時津山仁一

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時津山 仁一(ときつやま じんいち、1925年4月13日 - 1968年11月21日)は、福島県いわき市出身で立浪部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。現役時代の体格は182cm、137kg。本名は藁谷純一。得意手は左四つ、吊り、矢柄投げ掬い投げ

[編集] 来歴

幼い頃両親が離婚し、祖父母の手によって育てられた。1940年5月場所に、大坂相撲系統の時津風部屋から初土俵をふんだ。しかし、まもなく部屋は閉鎖され、彼は立浪部屋に移籍することになった。当時の四股名は出身地にちなんだ「平」だったが、のちに時津山と名乗ったのは、時津風出身をあらわしたものである。

最初は弱く、番付についたのは1943年1月場所だった。実力を発揮し始めたのは戦後兵役から帰還したあとで、1946年11月場所に幕下で7戦全勝で優勝、十両昇進を決めたころから期待されるようになる。新入幕は1949年5月場所、その場所は負け越して一度は十両に陥落したが、すぐに復帰、1950年9月場所に最初の三賞(敢闘賞)を受賞し、幕内力士として定着する。吊りや矢柄投げという大技を駆使して活躍し、強靱な足腰を誇る若乃花を土俵中央で振り回すほどだったが、それが逆に成績のむらとなってあらわれることもしばしばだった。そのために、12勝を挙げた場所が7場所あるなど大勝ちはするのだが、それが持続せずに、大関候補と呼ばれても、関脇にとどまった原因だといわれる。しかし、このころ同じ立浪部屋で、若羽黒安念山北の洋とともに、立浪四天王とよばれ、上位陣をおびやかす存在であり、戦後最強の関脇との呼び声が高かった。

彼の成績で特筆されるのは、1953年5月場所の15戦全勝での幕内最高優勝である。しかし、東前頭6枚目でありながら、対戦相手の最高が小結出羽錦だけで、1敗で追走していた吉葉山栃錦の両大関(この2人が千秋楽に対戦し吉葉山が勝っている)との対戦もなかった(吉葉山の1敗は実は出羽錦だった)ことから問題視された。しかしその後、1955年1月場所には12勝3敗で横綱千代の山との優勝決定戦に出場(結果は敗戦)し、以前の優勝がまぐれではなかったことを証明した。

35歳になった1960年3月場所に12勝3敗の好成績をあげ、翌5月場所の初日に横綱栃錦から金星をあげたのが最後の栄光で、その後は番付も降下し、1961年3月場所には十両に落ち、その場所全休して引退、年寄押尾川を襲名したが、43歳の若さで肝癌のために亡くなった。幼少時の体験からか内気な性格で記者泣かせだったが、養子を迎えてからは明るくなった。また仲間うちからは「純ちゃん」の愛称で親しまれていた。

[編集] 主な成績

  • 幕内在位:49場所(うち関脇10場所、小結5場所)
  • 幕内成績:359勝336敗40休(49場所) 勝率.517
  • 幕内最高優勝:1回(全勝)
  • 三賞:殊勲賞3回、敢闘賞4回
  • 金星:8個(照國1、吉葉山1、栃錦4、千代の山2)

[編集] 関連項目

最終更新 2009年4月9日 (木) 12:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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