数である。
  8. ^ 昭和の大合併で三田川町となり、平成の大合併で現在は吉野ヶ里町となっている。
  9. ^ 昭和の大合併で諸富町となり、平成の大合併で現在は佐賀市となっている。
  10. ^ 現在の自衛隊
  11. ^ 当時は旧河川法が施行されており、河川管理者は下流を除き都道府県知事であった。夜明ダムは福岡・大分県境にあることから共同調査となった。
  12. ^ 1973年(昭和48年)に最上流部の玖珠郡九重町に猪牟田(いのむた)ダムが計画されたが、地質問題を解決できず中止となっている。現在玖珠川本流にはダムが建設されていない。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

最終更新 2009年10月1日 (木) 15:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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