朝潮太郎 (4代)
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| 朝潮太郎 | |
|---|---|
| 四股名 | 朝潮 太郎 |
| 本名 | 長岡 末弘 |
| 愛称 | 大ちゃん |
| 生年月日 | 1955年12月9日(53歳) |
| 出身 | 高知県安芸郡 (現在の室戸市) |
| 身長 | 181cm |
| 体重 | 185kg(現役時) |
| 所属部屋 | 高砂部屋 |
| 得意技 | 突き、押し、左四つ、寄り |
| 成績 | |
| 現在の番付 | 引退 |
| 最高位 | 大関 |
| 生涯戦歴 | 564勝382敗43休(67場所) |
| 幕内戦歴 | 531勝371敗33休(63場所) |
| 優勝 | 幕内最高優勝1回、幕下優勝1回 |
| 賞 | 殊勲賞10回、敢闘賞3回、技能賞1回 |
| データ | |
| 初土俵 | 1978年3月場所(幕下付出) |
| 入幕 | 1978年11月場所 |
| 引退 | 1989年3月場所 |
| 引退後 | 若松部屋→高砂部屋師匠 |
| 備考 | |
| 金星5個(北の湖4、輪島1) | |
| 2009年9月2日現在 | |
朝潮 太郎(あさしお たろう、1955年12月9日 - )は、高知県安芸郡(現在の高知県室戸市)出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は大関。現在は年寄・7代高砂浦五郎。本名は長岡末弘(ながおか すえひろ)、現役時代の体格は身長182cm、体重186kg。得意手は突き、押し、左四つ、寄り。
目次 |
[編集] 来歴
学生アマチュア横綱出身。1978年(昭和53年)3月場所幕下付出(60枚目格)に本名「長岡」で初土俵。同年7月場所新十両、11月場所新入幕。1979年(昭和54年)3月場所「朝汐太郎」と改名。1982年(昭和57年)11月場所「朝潮」に改名。1983年(昭和58年)3月場所後大関昇進。1989年3月場所引退。
「大ちゃん」と呼ばれ、相撲を知らない人でも名前だけは聞いたことがあるという人が多かったほどの人気を博した大関であった。
[編集] 入門から幕内上位
高知小津高時代から相撲を始め、近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得。その好成績から幕下付出が認められ、1978年3月「今度はプロの横綱を目指します」と当時古参幕下力士の少なかった高砂部屋に入門し、負け越し知らずでわずか4場所で入幕。当時すでに高齢であった高見山大五郎や 富士櫻等関取に古参が多かったのですぐに自分が部屋頭になれると思いきや二人が30代後半まで関取として 土俵に上がるったため大変だっと話していたという。(相撲2009年6月号の東関ー中村両親方の対談より。) なお後述にあるとおり二人からは若手時代には猛烈なしごきを受けている。
入幕2場所目で大関貴ノ花を破り、初の敢闘賞を獲得。当初は本名で取ることを希望していたが先代朝潮太郎だった師匠から高砂部屋では最高の四股名である「朝汐太郎」を受け、襲名する。4代目[1]の朝汐誕生である。しかし早くもプロの壁にぶつかり、翌1979年3月場所、上位陣との連日の対戦で初日から8連敗を喫する大不振に陥り、やっと手にした白星は、9日目の大関旭國休場による不戦勝だった。結局この場所は5勝10敗に終わり、それから数場所も負け越しの連続で幕内下位に低迷し、影が薄い存在と化していた。この頃、相撲に自信をなくし廃業してたこ焼き屋でもやろうか、と考えていたところを兄弟子の富士櫻に叱咤されてもいる。
