晏嬰

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晏嬰(あんえい、? - 紀元前500年)は、中国春秋時代の政治家。。父は晏弱(晏桓子)。霊公、荘公光景公の3代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った。莱の夷維の人。晏平仲、もしくは晏子と尊称される。

目次

[編集] 略歴

晏嬰の身長は「6尺に満たず」と史書にある。代の時代の1の長さは22.5cmであり、6尺は135cmとなるから、140cm足らずということになる。しかしその小さな体に大きな勇気を備えており、常に社稷(国家)を第一に考えて諫言を行い、斉に於いて絶大な人気を誇り、君主もそれを憚ったという。また自身は、倹約を行い、質素な生活を心がけ、肉が食卓に出てくることが稀だったという。

[編集] 羊頭狗肉

最初に仕えた霊公の時、町の女性の間で男装をすることが流行り、霊公はこれを止めさせたいと思って禁令を出した。しかし、もともとこの流行は霊公の妃から始まったのであり、霊公は相変わらず妃には男装をさせていたので、流行は収まらなかった。そこで晏嬰は「君のやっている事は牛の肉を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります。」と諫言し、その通りにすると流行は収まった。このことが「牛頭馬肉」の言葉を生み、後に変化して「羊頭狗肉」になる。

またとの戦いで敗北した時に、まだ戦えるにもかかわらず霊公が逃亡しようとしたので、これを必死で止め、「あなたも勇気がないのですね。まだ戦えるのにどうして逃げるのですか」と諌めた。その際、霊公の袖を晏嬰が引きちぎってしまい、霊公がその無礼に怒って剣に手をかけたが、晏嬰は「私を斬り捨てる勇気を持って敵と戦って下さい。」と言う。が霊公はこれを聞かずに「お前を斬り捨てる勇気がないから逃げるのだ。」と首都臨淄へ逃げ帰った。

[編集] 社稷のために

次代の荘公の時の紀元前551年、晋の卿(大臣格の貴族)の欒盈(らんえい)が士匄(范匄)との権力争いに敗れて、斉へ亡命してきた。荘公はこれを歓迎して復讐に手を貸そうとし、晏嬰はこれに大反対するが、受け入れられなかった。荘公は度々の晏嬰の諫言を疎ましく思うようになり、それを感じとった晏嬰は職を辞して農民となり、畑を耕すようになった。

荘公は宰相崔杼の妻と密通していた。この事に怒った崔杼は紀元前548年5月、自分の家に荘公をおびき寄せ、兵をもって殺した。これを聞いた晏嬰は急いで駆けつけた。もし荘公を悼む様子を見せれば崔杼によって殺され、崔杼におもねれば不忠の臣としての悪名を受けることになる。これに対して晏嬰は「君主が社稷のために死んだのならば私も死のう。君主が社稷のために亡命するのなら私もお供しよう。しかし君主の私事のためならば近臣(直臣)以外はお供する理由はない。」と言って、型通りの哭礼だけを行って帰っていった。崔杼の家臣が晏嬰を殺そうとしたが、崔杼はこれを止めた。

その後、崔杼は慶封と共に景公を擁立し、反対派を圧迫するために皆を集めて「崔・慶に組しない者は殺す。」と宣言した。しかし晏嬰はこれに従わず「君主に忠誠を尽くし、社稷のためになる者に従う。」と言い返した。

これら一連の晏嬰の姿勢が、彼の名を不朽のものとしたのである。

崔杼と慶封は政権を握るが、崔杼は紀元前546年に慶封により殺され、その慶封も翌紀元前545年陳無宇や鮑氏(鮑叔の子孫)・高氏・欒氏に攻められて滅びた。この時にどちらの陣営も景公を手に入れて正当を主張しようとしたが、晏嬰は彼らの戦いを私闘として景公を守り通した。

