朱鎔基
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| 生年月日 | 1928年10月1日 |
| 出生地 | |
| 所属政党 | |
| 配偶者 | 労安 |
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| 内閣 | 朱鎔基内閣 |
| 任期 | 1998年3月17日 - 2003年3月16日 |
| 国家主席 | 江沢民 |
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| 内閣 | 李鵬内閣 |
| 任期 | 1993年3月29日 - 1998年3月17日 |
| 国家主席 | 江沢民 |
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| 内閣 | 李鵬内閣 |
| 任期 | 1991年4月8日 - 1993年3月29日 |
| 国家主席 | 楊尚昆 |
| 朱鎔基 | |
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| 各種表記 | |
| 繁体字: | 朱鎔基 |
| 簡体字: | 朱镕基 |
| 拼音: | Zhū Róngjī |
| 和名表記: | しゅ ようき |
| 発音転記: | ヂュー・ロンジー |
| 中華人民共和国 |
| 中華人民共和国の歴史 |
| 組織集団 |
| 中国共産党 · 中国人民解放軍 |
| 主な出来事 |
| 抗日戦争 · 国共内戦 · 中ソ対立 大躍進政策 文化大革命 · 林彪事件 四五天安門事件 改革開放 六四天安門事件 |
| 人物 |
| 毛沢東 · 周恩来 · 朱徳 劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平 林彪· 江青· 胡耀邦 趙紫陽 · 江沢民 · 李鵬 朱鎔基 · 胡錦濤 · 温家宝 |
| 理念 |
| マルクス・レーニン主義 毛沢東思想 · 鄧小平理論 4つの基本原則 · 3つの代表 |
| 統治機構 |
| 全国人民代表大会 中華人民共和国国務院 中央軍事委員会 |
| 地域 |
| 中国 · 華北 · 東北 華東 · 華中 · 華南 西南 · 西北 中華人民共和国の行政区分 |
朱 鎔基(しゅ ようき、ヂュー・ロンジー、1928年10月1日 - )は中華人民共和国第5代国務院総理(首相)などを務めた政治家。
目次 |
[編集] 略伝
湖南省長沙市に生まれる。先祖は明王朝の開祖朱元璋だと伝えられているが、真相は不明。5歳のとき両親を失い、奨学金を得て苦学した。1947年清華大学電気系電気製造課程に入学、国共内戦終結後の1949年10月に中国共産党に入党している。
1951年、大学を卒業して東北人民政府工業部に入り、1952年には中央に抜擢されて、強力な権限をもつ国家計画委員会に所属した。しかし1958年には国家計画委員会の官僚主義を批判したことで、反右派闘争において右派の烙印を押されて党から除名され、国家計画委員会付属の教員となった。1962年に「赦免」されたが右派のままで、文化大革命で再び批判されると五七幹部学校で労働改造を受ける。
1975年に石油化学工業部に配属される。1978年にようやく名誉回復され党籍を回復し、中国社会科学院入りした。1979年、国家経済委員会副主任に就任、清華大学経営管理学院院長など。1984年、国家経済委員会党組副書記となるが、1988年の行政改革で国家経済委員会は国家計画委員会に吸収されたため、4月29日に上海市党委副書記(中央候補委員)、上海市長に転出。趙紫陽の後押しがあったと趙本人の口述があり、原因は不明だが江沢民は当初渋ったとされる。
1989年6月4日、総書記候補として北京にいた江沢民に代わって上海市を仕切り、「中共上海市委員会、上海市人民政府の全市共産党員、市民に告げる書」から反革命動乱という表現を削除させ、市民の正常な生活と労働の権利を守るとした。8日、テレビ演説で「歴史的事実は誰も隠せない。事実の真相はやがて明らかになるだろう」と宣言、上海市を流血事件から回避させた。8月、江沢民の後任の上海市委員会書記を兼任し、浦東新区の発展や外資導入と汚職の取り締まりに辣腕を振るう。
江沢民から中央入りを請われ「上海でやり残したことがある」と一度は拒否したものの、「経済が分かっている」と評価する鄧小平によって、1991年4月8日の第7期全国人民代表大会第4回会議で国務院副総理に、1992年の第14回党大会で中央委員から三段跳びで政治局常務委員に抜擢される[1]。
1993年、李鵬に代わって総理就任が予想される中、経済担当の常務副総理(第一副首相)に就任。7月2日、李貴鮮中国人民銀行総裁を解任して自ら兼務し、違法な貸出を停止、回収させ、銀行自身が作った子会社への資金貸出を禁止させた。人民銀行は預金及び貸出金利を引き上げた結果、人民元は下げ止まった。また地方政府や国有企業に対して設備投資を控えるよう通達し、国有商業銀行融市場をソフトランディングさせた。
1997年9月第15回党大会で政治局常務委員に再任、1998年3月から国務院総理に就任する。経済体制と国務院改革に乗り出し、また汚職に対して厳しく臨んだ。遠華密輸事件はその内の1つである。ただ、国営企業改革で多くの失業者を出したり、中国を世界の工場にしたことなどについては批判も多かった。
2002年11月に中央委員から退き、翌年3月には国務院総理を退任して政界から引退。引退後は趣味の二胡を楽しんでいると伝えられている。
第13期中央候補委員、第14期、第15期政治局常務委員。
[編集] 評価
朱鎔基は清廉で決断力と指導力に富む政治家であり、その大胆な経済改革は国内外から高く評価されている。その豪腕ぶりから、海外のメディアからは「経済ツァーリ」「中国のゴルバチョフ」と呼ばれた。直截的な発言家で、形式主義を嫌い、政敵を作ってでも必要な経済改革を推進するという強い意志の持ち主であり、中国国内では畏敬の念を持たれ「朱鎔基が怖れるのは妻の労安さんだけ」といわれた。その一方、政治面では高度経済成長を通じて共産党の独裁を維持することを積極的に唱えるなど保守派としての顔も世界に見せ、民主活動家から批判を受けた。
[編集] エピソード
- 1995年に陳希同が汚職容疑で北京市党委書記を解任されると、「腐敗退治はまずトラを退治して。次に狼を退治する。虎に対しては絶対に姑息な手段を使ってはいけない。棺おけを100個準備する。私にも1つだ。私は彼らを道連れに国家に長期的な安定発展と、庶民のわれわれの事業に対する信頼を獲得するのだ」と発言、党員の汚職に対する厳しい姿勢を強調した。
- 2000年の10月15日のTBSの『筑紫哲也 NEWS23の特別版』(司会は筑紫哲也、録画である)にてタウンミーティングに参加、出演したことがある。このとき「私の対日政策が弱腰だと、国務院に批判のメールが殺到して、夜も眠れないことがある」と発言した(この部分は放送はされなかった。「中国はなぜ「反日」になったか」清水美和(よしかず)、文春新書)。
[編集] 脚注
- ^ 朱鎔基は1987年10月の第13回党大会で中央候補委員に選ばれた。当時の中央委員は175人、中央候補委員は110人で、序列91位の候補委員(得票順)である朱鎔基は中央委員全体の序列では266位。1991年に副総理に、1992年に政治局常務委員に就任して三階級特進を果たした。曽慶紅が政治局候補委員(第15期)から政治局常務委員(第16期)に二段跳びしたことはあるが、三段跳びは珍しい。
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