その後、徐々に幕内上位に返り咲き、1980年(昭和55年)3月場所11日目、横綱北の湖との2度目の対戦で、朝汐は北の湖が出たところを豪快な引き落としで破り初金星を挙げ、これを皮切りに朝汐は上位陣から恐れられることになる。以後朝汐は輪島、三重ノ海、若乃花、千代の富士といった横綱陣との対戦では度々土をつけ、特に当時の実力第一人者である北の湖との対戦では、仕切りから横綱の計算を狂わせ、ファンはおろか当の上位力士でさえも驚くばかりの強さを発揮し、当時の幕内力士では唯一北の湖に通算13勝7敗(不戦勝1含む)と歴然とした差で勝ち越したことで話題を呼んだ。素晴らしい成績を挙げながらも優勝・大関には手が届かず、3度あった優勝決定戦ではあと一歩のところで及ばず、勝敗の差が激しく連勝か連敗が目立ついわゆる「連(ツラ)相撲」も特徴であった。この頃は大関挑戦の場所を迎えては負け越し(あるいは最小の勝ち越し)て失敗、数場所後に大勝ちして再(々)度大関挑戦の繰り返しであった。
特筆すべきは1983年1月場所である。この場所の朝潮は破竹の勢いに乗り、北の湖を掬い投げでひっくり返し、若乃花を土俵下に突き飛ばして引退に追い込み、千代の富士も押し出して横綱を総なめにし、琴風以外の大関も倒す大活躍を見せつけた。結果は琴風との優勝決定戦となり、惜しくも敗れたが、大物同士がひしめき合ったこの場所で14勝1敗という優勝同然の成績を挙げた朝潮の活躍は、相撲内容も優勝した琴風以上のもので、横綱キラー朝潮の強さをまざまざと見せつけた場所であった。関脇以下の力士が横綱を3人倒すという快挙は当時では非常に稀で、歴史を辿っても過去に2人(先代朝潮・富士櫻)しかいなかった。翌3月場所でも12勝3敗と大関へ昇進する条件の成績を挙げ、ついに大関の座を射止めた。まさに朝潮が最も脂の乗った時期であった。
[編集] 大関時代
大関でも連相撲ぶりが目立っていたが、1984年(昭和59年)頃から、従来の突き押し主体から左四つ右上手で寄る相撲に変わっていき取り口的にも安定、1985年(昭和60年)3月場所では6日目から連勝を重ねて勢いに乗り、千秋楽で大関若嶋津との相星決戦を制し、第二の故郷大阪で悲願の初優勝を果たした。この時期には相手に当たった衝撃で額から血を流すことがしばしば見受けられ、流血も顔を二分化するかのような凄まじいものであった。本人は「白星欲しさに」だというが後に「あんなことしても痛いだけなんですけどね」と言っている。初優勝した場所でも流血して勝ちを取ったかのような勢いがあった。この場所を最後に兄弟子の富士櫻が引退、最後の餞にと優勝パレードでの旗手に指名した。この時の朝潮は横綱も正面から打ち負かすほどの最強の強さを発揮していた。しかし初優勝以後、10勝以上を挙げたのは2度で、14日目か千秋楽に勝ち越しを懸ける場所が多くなっていった。それでもライバルとしては北天佑、隆の里、千代の富士(但し千代の富士の関脇昇進後は差が開いた)、琴風、若嶋津などがいた。北天佑とは25勝16敗という成績を残し、引退まで同じ大関としてよく互角の勝負を演じた。隆の里とは14勝12敗とほぼ互角の成績で、勝ったと思ったら、翌場所は負けるといった勝敗の繰り返しが目立ち、因縁めいた対決が見物であった。
苦手力士も多々いた。琴風とは優勝を争ったこともあり、成績では10勝16敗と負け越したものの、時々豪快に勝つこともありファンを湧かせ、苦手というよりはむしろライバル的な顔合わせであった。後から出てきた双羽黒(4勝12敗)、大乃国(13勝18敗)、旭富士(5勝22敗)には大きく引き離され、年齢差や体格の違いからも勝つことが難しかったようだ。他にも下位力士に不覚を取ることが日常茶飯事で、成績も安定感に欠ける面があり、優勝も1回だけで2桁勝利は意外と少なかった。最晩年には、当時は突き押しのみが得意だった100kgに満たない幕内最軽量級の若手力士寺尾にがっぷり四つに組まれ電車道の横綱相撲を取られる失態を犯した。これはある意味朝潮の致命的な弱点で、受けに回るとあっけなく寄り切られるという巨漢力士に似合わぬものであった。稽古不足の影響か晩年は押し相撲には必須の出足が鈍り引きや叩きに対して脆く(前に落ちやすく)なってしまった。
