木塚敦志

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木塚 敦志
横浜ベイスターズ #20
基本情報
国籍 日本
出身地 日本の旗埼玉県さいたま市南区
生年月日 1977年7月19日(32歳)
身長
体重
182cm
86kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1999年 ドラフト2位
初出場 2000年3月31日
年俸 7,000万円(2009年)
経歴(括弧内は在籍年)

木塚 敦志(きづか あつし、1977年7月19日 - )は、横浜ベイスターズに所属するプロ野球選手投手)。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

1984年、小学2年生のとき野球を始める[1]。1992年、地元の浦和学院高等学校に進学し野球部に入部[1]森士監督の勧めで投球フォームをサイドスローに改造すると頭角を現し、1994年夏の甲子園に出場した[1]。二回戦で新潟県の中越高校と対戦し、相手エース穐谷正人と投手戦を繰り広げたが、9回裏に穐谷にタイムリーを打たれてサヨナラ負けを喫した。

1995年、明治大学に進学し、野球部に入部。上級生であった川上憲伸小笠原孝らの薫陶を受け、エースに成長した[1]。1998年の六大学野球リーグ春季大会ではクローザーとして優勝に貢献。秋期大会では先発に転向し東京大学を相手に明大投手としては星野仙一以来のノーヒットノーランを達成した[1]。明大は全日本大学野球選手権大会にも出場(二回戦敗退)。さらに木塚は日米大学野球日本代表にも選出された。

[編集] プロ入り後

2000年

ドラフト2位で横浜ベイスターズに入団、3月31日の開幕戦(対阪神)で10回から登板すると、いきなり初勝利をあげた。前年に米大リーグシアトル・マリナーズへ移籍した佐々木主浩に代わり、ルーキーながら抑えに抜擢されると、7勝3敗18セーブ、防御率2.89の好成績を残して佐々木の穴を埋めた。

2001年

抑えの座を斎藤隆に譲るも、セットアッパーとして69試合に登板。防御率2.48、9勝3セーブを挙げ、最優秀中継ぎ投手のタイトルを受賞した。

2002年

2年間で115試合に投げた疲労から腰痛に悩まされ、登板数は36とほぼ半減し防御率も悪化、後半戦には二軍降格となった。また、同年より車椅子の寄贈活動を開始。

2003年

28試合登板にとどまり、防御率も4点台と悪化した。

2004年

無理に三振を狙わない投球に切り替えたことが奏功し、2年連続の不振から脱出、52試合に登板し防御率3.46と復活。この年から4年連続50試合以上登板を続ける。

2005年

チームトップの58試合に登板し、6勝5敗、防御率2.44を記録。木塚・川村丈夫加藤武治マーク・クルーンのリリーフ4本柱は、4人合計で215試合登板・防御率2.74の好成績を記録し「クワトロK」と名づけられた[1]

2006年

二段モーション禁止の影響により思うような投球ができず、防御率も前年度より悪化したが、それでも59試合に登板した。

2007年

リーグ2位で球団史上最多の76試合に登板し、防御率3.06、中継ぎの柱としてチームトップの29ホールドを挙げた。大矢明彦監督によって右のワンポイントリリーフでの起用に限定されたため、イニング数は試合数の半分以下だった。7月8日、広島戦で木塚の登板中にチームが勝ち越したが、勝利投手になれなかった[2]。7月20日にはオールスターゲームに初登板。第1戦で4回に4番手として登板し、3者凡退に抑えた。10月3日読売ジャイアンツ戦で年間登板回数の球団記録を更新。10月8日東京ヤクルトスワローズ戦で423試合連続リリーフ登板のセ・リーグ記録に並ぶ。

2008年

前年76試合に登板した勤続疲労により右肩痛を発症、成績も振るわず、5月8日に2003年以来の二軍降格となった。その後はリハビリに終始し、結局一軍に上がること無くシーズンを終えた。登板数は入団以来最少の16試合に終わった。

2009年

開幕は二軍でスタートしたが、5月12日の読売ジャイアンツ戦に8回から登板しアレックス・ラミレスを三振に打ちとって約一年ぶりに一軍登板を果たした。5月27日の北海道日本ハムファイターズ戦では、2008年4月1日の東京ヤクルトスワローズ戦以来の勝ち星を挙げた。

[編集] 人物・プレイスタイル

極端な前傾姿勢から体を左右に揺らしながらノーワインドアップで振りかぶり、サイドスローからキレのある直球スライダーシンカーカーブシュートを投げる。気迫を前面に押し出すタイプで、ピンチの場面で打者を抑えた時は豪快なガッツポーズを見せる。また、登板の際にはルーティンワークとしてジャンプ・股割・マウンドを掘るという動きを見せる。特に土を掘る作業は気合を込めがしがしと掘る。

プロ入り以降すべてリリーフで登板しており、先発経験は一度も無い。セ・リーグ連続救援登板の記録保持者であり、継続中[3]

本名は「木塚 敦士」。明治大学時代に「気持ちを入れたピッチングをしたい」と言う理由で登録名を「敦志」に変更。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
2000 横浜 46 0 0 0 0 7 3 18 -- .700 243 62.1 46 7 13 4 1 73 1 1 20 20 2.89 0.95
2001 69 0 0 0 0 9 5 3 -- .642 344 90.2 58 10 26 7 3 70 1 0 25 25 2.48 0.93
2002 36 0 0 0 0 1 3 2 -- .250 174 41.1 41 5 9 2 2 39 0 0 20 18 3.92 1.21
2003 28 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 108 26.2 21 7 6 0 0 23 0 0 16 12 4.05 1.01
2004 52 0 0 0 0 2 3 0 -- 400 220 52.0 45 3 18 1 6 26 0 0 21 20 3.46 1.21
2005 58 0 0 0 0 6 5 0 26 .545 203 51.2 44 4 11 0 3 35 0 1 14 14 2.44 1.06
2006 59 0 0 0 0 3 1 0 21 .750 267 61.0 63 4 26 2 3 46 0 0 25 24 3.54 1.46
2007 76 0 0 0 0 3 1 0 32 .750 147 35.1 32 1 10 2 5 25 0 0 13 12 3.06 1.19
2008 16 0 0 0 0 1 0 0 6 1.000 27 6.0 7 0 1 0 1 8 0 0 5 5 7.50 1.33
2009 43 0 0 0 0 3 2 1 16 .600 133 31.2 35 5 7 2 3 20 0 0 18 17 4.83 1.33
通算:10年 483 0 0 0 0 35 24 24 101 .593 1866 458.2 392 46 127 20 27 365 2 2 177 167 3.28 1.13
  • 2009年度シーズン終了時

[編集] 背番号

  • 20 (2000年 - )

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

[編集] 高校・大学時代の戦績・記録

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 男の野球道 木塚敦志『週刊ベースボール』2009年7月13日号、ベースボールマガジン社
  2. ^ 投球回数が1回未満で、前任投手の残した走者を含む得点を許したため、木塚ではなく後続のクルーンを勝利投手とした
  3. ^ 前記録保持者は角盈男の423試合。プロ野球記録は藤田宗一の562試合(2008年シーズン終了時点)

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年11月25日 (水) 10:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【木塚敦志】変更履歴

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