木下華声

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木下 華声(きのした かせい、1912年7月6日 - 1986年5月25日)は、物真似師、漫談家。本名は長谷川栄太郎。一時は、2代目江戸家猫八を襲名していた。

落語研究家の野村無名庵はおじにあたる。また、久保田万太郎、鴨下晁湖、阿木翁助等に愛された浅草のトンカツ屋、「柳とんかつ」の主人はいとこ。

[編集] 経歴・人物

父は柳派寄席の五厘(事務員)をやっていた2代目春風亭大与枝で、芸人のプロデューサー的な役割を担っていて「頭取」と呼ばれ、落語界に大きな力を持っていた。彼の功績には、3代目柳家小さんを真打にして世に出したこと、当時皇族向けにしか芸を見せず「御止芸」といわれていた「琵琶節」を寄席に出したこと[1]、そして大道で芸をしていた初代江戸家猫八を発掘して寄席に出したこと、などがあるという。また、初代快楽亭ブラック、毒婦・花井お梅、日露戦争の英雄・原田重吉などを寄席に出演させたのも、大与枝だという。

だが、大正6年に大与枝は伊藤痴遊と衝突。「五厘」は不要となり、一家は没落する。

そのため、2代目三遊亭金馬に入門し、金時と名乗った。後に5代目三升家小勝の門で勝頼と名乗る。

大正14、15年頃に、父の縁がある初代江戸家猫八一座で小猫八と名乗る。

1931年に2代目を襲名し上野鈴本演芸場で襲名披露を行なう。だが、1933年、「東宝名人会」に出演するにあたり、「猫八」という名前は「砂の芸(大道芸)の名前だから」と言われて拒否される。そのため、久保田万太郎に相談して徳川夢声の向こうを張った「木下華声」の名をもらって、一時的に名乗る。以降、「物真似」以外の仕事をする際は、この名前を使うこととなった。

この頃、夢声主催の「談譚集団」という漫談研究会に入り、馬楽(のちの林家彦六)らと漫談修行をする。

1935年には、「あきれたぼういず」等のボーイズ物の流行にのり、吉本興業東京吉本)に入社して「ザツオン・ブラザース」を結成。1940年には松竹系の新興演芸にうつり、やはりボーイズの「あひる艦隊」を結成。

また、物真似芸を活かして、PCL・東宝映画で「効果」の仕事を多くし、山本嘉次郎監督の『我輩は猫である』(1936年)では猫の鳴き声を担当した。

1944年に、浅草常盤座で軽演劇の俳優をやり、左卜全と共演。また同年に「教育召集」され、歩兵軽機関銃部隊に配属される。同じ隊に、木谷実、並木一路、今井正がいた。朝鮮に配置されるが、3ヶ月で除隊。

なお、1945年の終戦間際に「8月15日入隊」の召集令状がきたため、親友でNHKの名アナウンサーの和田信賢に別れの挨拶にいったところ、和田は「心配ないよ。戦争はもうすぐ終りだ」と内緒で教えた。8月12日には、NHKラジオで「猫八入隊」の特別番組に出演したが、終戦が近いことを知っているスタッフから「米軍機撃墜や、東條英機の物真似は止めてくれ」といわれたという。

また、戦後は、古川ロッパの劇団で本名の「岡田六郎」名で役者をやっていた、初代猫八の実子を弟子にして芸を伝え、1950年3代目を譲る。

以後は「木下華声」一本で漫談、声帯模写に活躍した。NHKラジオでは、虎造エノケン金馬大河内伝次郎小さんらの声帯模写をしながら、「石川五右衛門」などのストーリーを演じた。

1969年ごろからは「巷談」と称して、市井の出来事や芸人の内幕などを話す芸を行った。

幼少期からの芸人であったこともあり、また、様々な仕事をしたため、芸界に交流が深く、久保田万太郎に可愛がられ、また、高見順安藤鶴夫らとも懇意な仲であった。また、徳川夢声榎本健一山本嘉次郎らからも目をかけられた。

また、和田信賢、5代目一龍斎貞丈とは兄弟分の仲。2代目広沢虎造(まだ売り出す前からの交友)、4代目鈴々舎馬風森川信らが親友で、その他にも多くの芸人と親交があった。

森川信とは、二人で戦争中に、サトウハチローの弟で破滅的な生き方をした佐藤節[2]の世話になったこともあった。

弟子にはタイヘイトリオの洋児がいる。その弟子筋はタイヘイ一門といわれ多くの弟子を育てた。

[編集] 出典

  • 木下華声『芸人紙風船』大陸書房 
  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

[編集] 脚注

  1. ^ 高峰三枝子の父親である高峯筑風が出演した。
  2. ^ この人物については、佐藤愛子による、佐藤家の歴史を描いた小説『血脈』に詳しい。

最終更新 2009年9月19日 (土) 03:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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