成績は大関止まりであったが、当時の横綱大関陣の優勝、番付昇進は朝潮の活躍が大きく作用している点も見逃せず、対戦力士にとって優勝や昇進においてベンチマーク的存在となっていた。北の湖は前述の通り、朝潮に再三敗れたために、全勝、連勝を何度も止められている上、千代の富士にも幾度も優勝を譲っている。1981年(昭和56年)1月場所では関脇千代の富士は全勝で千秋楽を迎えた。北の湖は朝汐に負けて13勝1敗、千秋楽の北の湖対千代の富士は北の湖が勝ったが決定戦で千代の富士が本割のお礼とばかりに横綱を這わせ初優勝、場所後大関に昇進した。同年7月場所で横綱昇進を決めたのも、全勝の北の湖が朝汐に突き倒されて、千秋楽に相星決戦となった伏線があり、これもまさしく朝潮の暗躍の結果である。
学生時代は相撲以外にも数学系を得意とし成績優秀であり、教師を志していたという。また、本場所で支度部屋での朝潮は面白いキャラクターそのもので、その日の勝敗についてよくマスコミと冗談も交えて談笑して雰囲気を盛り上げたものであった。「高砂部屋の芸能部長」を自認し、CMにも出演、また1984年にはラジオシティレコードから「ほたる川」で歌手デビューするなどの活動もあった。この朝潮の話し方は難波人らしいもので、のちに相撲協会の広報部長に就いたのも、持ち前の話術をうまく生かしていたものと言えた。現役時代は稽古嫌いなどと一部では揶揄されていたが、実際には富士櫻や高見山に半殺し同然にされるまでの猛稽古を付けさせられていた。
また、いしいひさいちの4コマ漫画でも主人公となり、『ワイはアサシオや』という単行本になったほど。彼のキャラクターがいかに魅力的だったかがわかる。ちなみに彼自身この漫画のファンで、いつも読んでは爆笑していたという。また木村えいじの漫画『達磨』の、達磨親方役も本人の公認済。器の大きさを表すエピソードである。
[編集] 現役引退後
1989年(平成元年)3月場所限りで現役引退した後は、年寄・山響を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、10代若松親方(関脇・房錦)が病気で廃業したことに伴い、1990年(平成2年)3月に11代若松を襲名して若松部屋を継承した。山響親方、若松親方時代には、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』などのバラエティ番組にも積極的に出演し、独特のキャラクターで視聴者を笑わせていた。
師匠である6代高砂(小結・富士錦)の停年が近づくと、当初後継者とみられていた高砂部屋付きの 錦戸親方(関脇・水戸泉)が諸事情で継げなくなってしまったため、2002年(平成14年)2月5日付で6代高砂と年寄名跡の交換を行い7代高砂を襲名するとともに、若松部屋の力士全員が高砂部屋に移籍した。この間、幕内・朝乃若、朝乃翔、十両・朝太田などの関取を育てた。
さらに、2000年(平成12年)2月から2008年(平成20年)1月まで4期8年にわたり日本相撲協会理事の要職を務める一方、横綱・朝青龍を育てた。現役時代は、旭富士と並び、代表的な稽古嫌い名力士として知られ(但し上記に記載したような猛稽古も実際にはしていた)、素質や人気から期待された横綱昇進は果たせなかったが、愛弟子がその夢を開花させることになった。
一方、朝青龍の横綱昇進後も絶えることの無い問題児ぶりは、力士本人の責任もさることながら、親方の管理能力の低さに起因するとの指摘がある。とくに2007年(平成19年)夏以降の一連の出場停止騒動を巡っては、弟子の力士生命に関わる問題を前に右往左往するばかりで、あらためてその指導者としての資質が問われた。一方で、弟子を縛らない自由な育成方針が、朝青龍の才能を大いに開花させたという側面も否定は出来ない。
