本田宗一郎

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本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は、日本実業家技術者本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。ソニー井深大などと並んで、戦後日本を代表する技術者・起業家として世界的に知られている。

目次

[編集] 叙勲等

[編集] 略歴

[編集] エピソード

  • 宗一郎が11歳の時、浜松で飛行機の曲芸飛行が行われると知り、親の財布からお金を盗みこっそり夜中に家を出て父親の自転車を不自然な格好でペダルを漕ぎ(いわゆる三角乗り)し、一晩かけて浜松の飛行場を目指した。
  • 小学生の頃、通信簿を親に見せ判子をもらう必要があった。当然、見せられる成績ではないので、自作した偽造判子で乗り切ることにした。それはよい手だと、次の学期には級友達にも求められ作ったが簡単に発覚した。判子自体の出来は見事なものだったが、全て鏡文字となっていたため一目見れば気付く代物となっていたのである。教師から「お前、他人のばかり作ってどうして自分のは作らなかったのだ?」と不思議がられたが、実際は『本田』だけは、左右対称のため教師も見抜けなかっただけのことである。
  • 第1回全国自動車競走大会で飛行機エンジンを改良し弟と二人で参加した。その時記録した最高時速120kmは当時驚異的なスピードでその後約20年間その記録は破られることはなかった。当時の自動車には安全ベルトがなく大会での事故で弟と共に投げ飛ばされ運良く一命を取りとめた。目覚めたときに当時の看護師が「よく目が覚めたわね」と宗一郎に言った。この事故以降、宗一郎は自分で操縦してレースに参加することはなくなった。
  • 20歳当時、人と同じことをするのが嫌いだった宗一郎は、まだ珍しかった洋服を好んで着ていた。
  • 浜松でアート商会創業当時より、宗一郎は派手なシャツネクタイを締め、朝から晩まで試作車のバイクを乗り回した。田舎では、そんな姿が揶揄されたり、資金繰りが面倒(地方の金融業者は、貸した金をすぐに回収にかかっていた)だったりで、都会でのびのびと仕事をしたいと考えていた。
  • 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水からを作ってと交換したり「遊んで」いたという。しかしこの遊びの中から自転車にエンジンをつけることを思いつき、後のオートバイ研究が始まるのであった。
  • 宗一郎は会社の判子を藤沢に預け、会社の経営は全て藤沢に任せていた。宗一郎自身は技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述べている。互いに「落合」(宗一郎の自宅のある所)・「六本木」(藤沢の自宅のある所)とざっくばらんに呼び合っていた。この言葉の裏には「お互い全力で切磋琢磨することで現在のホンダが築きあげられた」という意味が込められている。また両者は、「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、宗一郎と藤沢は身内を入社させなかった。盟友の井深大が、自らの会社名を「ソニー」と名付けたことに対し、後年宗一郎は自らの名を社名に冠したことを非常に後悔したという。
  • 宗一郎は経営難に陥ったとき藤沢武夫の助言でマン島TTレース(二輪)やフォーミュラ1(四輪)などの世界のビッグ・レースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた。宗一郎によるそれらの大英断は「苦しいときの神頼み」ならぬ「苦しいときのレース頼み」と呼ばれている。
  • 鈴鹿製作所の完成前に、三重県鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話である。また、とても便利とはいえない鈴鹿市に工場を置いたのは、担当の役人の、接待や金銭など一切関係なく、「渋茶一杯」で誠実に説明してくる熱意に惹かれたからだ、という。ちなみに、その時宗一郎は岐阜県大垣市とどちらかに工場を建設する予定だったが、宗一郎が大垣市を訪れたとき、クーラーの効いた部屋でオレンジジュースを出されたという。
  • CVCCエンジンの開発に成功した時に「車が売れる」と宗一郎は喜んだが、CVCCの開発に携わった者達から「排ガスによる公害を減らすためにCVCCを開発したのであり、売上げのために作ったのではない」と叩かれさめざめ反省。
  • バイク三ない運動全盛期の頃、全国のPTA団体によってバイクメーカーに対する徹底的なバッシングが行われ、特に世界的なバイクメーカーであるという理由で、本田技研工業及び創業者である宗一郎に対するバッシングは「暴走族の親玉」と言われるほど壮絶なものであった。しかし宗一郎はこのバッシングに屈することなく「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と訴え続けた。彼のこの訴えが後のホンダと徳島県の私立高校が連携して行っている安全運転講習や、神奈川県の「かながわ新運動」を始めとする高等学校への運転者教育導入につながっていくこととなる。
  • 記者から「本田さんは工学博士は無理でも、ロの付いたエロ博士はすぐ取れる」と言われた事に、「これからの未来は、女性が車を乗る時代が来るだろうし、女性にアピールする車を作らないといけない。世の中に女性がいなかったら、俺は毛生え薬を試す事はないだろうし、服はドンゴロス(麻袋)に穴を開けたもので十分だが、女性がいるからこそ、クルマも女性に注目されないといけない」と言った。
