本多庸一

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本多 庸一(ほんだ よういつ[1]1848年嘉永1年) - 1912年明治45年))は、日本のキリスト教伝道者・牧師教育家政治家青森県弘前市生まれ。新島襄内村鑑三新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。

[編集] 来歴・人物

本多久元の長男として1848年に弘前に生まれる。津軽藩士として幼少より儒学を学び、兵法・剣術の達人として幕末の困難な政局の中でさまざまな活動を行った。維新後は津軽藩の命令で、英語を学ぶために横浜に留学した。1872年5月、オランダ改革派アメリカ人宣教師S.R.ブラウン、J.H.バラから受洗し、キリスト者となる。 故郷である東北地方の伝道を志して、廃藩置県の影響で廃校となっていた東奥義塾を再興し、塾長を勤める。その傍らで1876年、東北最古のプロテスタント教会である弘前教会を開き、牧師を兼務する。その後は青森県会(県議会)議員、議長に選出されてもいる。 1886年には仙台美以(美以はメソジスト監督の意)教会の牧師になっているため、このときまでに教派を転じたものと思われる。 1888年9月より米国に洋行。ここでキリスト教の伝道に生涯をささげる決心をし、ドルー神学校で本格的に神学を学ぶ。

1890年に帰国後、東京英和学校の校主(校長)に就任し、1894年青山学院と改称し第2代院長となり、17年間院長職に就く。 また、日本では統一的な組織でキリスト教宣教にあたったほうが合理的と考えるようになり、1907年、日本メソヂスト教会を設立。初代監督となり、日本独自の宣教組織を確立した。

[編集] 脚注

  1. ^ 本多の妻の姉の孫に当たる作曲家柴田南雄は、「本多庸一の読みは、ほとんどの人名辞典や伝記で『よういつ』となっているが、わたくしも従兄弟たちも『よういち』以外の呼び方を聞いた記憶はない。本人の孫に当たる人が、親族の一人である外国人のためにローマ字で作製した一家の系統樹でも、その名はYoichiとなっている。本人のローマ字署名で確認する必要があるが、未見である」と述べている(柴田南雄『わが音楽 わが人生』pp.366-367、岩波書店1995年)。

最終更新 2009年4月21日 (火) 13:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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