2008年(平成20年)7月に、弁明も兼ねた自著『親方はつらいよ』(文春新書、また巻末に朝青龍のお詫び文を掲載)を出し思いのたけを明かしている。本場所開催中(偶数日付)は日刊スポーツの相撲担当評論家として、同誌に解説「大ちゃん 大分析」を連載している(奇数日付は納谷幸喜=元横綱大鵬の「土評」)。2009年(平成21年)7月場所現在、協会役員待遇委員兼審判部副部長、審判長を務めている。
[編集] 主な成績
- 通算成績:564勝382敗33休 勝率.596
- 幕内成績:531勝371敗33休 勝率.589
- 大関成績:294勝203敗43休 勝率.592
- 幕内在位:63場所
- 大関在位:36場所(歴代当時2位、現在7位)
- 幕内最高優勝:1回(1985年3月場所)
- 三賞:14回
-
- 殊勲賞:10回
- 敢闘賞:3回(1979年1月場所、1979年9月場所、1982年5月場所)
- 技能賞:1回(1983年1月場所)
[編集] 幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1978年 (昭和53年) |
x | x | x | x | x | 西 前頭 #13 9–6 |
| 1979年 (昭和54年) |
東 前頭 #6 10–5 敢 |
東 前頭 #1 5–10 |
東 前頭 #6 6–9 |
東 前頭 #10 6–9 |
東 前頭 #14 10–5 敢 |
西 前頭 #6 7–8 |
| 1980年 (昭和55年) |
東 前頭 #7 8–7 |
西 前頭 #2 10–5 殊★ |
東 小結 10–5 殊 |
西 関脇 11–4 殊 |
東 関脇 6–9 |
西 前頭 #2 7–8 |
| 1981年 (昭和56年) |
東 前頭 #3 8–7 ★★ |
東 前頭 #1 8–7 |
西 小結 9–6 殊 |
東 張出関脇 11–4 殊 |
西 関脇 7–8 |
西 張出小結 12–3[2] 殊 |
| 1982年 (昭和57年) |
西 関脇 6–9 |
西 前頭 #1 8–7 ★ |
西 小結 13–2[2] 殊 |
西 関脇 8–7 |
西 張出関脇 7–8 |
東 前頭 #1 9–6 ★ |
| 1983年 (昭和58年) |
西 関脇 14–1[3] 殊技 |
東 関脇 12–3 殊 |
東 張出大関 9–6 |
東 張出大関 9–6 |
西 張出大関 6–3–6[4] |
休場[5] |
| 1984年 (昭和59年) |
西 張出大関 10–5[6] |
東 張出大関 9–6 |
西 張出大関 10–5 |
西 大関 8–7 |
東 張出大関 11–4 |
西 大関 10–5 |
| 1985年 (昭和60年) |
西 大関 9–6 |
東 張出大関 13–2 |
東 大関 11–4 |
東 大関 9–6 |
東 張出大関 9–6 |
東 張出大関 9–6 |
| 1986年 (昭和61年) |
西 張出大関 9–6 |
東 張出大関 10–5 |
西 大関 9–6 |
東 張出大関 9–6 |
東 張出大関 9–6 |
西 大関 8–7 |
| 1987年 (昭和62年) |
西 張出大関 9–6 |
西 張出大関 9–6 |
東 張出大関 8–7 |
東 張出大関 9–6 |
東 張出大関 8–7 |
東 張出大関 8–7 |
| 1988年 (昭和63年) |
西 張出大関 9–6 |
西 張出大関 8–7 |
西 張出大関 1–2–12[4] |
西 張出大関 8–7[6] |
西 張出大関 9–6 |
西 大関 4–11 |
| 1989年 (平成元年) |
西 張出大関 8–7[6] |
東 張出大関 引退 0–5–10 |
x | x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
