末ら国
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| 本来の表記は「末廬国」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
末廬国(まつらこく)は、『魏志倭人伝』で記述されている国の一つであり、魏の使者が対馬、壱岐を経由して、本土に最初に上陸する倭の地である。松浦(古くは「まつら」)の音写とする説が有力。
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[編集] 概要
末廬国は、佐賀県唐津市を中心とした地域であり、松浦川や半田川、宇木川の流域には、桜馬場や宇木汲田(うきくんでん)などの六つの拠点集落から成っていたと推定されている。 東松浦半島北端にある呼子からは、壱岐まで約28キロ、壱岐と対馬の間は73キロ、対馬と韓国の釜山の間は約93キロある。広さは、律令制の郡または数郡程度であり、一つの政治勢力が形成されていたことが分かる。
[編集] 魏志倭人伝の末廬国に関する記述
『魏志』倭人伝には、次のように書かれている。 「四千余戸あり、山海に浜(そ)いて居り、草木茂盛して行くに前人を見ず、好んで漁鰒(ぎょふく)を捕らえるに、水深浅となく、皆沈没して之を取る。(訓み下し文)
先に行く人が見えないほどに生い茂った葦原を掻き分けて進んだ。そして住民はアマとして魚や鰒(あわび)を捕っていた。
[編集] 宇木汲田遺跡
縄文晩期、弥生時代前期より中期にかけての集落で、貝塚が存在し、縄文晩期より弥生前期(板付Ⅰ式土器)には後背の山上に支石墓を営み、弥生前期(板付Ⅱ式土器)から中期にかけて平坦部に甕棺墓を作っている。129個が調査され、これまで150個が出土している。この中に小児甕棺を少なからず含む。この甕棺墓から、多鈕細文鏡1、細形銅剣9、細形銅矛5、細形銅戈2、銅釧・勾・ガラス管玉・ガラス小玉などが検出された。現在、鏡地区は大陸舶載の青銅器が日本で最も多量に発見されている[脚注 1]。
[編集] 桜馬場遺跡
この遺跡は、唐津市の平野町と山下町の中間にあって、唐津市街地の北の砂丘地帯の西南に所在する。 この遺跡の甕棺は弥生時代後期のものである。1945・1946年に岡崎敬が、1955年に杉原荘介がこの遺跡の調査や発掘を実施している。 1944年(昭和19年)防空壕の工事中に合口の甕棺が掘り出された。その中から、方格規矩四神鏡2面、有鉤銅釧・鉄刀・ガラス小玉、銅矛などが発見されている。人骨も出土したようであるが、埋め戻されている。これらに遺物は、現在は、佐賀県立博物館に所蔵されている。 1955年には石蓋の甕棺、三種の土器が発掘されている[脚注 2]。 [1]
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- ^ 岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州篇』第一書房 2003年 ISBN 4-8042-0751-1

