曹髦

曹髦の最新ニュースをまとめて検索!

高貴郷公 曹髦
4代皇帝
王朝
在位期間 254年 - 260年
姓・諱 曹髦
彦士
生年 241年
没年 260年5月7日
東海定王・曹霖
年号 正元254年 - 256年
甘露256年 - 260年

曹髦(そうぼう)は三国時代の第4代皇帝。廃位されたためはなく、一般的には即位前の称号である「高貴郷公」と呼ぶ。

[編集] 概要・人物

文帝(曹丕)の孫であり、東海定王曹霖の子で、兄に曹啓がいる。『晋書』景帝紀によれば、斉王芳の廃位後、司馬師の反対を押し切って郭皇太后が皇帝に推したという。

三国志』によると、彼の才能は幼い頃から抜きん出ていたという。次第に衰運が明らかとなる魏王室を再興させる望みを託されて即位した。群臣と論議することを好み、彼がまだ16歳の時に帝王の優劣について荀顗荀彧の六男)らと過去の皇帝の優劣について論じたという記録が残っている。 奇しくも曹髦が評価したのは、滅亡寸前の夏王朝を建て直した少康であり、彼の臣下が推したのは漢の高祖であった。論戦には勝った旨が記されているが魏の衰運を押しとどめることはついに叶わなかった。

曹髦はよく王沈(曹髦に「文籍先生」と呼ばれた)・裴秀(曹髦に「儒林丈人」と呼ばれた)・司馬望鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。

斉王以来、魏は司馬師・司馬昭が専権するところとなっており、皇帝は傀儡であった。曹髦は「司馬昭の(簒奪を目論む)心は、道行く人でも皆知っている」と言い、自ら剣を手に、わずかな近衛兵を率いて挙兵した。しかし、挙兵を打ち明けた王業・王沈・王経の内、王業・王沈が密告したため、既に司馬昭の懐刀である賈充が軍勢とともに待ち受けていた。しかし、誰も天子を畏れて斬りかかろうとしなかった。賈充は部下たちを「司馬公がお前たちを養ってこられたのは、まさに今日のためである」と叱咤し、罪に問わないと約束した上で曹髦を殺害させた。『晋書』文帝紀では「太子舎人成済、戈を抽きて蹕(さきばらい)を犯し、之を刺すに、刃は背より出で、天子は車中に崩ず」とある。

結局、司馬昭は実行犯の成済に全責任を押しつけ、一族もろとも処刑してしまった。成済は処刑直前、門の屋根に登り司馬昭や賈充を罵ったという話も伝わる。また、ただ一人密告しなかった王経も、老母ともども処刑された。一方、賈充は全く罪に問われなかった。

『魏志春秋』によると、高貴郷公暗殺を聞いた太傅司馬孚と尚書僕射の陳泰は、若い皇帝の遺体を膝に乗せて哭礼を行ったという。そこへ、当の司馬昭が参内し、陳泰は彼に向かって泣いた。司馬昭は密室に陳泰を連れ込み、これからどうしたらよいか方策を聞いた。陳泰は「殺害を命じた賈充を腰斬に処すくらいしか、天下に謝罪する方法はありません」と言い、譲歩を訴える司馬昭に対して「私が申し上げるのはこれだけです。他の策など存じません」と譲らなかったという。[1]

公式発表では曹髦が皇太后の殺害を企て、その宮殿に乗り込まんとして、逆に衛兵に殺害されたとしたために、彼の葬儀は当初は庶民として扱う旨の命令が出されていた。司馬孚はこれを聞くと自ら皇太后に談判し、その結果王の格式で葬儀を行うことになった。

このあたり、陳寿の筆致は晋の史家だったためか、事実をそのままは伝えていない。5月7日に高貴郷公が亡くなったという一文の後、真実そのような事があったとも思われない皇太后殺害未遂という公式発表、司馬孚らの葬儀に対する言上を続けているのみである。事実は、裴松之による註により補われた。

[編集] 略歴

  • 244年、高貴郷公に封ぜられる。
  • 254年曹芳の廃立に伴い、司馬師によって帝位につけられた。司馬師は曹拠を擁立しようとしたが、皇太后が曹髦を勧めたので、これに譲歩したのである。
  • 255年毌丘倹文欽が司馬師の専横に対して反乱を起こした。同年、司馬師が死去し、弟の司馬昭が後を継いだ。曹髦はこれを機に司馬昭を許昌に留め置き、その軍勢は洛陽に向かわせるように命じ、兵権を奪おうとした。しかし、軍勢の洛陽への移送を命じられた傅嘏はこれに従わず司馬昭に味方したため失敗。司馬昭を大将軍・録尚書事とした。
  • 256年、司馬昭に大都督の称号を付加した。
  • 257年諸葛誕が司馬昭に対して反乱を起こした。(~258年
  • 258年2月寿春で諸葛誕が斬られた。息子の諸葛靚に亡命した。夏5月、司馬昭を相国・晋に封じ、九錫を授けたが、司馬昭は辞退した。これは曹髦の意志ではなく、簒奪を視野に入れた司馬昭の差し金である。司馬昭は機が熟していないと見て、辞退したのである。
  • 260年4月、再び司馬昭を相国・晋公に封じ、九錫を授けた。翌5月7日、曹髦は司馬一族の専横に対して兵を挙げ、手持ちの兵はほとんど無く、自ら剣を振るって戦うがかえって殺害されてしまう。齢20歳。

[編集] 脚注

  1. ^ ただし、裴松之はこの記述の信憑性に疑義を呈している。
先代:
斉王
皇帝
第4代:254年 - 260年
次代:
元帝

最終更新 2009年7月21日 (火) 12:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【曹髦】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!