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[編集] 対横綱北の湖
[編集] 対戦成績
| 場所 | 朝潮 | 決まり手 | 北湖 | 勝敗 | 解説 |
|---|---|---|---|---|---|
| 昭和54年3月 | ● | 寄り切り | ○ | 0–1 | 初対決は先輩の意地を見せた北の湖が先制。北の湖「オレに勝つのはまだ3年早い」。朝汐はこの場所初日から8連敗で初の負け越し。 |
| 昭和55年3月 | ○ | 引き落とし | ● | 1–1 | 立合いから突っ張り合いとなり、朝汐が突進する北の湖の僅かな隙を突いて土俵際で右に回って叩き込む。横綱戦に初勝利した朝汐は初の殊勲賞受賞。 |
| 昭和55年5月 | ○ | 押し出し | ● | 2–1 | 北の湖まさかの連敗で「どうした北の湖」とファンを心配させた一番。同じ相手に対しての連敗癖も露呈。 |
| 昭和55年7月 | ● | 寄り切り | ○ | 2–2 | 北の湖、朝汐に土俵際まで攻め込まれたが、凄まじい形相で反撃し辛勝。この場所の北の湖は全勝優勝を飾る充実振り、朝汐も北の湖には勝てなかったものの他の上位陣に勝ったことから3場所連続殊勲賞を受賞。 |
| 昭和55年9月 | ● | 寄り切り | ○ | 2–3 | 再び圧倒的な強さで北の湖が朝汐に勝ち越す。これを最後に以後北の湖が朝汐に勝ち越すことはなかった。 |
| 昭和56年1月 | ○ | 突き落とし | ● | 3–3 | 朝汐が引き技で北の湖の連勝に待ったを掛ける。この後北の湖は14勝1敗で千代の富士との優勝決定戦に臨み敗れている。 |
| 昭和56年5月 | ○ | 引き落とし | ● | 4–3 | またも朝汐の引きに北の湖が不覚。北の湖は14勝1敗で優勝したものの、この頃から朝汐を苦手とするようになる。朝汐は当時現役力士で唯一北の湖に勝ち越し。 |
| 昭和56年7月 | ○ | 突き倒し | ● | 5–3 | 北の湖が初日から13連勝で14日目に組まれた一番。立合い北の湖は反射的に苦手意識を露呈、突っ張り合いの末に朝汐に突かれ、尻餅をついて土俵下まで転落。 |
| 昭和56年9月 | ○ | 寄り切り | ● | 6–3 | 朝汐はこの場所負け越しながらも、14日目北の湖に勝利。この一番により北の湖と優勝を争っていた琴風が初優勝となったが、翌日千秋楽で朝汐はその琴風にも土をつけている。 |
| 昭和56年11月 | □ | 不戦 | ■ | 7–3 | それまで皆勤だった北の湖が初休場し朝汐が不戦勝。この場所の朝汐は12勝3敗で優勝同点。 |
| 昭和57年1月 | ● | 寄り倒し | ○ | 7–4 | 北の湖が朝汐を堂々と寄り倒し久々に雪辱を果たす。北の湖はそのまま千秋楽まで連勝を重ね、13勝2敗で優勝。 |
| 昭和57年3月 | ○ | 押し出し | ● | 8–4 | また朝汐が先場所以来続いていた北の湖の連勝にストップをかける。 |
| 昭和57年5月 | ○ | 押し出し | ● | 9–4 | 北の湖あっけない負け方、曰く「なぜか知らないけど、あららという間に負けちゃう」。朝汐は13勝2敗で優勝同点と優勝争いでも健闘。 |
| 昭和57年9月 | ● | 寄り切り | ○ | 9–5 | 横綱らしい堂々たる取り口で北の湖が快勝。この頃から両者の対戦は新聞のスポーツ欄のトップを飾るようになる。 |
| 昭和57年11月 | ○ | 押し出し | ● | 10–5 | 北の湖が初日からいきなり敗れる。 |
| 昭和58年1月 | ○ | 掬い投げ | ● | 11–5 | 立合いから北の湖が優勢で思い切って朝潮を追い込んだが、土俵際で逆転され、受けに回ると朝潮に攻め込まれた。 |
| 昭和59年1月 | ○ | 寄り切り | ● | 12–5 | 1年ぶりの対戦だったが朝潮が圧勝。朝潮はこの場所千代の富士と隆の里の二横綱も破って「横綱キラー」の異名をとる。 |