  • 1986年、F1でのホンダターボエンジンの圧勝を面白く思わないFISA(現FIA)はターボエンジンの段階的禁止、及び1989年から自然吸気エンジンのみへ移行する決定を下した。これに憤慨したチーム監督の桜井淑敏らは宗一郎に直訴しようとしたが、宗一郎は桜井に会うなり「ホンダだけがターボ禁止なのか? 違うのか、馬鹿な奴等だ。ホンダだけに規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ話ってのは?」と言い、桜井等は「いいんです、何でもありません」と嬉しくなってしまった。ホンダは1987年に16戦11勝、1988年には16戦15勝の圧勝、自然吸気に移行した1989年にも16戦10勝、その後も、1991年に宗一郎が亡くなる年までタイトルを獲得し続けた。
  • 南青山の本社ビルを新築する際、宗一郎は「万が一地震が起こったときに、割れたガラス歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し、このビルには全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。
  • 勲一等瑞宝章授章式の際に、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言い、その服装で出席しようとした(もっとも、さすがに周囲に止められ、最終的には礼服で出席)。
  • 米国に初めて工場を建設した際、「正装」のツナギ姿で現れ、現地工員ひとりひとりと握手して激励した。工員たちは、伝説的存在であるミスター・ホンダが自分たちと同じ格好で親しく接してくれたことに感動し、米国に進出した日本企業を必ずと言ってよいほど悩ませていた労働争議が、ホンダに限っては一度も起きなかったという。
  • 二代目社長の河島喜好は、大学卒業後に就職先に困っていたところ、偶然に父が宗一郎と顔見知りで、たまたま自宅からも近かったので父と一緒に宗一郎を訪問したら、「じゃあ、明日からウチに来るか」と誘われてホンダに就職したというエピソードがある(当時のホンダは、個人事業の延長で大らかな時代だった)[4]
  • 宗一郎の膝下で働いていた社員達は、宗一郎を「オヤジ」と呼んで慕っていた。
  • 宗一郎と共に仕事をした者達は、本事を共通して「オヤジさんは怖かった」と述べており、作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴っていた。また実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やした宗一郎は「実際に走行させたデータを持って来い」と激怒して灰皿で殴る。
  • 「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」
  • 「チャレンジしての失敗を恐れるな。何もしないことを恐れろ。」
  • 「私が手がけた事業のうち99%は失敗だった。1%の成功のおかげで今の私がある。」
  • 「人には失敗する権利がある。だがしかし、それには反省と言う義務が付く。」
  • 「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」(1988年、初めてF1ワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナの記念パーティの席でセナに対し)などがある。
  • 生前から自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけないと公言。実際、遺族はこの遺志に従い通夜・社葬を行わなかった。その代わりに、控えめな社葬と言える「お礼の会」が東京都港区青山のホンダ本社・和光・鈴鹿・熊本の各製作所で執り行われた。
  • ある日、宗一郎が工場を巡回していると、若い工員から「おいっおっさん!なにズボンのポケットに手突っ込んで歩いてんだ!転んだらどーすんだ!」と注意された。その後「正装のズボン」からポケットが全て取り外された。現在もズボンのポケットは無い。この時注意した工員を班長は叱ったが、本田は「こんな仕事熱心なやつを叱るほうがバカだ!」と怒った。
  • テレビのインタビューを受けた際「私は年寄りだからもう新しい開発からは手を引いているが、一応今の若い(開発者)連中が何をやっているか見せて貰っている。でも(何をやっているのか)わからないんだな。だからこそ嬉しいんだ。この年寄りに分るような事をやっているのならうちの若い連中はボンクラですよ。僕に分らない事をやってくれていることが僕は一番嬉しいんだ」と語った。
  • 無類のの友釣り好きで、健在の時には年に一度、招待客を多数自宅に招き、鮎を放った池で「鮎釣りパーティー」を行っていた。
  • 四輪に乗り出した時、当初の四輪車の生産スタイルは、電力量の抑制等の理由から昼夜2交代制が主流だったが、宗一郎は「昼間やって、翌週に真夜中に仕事して、身体壊したらどうするんだ!」と言い、連続2交代制(午前6時30分〜午後3時10分・午後3時20分〜午後11時30分)を初めて導入した。
  • 狭山製作所[5]にお忍びで訪問した際、社員食堂で冷めた食事を出され「こんなメシを従業員に喰わせて、いい仕事ができると思っているのか!」と料理長にカミナリを落とした。
  • ゴルフは特に上手いという訳ではなかったが、1978年に訪問先のスウェーデンで駐スウェーデン大使の瀧川正久とゴルフをした際、PAR5の第2打を林の中に打ち込む。当然、大トラブルだが、林の中から本田が打ったショットはグリーンに乗り、なんとチップインしてしまった。これを知った本田は子供のようにクラブを両手で持ち上げ、「わーい!」とばかりにイーグルを喜び、「子供のような偉大な経営者」を強く印象づけた。

