李完用

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李完用
各種表記
ハングル 이완용
漢字 李完用
平仮名
(日本語読み仮名)
りかんよう
片仮名
(現地語読み仮名)
イワニョン
ラテン文字転写 Lee, Wan-yong
  

李完用(イ・ワニョン、り・かんよう、1856年 - 1926年2月12日)は、李氏朝鮮王朝末期の政治家で、日本による韓国併合に大きな働きをした人物。は敬徳(キョンドク、경덕)、は一堂(イルダン、일당)、本貫は牛峰李氏。

目次

[編集] 略歴

京畿道広州に生まれる。1883年科挙に合格し、1887年からアメリカで3年間の海外勤務を経験した後、国際派の政治家として頭角を現す。

1895年の閔妃暗殺事件(乙未事変)の後、同年11月28日に、大院君派の政権打倒の為のクーデターを親露派、親米派勢力の李範晋、李学均、李允用などと画策するが失敗に終わり、在米公館に逃げ込む。1896年高宗ロシア公館に逃げ込む露館播遷を成功させ、金弘集政権を瓦解させたあと外部大臣(外務大臣)に就任する。翌年、学部大臣(文部大臣)になるが、ロシア公使ウェーベルと対立し、地方に転出される。1901年中央に戻り、親米派の立場をとり親日勢力を圧迫するが、1904年日露戦争を境に日本寄りの態度を取るようになる。

1905年、学部大臣だった李完用は第二次日韓協約の調印に賛成し、これを推進した。これに賛同した5大臣は韓国で「乙巳五賊」に数えられている。このころから大衆の非難の的にもなった。

1907年韓国統監伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任。同年6月の高宗が起こしたハーグ密使事件に際しては日本側に立って、伊藤博文統監と共に日本に対し反抗的な高宗皇帝に強い態度で退位を迫り、ついに廃位に追いやるなどして第三次日韓協約の成立にも重要な役割を担った。

1909年、12月22日に明洞聖堂前で、反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われる。全身をメッタ刺しにされ重傷を負ったが、一命をとりとめる。

1910年、8月13日に韓国統監寺内正毅から韓国併合決定を伝えられた場で、韓国の名称を残すように要望するが拒否される。

大韓帝国皇帝純宗による全権委任状。1910年8月22日。

8月21日に韓国統監府承認のもと、韓国皇帝から全権委員に任命され、22日に韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)を調印し、この事から後に「庚戌国賊」に数えられるようになる。その後、大日本帝国の下で伯爵爵位を与えられ、1920年には陞爵して侯爵となった(朝鮮貴族)。1926年には大勲位菊花大綬章を授与されている(李王家以外の朝鮮人では戦前唯一の授与)。

1926年肺炎により死去(李在明に襲撃された際に片方の肺の機能を失っており、この事が原因とされている)。

[編集] 評価

併合直後こそ併合の元凶と大衆より看做され非難されたが、日本統治が進んだ後においては高い評価を受けた。それを表すエピソードとして、その葬儀は国葬でも無いにも関わらず、葬列が数キロに達したという。

しかし、解放後は再び韓国植民地化の元凶の一人と見做され、憎悪を一身に受けた。そのため現在でも韓国北朝鮮において李完用の名は親日派(チンイルパ)、売国奴の代名詞とさえなっている。韓国政府によって公式にも親日反民族行為者に認定されている。

2005年に韓国において親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法が公布された際にも、親日反民族行為者財産調査委員会は、李完用を含む親日派9人の子孫から土地を没収し、韓国政府に帰属させる旨の決定を下された。[1]

しかし李は韓国の将来を考え、自主独立への道を模索していたといわれる。彼は独立協会の創設者の一人となっているが、日本に近づくも日本語を決して学び、話すことはなかった[2]。 独立新聞の記事にも、李完用を批判する記事は一つも載っていない。[2]

また、当時から書道家としても評価が高かった。

著書に『一堂紀事(一堂紀事出版所、1927年)』がある

[編集] 脚注

  1. ^ 李完用ら親日派9人の財産、国への帰属を決定 聯合ニュース、2007年5月2日
  2. ^ 【噴水台】韓日合邦の魚中央日報、2001年8月27日、 Watch How You Use 'Traitor 中央日報、2001年8月30日(英語/ハングル)

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月4日 (水) 02:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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