暗君
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暗君(あんくん)とは、後世の価値判断において愚かであると評価された君主のことを指す。
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[編集] 概説
特に君主たるものの義務を遂行しない君主、君主たるものの規範にもとる君主に対し、マイナスの評価として用いられる。特に東洋において国運が衰微する時期の君主に対して「暗君」または「凡君」の号を以ってすることが多いのは、国家滅亡の責任を君主の行為に帰することが広く行われたためである。
同じマイナス評価で暴君もあるが、暴君は「家臣を押さえつけて自分の意思を強行に断行した君主」と言うニュアンスなのに対し、暗君は「愚か」「政治に対する無関心」、凡君は「凡庸」「君主としての才能が無い」というニュアンスが強い。
どのような人物を「暗君」と呼ぶかはその語を用いる者の価値判断によって行われる。君主が「暗君」または「凡君」と呼ばれる場合には、その君主の暗愚ないし凡庸なることを伝える逸話が残っており(政務を放棄して遊興に耽った、など)、これを根拠としてこのような価値判断が行われる。もちろん、その逸話を伝えた歴史家自身の主観が反映されること(逸話自体が創作される場合もある)も考慮に入れる必要があり、結局のところは誰が暗君または凡君、誰が名君と言った議論は客観的、論理的に結論を出し得るものではない。
このため、古来から暗君として知られていた人物が近年の研究によって名君として再評価される場合もある(例:クラウディウス)。
対語は、明君(聡明な君主)、名君(優れた君主)であるが、ここで述べたのと同様の事情で結局のところ、歴史家、小説家等の価値判断によって用いられる語である。
[編集] 「暗君」として有名な人物
上述のように、以下列挙される人物に対する評価は一般的な評価であり、必ずしも歴史学的に客観性を帯びた評価ではなく、様々な意見が有る。
[編集] 日本
- 平宗盛
- 『平家物語』などの記述により、父平清盛、賢人あるいは知将と評されることが多い兄重盛や弟知盛らと比較される形で、「平家を滅ぼした愚人」とのイメージが強く定着している。
- 藤原泰衡
- 源義経を殺害し、源頼朝に屈服したにもかかわらず、頼朝に討たれたことから一般的な評価が低い。ただし、頼朝との力関係は父秀衡の消極策により既に埋められない差がついており、家督相続時に兄弟による内紛が有ったと見られ、義経もその絡みで殺害されたとみられる。
- 北条高時
- 鎌倉幕府執権。幕府滅亡時の得宗(嫡流家当主)。鎌倉幕府は幕府転覆を企てていた後醍醐天皇を更迭し、古典『太平記』をはじめ、儒教的価値観から江戸時代にかけては中国古代の暴君的イメージを重ねられる。『保暦間記』などによる、闘犬や田楽に熱中し、病弱な人物であったことが知られるようになると、暗君と評される傾向になる。
- 足利義政
- 室町幕府八代将軍。家臣に謀殺された将軍義教の子で、義教時代の将軍専制を試みるが、近臣の台頭や失脚により阻まれる。将軍家の後継者問題が有力守護大名家と関係して幕府を二分し、全国的な争乱となる応仁の乱に至る。文化的活動への傾斜から暗君、あるいは暴君と評され、乱後には政治的実権を正室の日野富子に奪われた。また、実子で将軍となる義尚も同様に評される傾向にある。
- 今川氏真
- 三国支配を確立していた今川氏を衰退に導いた。政治よりも和歌や茶道などの京風の華事に関心をおいたとされているが、領国経営に全くの無関心だったとは言えず、むしろ桶狭間の戦い以降の経営立て直しを図った。
- 斎藤龍興
- 美濃斎藤氏最後の当主。領国経営に関心を示さなかったため竹中重治(竹中半兵衛)の反乱により稲葉山城を奪われるも、重治本人は龍興を諫める目的での行動であったため城はすぐに返還された。しかし態度を全く変えようとしなかったため、美濃三人衆や竹中重治らの離反を招き、最後には織田信長の美濃侵攻によって美濃国主の座を追われた。もっとも、跡を継いだのが若年であり、しかも信長が隣国の主であれば、数年領地を維持するだけでも困難なことであったとの意見もある。