[編集] 名宰相

その後、景公に信任されて宰相の地位に上り、田氏一門の司馬穰苴を推薦した。

紀元前540年に晋へ使いに行った時に晋の名臣・叔向と会い、「田氏(陳無宇・田乞親子)は民に対して恵みを与えて人気を取っているので、いずれ斉は田氏に取って代わられるかもしれない」と言った。この言葉は約150年後に実現することになる。

またへ使いに行った時に、楚の霊王は晏嬰の背の小ささを馬鹿にして、小さな犬しか通れないような門を作って、人間が通る門は閉じておいた。これに対して晏嬰は「犬の国には犬の門から入る。楚に入るのに犬の門からは入れない。」と叫んだ。これを聞いた霊王は、自分の国を犬の国と認める訳にはいかないので、やむなく門を開いた。しかし霊王もそれだけでは諦めず、晏嬰を呼び出し、その場に斉の出身である盗人を連れてきて、「斉人は盗みをよくするようだ」と言った。これに対して「は淮南(淮河の南)では橘になり、淮北ではになると聞いています。この二つの違いはその土地の風土の違いです。斉では盗みを働かなかった者が楚に入ると盗みを働く。楚の風土は盗人を作るようです。」とやり返した。さすがの霊王もこれには「聖人と共に戯れるものではないな。却って恥をかいた。」と脱帽したと言う。晏嬰の帰国後、暴虐な事で天下に悪名が知られる霊王を驚嘆させたことで、彼のその盛名は更に上がった。

その後も折に触れ、景公に対して諫言を行った。紀元前500年に晏嬰は妻に対して家法を変えぬようにと遺言して死去した。晏嬰が危篤に陥った時、景公は海辺に遊びに行っていた。そこに早馬が来て晏嬰が危篤と聞くと、馬車に飛び乗って臨淄に向った。景公は馬車の速度が遅いと、御者から手綱を奪い取り自ら御を取った。それでも遅いので、ついには自分の足で走った。晏嬰の邸に着くと、家に入り、遺体にすがって泣いた。近臣が、「非礼でございます」と言ったが、景公は「むかし夫子(晏嬰のこと)に従って公阜に遊んだ時、一日に三度わしを責めた。いま誰が寡人(わたし)を責めようか」と言い泣き続けた。

死後、「」を諡され、晏平仲と呼ばれるが、後世の人々は晏子と尊称した。

[編集] 評価

晏嬰は斉の宰相として管仲と並び称され、春秋時代を見渡しても一、二を争う名宰相とされている。司馬遷は『史記』列伝において最初の「伯夷・叔斉列伝」の次に「管晏列伝」(管仲と晏嬰)を持ってきている。さらには「(晏嬰の)御者になりたい」とまで語っており、尊敬の大きさが見て取れる。また、その言行録として『晏氏春秋』があり、その中には様々な逸話が載っている。

孔子も「平仲(晏嬰)は善く人と交わる。久しくして之を敬す。」と褒めているが、孔子には晏嬰に対して否定的な評も多い。ただ孔子は斉に仕官しようとして晏嬰に止められたということがあり、これが影響していると考えられる。また孟子は「民を尊しと為し、社稷は之に次ぎ、君を軽しと為す。」と言っているが、これは明らかに晏嬰を基にしたものであろう。

晏嬰の逸話として他に、3勇士を2つの桃で殺した話がある。公孫接・田開彊・古冶子の3人の勇将を晏嬰は退けたいと思い、2つの桃を用意して「功績の高い者から食べよ。」と言った。公孫接・田開彊が先に桃を取ると、古冶子が「私に功績が無いと言うのか。」となじった。公孫接・田開彊は自分の貪りを恥じて自殺し、古冶子も2人が死んで自分だけ生き残るわけにはいかないと自刎し、晏嬰の策略は成功した。彼らの人となりをよく知り、あえて3人を罪に陥れて刑罰に服せずに(つまり自分の手を汚さずに)自決させたこの逸話は「梁甫吟」という詩に詠われ、その詩を諸葛亮が良く口ずさんでいたことで有名である。

[編集] 晏嬰を題材にした小説

最終更新 2009年9月10日 (木) 05:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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