[編集] 技術者として

中村良夫は「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と評した。本田の理工学的な無理解から衝突する技術者は多く、中村良夫の上司であった工藤義人らの中島飛行機出身の技術者で本田に反発し会社を辞めるものも多かった。空冷エンジンに固執する本田に対して藤沢武夫は「あなたは社長なのか、それとも一技術者なのか」と迫り、技術者としての本田に引導を渡した。

[編集] 盟友 藤沢武夫

ホンダ=本田宗一郎と見る向きもあるが、副社長だった藤沢武夫の存在を語らずにホンダを語ることはできない。本田宗一郎なしに藤沢武夫の功績はなかったかも知れないが、藤沢の存在なしに現在のホンダは到底ありえなかったと見る者が多い。

派閥解消と企業の活性化の為に役員大部屋制度を作ったり、役員の子弟は入社させないといった規則を作り、本田カラーの基盤を確立した。また、本田宗一郎に自転車につけるエンジンを開発させた上で、全国の自転車屋に手紙を送り、自転車屋を二輪販売代理店にしてしまうといった魔術的な戦略を得意とした。さらに鈴鹿サーキットは当初、藤沢個人の邸宅を抵当に入れて作られた。一般道でスピードを出して死んでいく若者達に心を痛め、またより良い製品を作り出す実験場として作られたという。「マン島レース出場宣言」や「資本金を大幅に上回る価格で外国製工作機械を購入」といった「本田宗一郎伝説」の逸話は、あたかも宗一郎が独断で行ったかのようなイメージで語られる場合が多い。しかし、宗一郎は常に藤沢に意見やアイディアを求めており、藤沢の後押しがあるからこそ大胆な計画を発表できたのだと言われる。宗一郎は藤沢の手のひらの上で踊らせてもらっていた、と評する者もいる。宗一郎の数々の逸話は、藤沢が創作・脚色したものも多いという。(社長引退のエピソードなど)

[編集] 考察

宗一郎と藤沢については、例えばソニー盛田昭夫井深大や松下電器産業(現・パナソニック)の松下幸之助など、日本における理想的な経営像として語り継がれると思われるが、宗一郎と藤沢の場合には、強い経営者(実質的には藤沢)と強い理念・ビジョンの構築者(宗一郎)が同時に両立できていたという点で、日本社会では非常に特色があるといえるだろう。特に米国など、企業経営が進化する現代に求められている経営スタイルの一つがこのようなものであり、例えばGoogleYahoo!など新興大企業も似たスタイルを取っている。

日本においてはカリスマ経営者がいたからといって、その企業が必ずしもビジョナリーカンパニーになるわけではなく、その経営者は“個性あるオーナー”や“中興の祖”として終わり、ビジョンが引き継がれ、そのビジョンが更に会社の発展に寄与することは少ない。ホンダの場合には米国MBA教科書にも載るほどのグローバルに認められたビジョナリーカンパニーとなったのは、宗一郎の個性よりも藤沢の姿勢に負うところのほうが大きいとも言えるだろう。

藤沢の死後、宗一郎は日本人として初めてアメリカで自動車殿堂入りを果たした。 授賞式を終え、帰国後、宗一郎は成田から直接藤沢邸に向かい、藤沢武夫の位牌に受賞したメダルを見せながら、次のように語りかけた。「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ…」と。

[編集] 参考文献

  • 八重洲出版 『HONDA 50years ホンダ50年史』1998年
  • ワック 井出耕也/著『ホンダ伝』2002年
  • 三樹書房 中部博/著『定本 ホンダ宗一郎伝 飽くなき挑戦 大いなる勇気』2001年
  • 文芸春秋 藤沢武夫/著『経営に終わりはない』1998年
  • 文芸春秋 佐藤正明/著『ホンダ神話 教祖なき後で』1995年
  • 講談社 城山三郎/著『本田宗一郎との100時間 人間紀行』1984年
  • 朝日新聞社 海老沢泰久/著『F1地上の夢』1987年
  • 徳間書店 富樫ヨーコ/著『いつか勝てる ホンダが二輪の世界チャンピオンに復帰した日』1988年
  • 講談社 梶原一明/著『本田宗一郎 思うままに生きろ』1992年

[編集] 主な著作書籍

  • 私の手が語る
  • やりたいことをやれ
  • 俺の考え
  • 得手に帆あげて
  • スピードに生きる

[編集] 脚注

  1. ^ 宗一郎ただ一人だけが社長の榊原郁三からのれんわけを許される。
  2. ^ アート商会は現在でも自動車修理工場として存続している。
  3. ^ 東海精機重工業は東海精機株式会社に社名変更し、現在に至る。
  4. ^ ただし、本田宗一郎に関する著書を多数手がける経済評論家の梶原一明は、自著中で「このエピソードはマスコミへのリップサービスで、真相はしかるべき紹介者によって入社が決まった」と述べている。
  5. ^ 現在の埼玉製作所(狭山工場)。1973年に統合された [1]

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
創業者
本田技研工業社長
初代 : 1948年 - 1973年10月
次代:
河島喜好

最終更新 2009年10月22日 (木) 06:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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