- 朝倉義景
- 一般的にイメージされる暗君というわけではないが、京風の興事に関心が行き、足利義昭を迎え入れたものの、上洛する気を起こさず、家臣明智光秀の離反を招いた。織田信長の越前侵攻によって隣国へ亡命しようとした矢先に従兄弟の朝倉景鏡に裏切られ、やむなく自害した。
- 小早川秀秋
- 豊臣秀吉の親族であったが、幼少時代から愚鈍さを知られ、その行く末を心配した秀吉が毛利家の養子にしようと小早川隆景に相談したとき、隆景は主家を救うためにすぐさま自分の養子として貰い受けることを申し出たといわれる。関ヶ原の戦いの折には、一応は西軍に与するも最後まで旗色を明確にせず、家康による鉄砲の威嚇射撃を受けて西軍に襲い掛かる。結果的にこれが戦いの趨勢を決した。この行動が卑劣で小心と見なされることが多い。
[編集] 中国
- 周の幽王
- 寵愛していた褒姒を笑わすためにいたずらで狼煙を上げ続けた結果、敵国に攻められた時に狼煙を上げても部下から信用されずに滅亡した。
- 秦の二世皇帝胡亥
- 宦官趙高の専横を許し、自らは後宮に入り浸って遊び呆けていた。馬鹿の故事成語の逸話がある。
- 晋の恵帝
- 「(穀物がないのならば)肉粥を食べれば良いではないか(何不食肉糜)」という発言は、フランス王妃マリー・アントワネットの逸話(マリーの発言ではないとの説が有力)と比較される(中にはこの発言が引用されたとの説もある)。皇后賈南風とその一族の専横を許し、八王の乱のきっかけを作った。
- 北宋の徽宗
- 文人として非常に名高いが、その反面自らの趣味のために民衆に過度の負担をかけ、女真族の台頭を許し、一族諸共金に連行されて生涯を終えた。『水滸伝』に登場することから暗君としてよく知られている。
- 明の万暦帝
- 25年後宮に引きこもって政務を執らなかったという記録を持つ。『明史』では「明は万暦において滅ぶ」と評される。
[編集] 朝鮮
- 李氏朝鮮の燕山君
- 必要以上の粛清の他、民に重税を課し学問の施設を遊楽場と変えて酒と女に入り浸りの生活を続けた。これにより国の財政を傾けた為、家臣によるクーデターで廃位となった。
- 李氏朝鮮の哲宗
- 彼自身は安東金氏による勢道政治の中では自分の政治権力を行使できないということを悟っていた。ちなみに、33歳(数え年)の若さで後継者が全く居ないまま死去している。
- 李氏朝鮮(→大韓帝国)の高宗
- 父大院君と正妃閔妃の権力争いや政治介入などによる国内の混乱を横に、自らは後宮に入り浸って酒色に耽溺し、清と日本、日本とロシアなどの間で主体性の無い外交を続けた結果、日本を始めとする諸外国の干渉と朝鮮王朝(のちの大韓帝国)の滅亡を招いた。
[編集] 西洋
- ローマ帝国皇帝コンモドゥス
- 暴虐帝。彼の登場によりいわゆる五賢帝時代は終わりを告げた。
- 西ローマ帝国皇帝ホノリウス
- 既にゲルマン人の侵入が始まっていたにもかかわらず、ラヴェンナに引きこもったまま政務を省みず、ローマ市が西ゴート人に略奪されても趣味である鶏を飼うことに熱中していたという。
- 東ローマ帝国皇帝ミカエル3世
- 「飲んだくれ」とあだ名され、放蕩に耽った暗愚な皇帝とされているが、実は帝位を簒奪したバシレイオス1世の行動を正当化するためだと言われている。
- ハンガリー王エンドレ2世
- イングランド王ジョン
- 欠地王。身勝手な行動と失政に怒った諸侯にマグナ・カルタを突きつけられ、王権を制限される。この王に結びつけて、累代のイギリス王室が男子にジョンと名付けることを避けていると語られるが、実際には全くいなかったわけではない(ジョン・オブ・ゴーントなど)。
- イングランド王ヘンリー3世
- バイエルン王ルートヴィヒ2世
- 執務を嫌い、美青年との放蕩やワーグナーの楽曲などに耽溺。また財政を一切省みずノイシュヴァンシュタイン城を始めとする数々の中世風城館を建設するなど数々の浪費と失政を重ね、精神病を理由に廃位される。
- バイエルン王オットー1世
- ルートヴィヒ2世の弟。兄と同じく精神病を理由に廃位される。王位を継いだ従兄ルートヴィヒ3世の陰謀との説もある。