| 昭和59年3月 | ○ | 寄り切り | ● | 13–5 | 北の湖にとっては幕内通算1000回出場という記念すべき日だったが、またも朝潮に敗れて、曰く、「どうしてオレの時だけ強いんだ」。朝潮はこの場所も三横綱を総なめ。 |
| 昭和59年5月 | ● | 寄り切り | ○ | 13–6 | 朝潮が優勢で北の湖を追い込んだが、土俵際で体が入れ替わり、北の湖がそのまま寄り切る。北の湖はこの場所最後の全勝優勝。 |
| 昭和59年7月 | ● | 寄り切り | ○ | 13–7 | 北の湖、万全の相撲で朝潮に連勝。北の湖にとっては15日間出場した場所で最後の白星となった一番。 |
[編集] 対戦分析
現役時には最強の名を欲しいままにした横綱北の湖が何故朝潮を苦手としていたのか? これには様々な説があるが、集約してみると次の通りである。
- 朝潮のゆっくりした仕切りに、北の湖の気持ちが焦らされた(時間的に見ると、普通の力士の倍以上掛かっている)
- 引き技・いなしを得意とした朝潮に思い切って出て行けず、そこを朝潮に攻められた
- 朝潮の引き技に相撲勘が働きにくかった
- 高見山との稽古で身につけた朝潮のぶちかましが、横綱をも後退させるほど強烈だった(実力的な面での見解)
北の湖本人も「何故そうなったのか分らない」と言うほど、朝潮の攻めは計算出来ないものだったらしいが、全体的に見ると、上記の要因がそれぞれ複雑に作用して結果に現れたと推察される。朝潮の取り口の工夫などもあり、「苦手意識」「考えすぎ」といわれるようなマイナスの心的要因が働いて、北の湖が出足を鈍らされたことはほぼ間違いないと言っていいだろう。このような心理が起因して予想外の結果を生むことは、他のスポーツ界でも見られるものである。
[編集] 北の湖が朝潮に連勝を止められたケース
北の湖は6度に渡って朝潮に初日からの連勝を止められ、そのうち3度は朝潮からの黒星のみの14勝1敗、3度は優勝同点または準優勝に終わっており、そのいずれも千秋楽にて千代の富士に敗れ、千代の富士が優勝するという結果になっている。
| 場所 | 対戦日 | 北の湖の成績 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 昭和55年3月 | 11日目 | 13勝2敗 優勝 | |
| 昭和55年5月 | 9日目 | 14勝1敗 優勝 | |
| 昭和56年1月 | 10日目 | 14勝1敗 優勝同点 | 千秋楽本割で全勝の千代の富士を破ったが 優勝決定戦にて敗北 |
| 昭和56年5月 | 8日目 | 14勝1敗 優勝 | 前場所からの連勝が15でストップ |
| 昭和56年7月 | 14日目 | 13勝2敗 準優勝 | 前場所からの連勝が20でストップ 千秋楽相星決戦にて千代の富士に敗北 |
| 昭和57年3月 | 7日目 | 11勝4敗 準優勝 | 前場所からの連勝が16でストップ 千秋楽に2敗の千代の富士に敗北 |
[編集] 改名歴
- 長岡 末弘(ながおか すえひろ)1978年3月場所-1979年1月場所
- 朝汐 太郎(あさしお たろう)1979年3月場所-1982年9月場所
- 朝潮 太郎(あさしお たろう)1982年11月場所-1989年3月場所
[編集] 年寄変遷
- 山響 末弘(やまひびき すえひろ)1989年3月-1990年3月
- 若松 末弘(わかまつ -)1990年3月-2002年2月
- 髙砂 浦五郎(たかさご うらごろう)2002年2月-
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年10月19日 (月) 03:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【朝潮太郎 (4代)】変更履歴

