木村現
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| 木村 現 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| カタカナ | キムラ アラワ[1] | |
| ラテン文字 | KIMURA Arawa | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1931年7月8日[1] | |
| 出身地 | 広島県広島市 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF[2] | |
| 代表歴 | ||
| 1953-1956 | 6 (1) | |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
木村 現(きむら あらわ、1931年7月8日 - 2007年2月21日)は、広島県広島市出身の日本代表元サッカー選手。名前の読みを「げん」とする資料もある[2]。
目次 |
[編集] 来歴
長沼健は小学校からの幼馴染み、1945年被爆。広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)では、長沼・樽谷明との超強力スリートップの高速右ウイングとして全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の戦後初優勝に貢献。三人のスピードは、当時の中学生レベルでは止められなかったと言われ、4試合で計21得点をたたき出した。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残っている。翌年国体も制覇。
この三人を含む広島高師附属中のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りし、このメンバーと鴇田正憲らOBを加え全関学として1950年、全日本選手権大会(天皇杯の前身)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝、木村は関学卒業後も薮織物などに所属しながら、全関学のメンバーとして1953年、1955年の天皇杯を制覇するなど関学の黄金時代を築いた。さらに東京転勤で1957年には小野卓爾監督下の中大クラブのメンバーに加わり鎌田光夫、千田進(のち日本鋼管監督)らと中大クラブ初優勝に貢献した。この時の決勝の相手は東洋工業で、場所は広島国泰寺高校のグラウンドだった。
代表では1953年全日本に選ばれ翌1954年、日本が初めて参加したワールドカップ予選(第5回W杯スイス大会)の初戦・対 韓国戦にも先発出場。国際Aマッチ出場は4試合だが、国際Cマッチを含めると12試合出場、7ゴールがあり、駿足と強烈なシュートを武器とし「アジアの黒豹」との異名をとった。
1974年茨城国体で、神奈川県リーグ時代の日産自動車を中心に、東邦チタニウムと神戸製鋼の選手で編成した一般の部・神奈川県選抜の監督を務め準優勝。現場の担当は加茂周が行ったという。決勝の相手は古河、三菱、日立の二軍選手で編成した東京都選抜で監督は宮本征勝だった[3]。
「センタリングの神様」と謳われた鴇田を敬愛し、鴇田の2004年の葬儀に「永遠の目標だった鴇田さんの右足の骨をもらって帰りたい」と遺族に申し出た逸話が残っている。
2007年2月21日、神奈川県海老名市内の病院で死去。享年76。
[編集] 所属クラブ
- 関西学院大学
- 薮織物
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 6試合 1得点(1954-1955)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| 1953 | 0 | 0 | 2 | 1 | 2 | 1 |
| 1954 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
| 1955 | 4 | 1 | 3 | 5 | 7 | 6 |
| 1956 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
| 通算 | 6 | 1 | 6 | 6 | 12 | 7 |

