李従珂
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| 末帝 李従河 | ||
|---|---|---|
| 後唐 | ||
| 3代皇帝 | ||
| 王朝 | 後唐 | |
| 在位期間 | 933年 - 934年 | |
| 姓・諱 | 李従河 | |
| 生年 | 885年 | |
| 没年 | 936年 | |
| 年号 | 清泰 : 934年 - 936年 | |
李従珂(り じゅうか)は五代の後唐の末代皇帝。一般に末帝或いは廃帝と呼ばれている。
目次 |
[編集] 出生
鎮州(現在の河北省正定県)に生まれる。10歳の時、母の魏氏と共に、後に後唐明宗となる李嗣源に捕まり、程なくして李嗣源の養子として李従珂と改名した。成長するとその姿は勇壮であり、戦いに対して勇猛なことより義父の李嗣源の寵愛を受ける。
李嗣源が即位すると、李従珂は河中節度使に任命されるが、枢密使である安思誨との権力抗争に敗れ、930年(長興元年)に軍務を解かれて、都である洛陽に居住するようになる。しかし931年に安思誨は失脚、李従珂は左衛大将軍として重用され、932年には鳳翔節度使に任命され、さらに933年には潞王に封じられる。
李嗣源が933年に死去し、その子李従厚が即位すると状況が一変する。934年(応順元年)李従厚は大臣の提案を受け入れ、重要な節度使の権力を抑制し藩鎮の弱体化を計画した。李従珂はこの政策に対し反対を表明し、遂には兵を起こすに至る。この内乱に敗北した李従厚は洛陽を追われるが、結局李従珂によって殺害される。
[編集] 即位
李従厚を殺害した李従珂であるが、洛陽入城後に後唐の皇帝として即位し、元号も清泰と改める。当初は河東節度使で李嗣源の婿養子である石敬瑭と協力関係にあったが、李従珂が即位したことで石敬瑭に猜疑心が生じるようになる。936年に石敬瑭を天平節度使に左遷したことでこの反目は決定的になり、石敬瑭は遂に兵を挙げる。
石敬瑭が契丹の兵を用い、洛陽が包囲されると、進退窮まった李従珂は937年に自ら命を絶つ。死後に諡号及び廟号は贈られていないが、後世の史家は末帝または廃帝と称している。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 皇后劉氏
[編集] 子
- 李重吉
- 雍王李重美
[編集] 年号
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