李成桂
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| 姓名 | 李旦(初名:成桂) |
| 字 | 君晋(クンジン、군진) |
| 号 | 松軒(ソンホン、송헌) |
| 年号 | - |
| 廟号 | 太祖 |
| 諡号 | 康献至仁啓運応天肇統広勲永命聖文神武正義光徳大王 |
| 在位年 | 1393年-1398年 |
| 生没年 | 1335年-1408年 |
| 父 | 李子春(嫡長男) |
| ラテン文字表記 | Yi Dan(Yi Seong-gye)(Taejo) |
| ハングル | 이단(이성계)(태조) |
| ひらがな転写 | り・せいけい(たいそ) |
| カタカナ転写 | イ・ソンゲ(テジョ) |
李成桂(イ・ソンゲ、り・せいけい、太祖<テジョ、たいそ> 康献王 忠粛王4年10月11日(1335年10月28日) - 太宗8年5月24日(1408年6月18日) 在位1393年 - 1398年)は、高麗末の武官で、李氏朝鮮の創始者である。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身[1]。本貫は全州李氏[2]。諡号は康献至仁啓運応天肇統広勲永命聖文神武正義光徳大王。大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られた。
目次 |
[編集] 略伝
[編集] 家系
朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は新羅で「司空」という役職に就いていた李翰だと「太宗実録」など朝鮮王朝時代の歴史書には記録されている[3]が、現実の李翰は統一新羅時代から高麗時代にかけて全州地方に勢力をもっていた有力地方豪族だと考えられている[3]。李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年の武臣の反乱を契機に中央政界に進出した[3]。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる[3]。李成桂の六代前の李璘は兄の李義方と共に武臣の乱鎮圧の勢いに乗じて中央に進出したが[3]、兄が出世競争に敗れると李璘も都から追放され[3]、夫人も流離いの身となった[1]。李璘の子で、李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、故郷の全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる[3]。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180名に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。最初彼らは江原道に定住したが、中央からの追手に見つかったため、当時元が支配していた咸鏡北道に亡命した[3]。朝鮮王室の記録[3]では「李安社が地方の役人と女を巡って激しく対立し、その役人が何かにつけて揚げ足をとり李安社を排除しようとした。それに堪えられなかった李安社は一族郎党を率いて江原道に避難したが、その役人が人事異動で江原道の責任者として来ることになったので、再び一族郎党を率いて咸鏡北道に移住した。そこは元の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」[4]と記している。しかし現在では[3]研究が進んだ結果[3]、これが事実ではないことが明らかとなった[3]。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている[3]。咸鏡道北部に亡命した李安社は元からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された[5]。しかし女真族との間に徐徐に対立が生じると[5]、李成桂の曽祖父李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の江原道安辺郡に移住した[5]。全州李氏一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり[5]一種の独立政権を築いた[5]。そして1335年、李成桂が双城総管府[6]の和州(咸鏡南道の永興、現在の金野郡)で李子春と永興崔氏の子として生まれた[1]。
東洋史学者尹銀淑(ユン・ウンスク)博士とモンゴル系中国人学者・エルデニ・バタル博士(内モンゴル大専任講師)は博士の学位論文を通じて、李成桂は高麗系モンゴル軍閥だったという新しい学説を主張している[7]彼らは13~14世紀に東北、満洲地域を元のオッチギン家が支配したという事実に注目したと述べている[7]。 チンギス・ハンが1211年に征服した土地を近親者に分け与え、オッチギンには東北、満州地域を統治させた[7]。 オッチギンは遊牧と農耕を基盤にこの地で独立的な勢力を形成していた[7]。 李成桂の高祖父 李安社は全州から豆満江流域の斡東地域に移り、 後の1255年に千戸長、ダルガチの地位を元皇帝から賜った[7]。千戸長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職で、 実質的にはオッチギンから認められた軍閥勢力が就任していたと彼らは述べている[7]。 1290年にオッチギン家で内紛が起きたため、李安社の息子、李行里は斡東の基盤を失って咸興平野に移住したが、千戸長、ダルガチの職位は李行里の曽孫子である李成桂の時まで五代に渡って世襲された[7]。
強大な権力を背景に[8]「満鮮史観」や「皇国史観」といった歴史像がまかり通っていた[8]戦前の日本[8]では、「満鮮史観」に基づいて研究を行った[9]池内宏が満鮮史研究. 近世編 中央公論美術出版において李成桂が女真族であると唱え、この説が広く信じられた。しかし戦後になると日本の歴史研究は戦前の「満鮮史観」などから抜け出し[8]大きな発達を遂げた[8]。戦後の日本では「満鮮史観」は日本の進出対象であった満州と朝鮮の不可分性を強く主張すると共に、一般人にもその考えを普及させ、「朝鮮民族の発展」と「鮮人愛撫」という思考形式によって日本の大陸進出を正当化する目的があったという批判[10]や、歴史的な考察をされたものではなく、現実の日本の強い朝鮮支配と関連して初めから「満鮮一体」という結論があり、その上でそれを歴史的に説明するために提唱されたという批判[11]、普通歴史を考える際、民族が問題となり[12]、朝鮮史は朝鮮民族の歴史として成立しているため[12]、満州と朝鮮を一つとした歴史観は民族の歴史として成立できず[9]、実際に朝鮮民族は新羅による統一以降、満州人とは異なる国家、社会、言語、文化を作り上げており[12]民族の歴史という観点からみると「満鮮史」などというものは存在しないという批判[12]がなされている。他に青柳純一や寺内威太郎も同様に「満鮮史観」についてその虚構性を批判し、また日本の帝国主義を背景とした政治的欲求に基づくものだとも批判している[13][14]。
岡田英弘とその妻である宮脇淳子は李成桂を女真族だと現在も主張している歴史家である。岡田は「高麗の恭愍王が1356年にクーデターを起こした時に、双城にいた李ウルス・ブハという女直人の酋長が高麗に降伏した。この李ウルス・ブハの息子が李成桂である」(『皇帝たちの中国』原書房、1999年より引用)と著書に書いており、宮脇も著書(『世界史のなかの満州帝国』PHP出版、2006年)のなかで岡田と同じことを述べている。なお、両者とも李成桂が女真族だとする理由や根拠を一切示していない[15][16]
[編集] 朝鮮王朝建国までの道程
1356年、高麗の恭愍王は反元政策を掲げ、元に奪われていた領土の収復を推進した[3]。領土奪還のためには全州李氏一族の協力がなくてはならないものだった[3]。李成桂の父で、当時元の千戸の地位にあった李子春は恭愍王の政策に進んで協力した[3]。恭愍王は双城総管府攻撃の直前に、李子春を開京に呼んで小府尹という高位の官職を与えた[3]。そして東北面兵馬使柳仁雨率いる高麗軍が双城を攻撃すると李子春は内部から呼応し、自軍を率いて進んで高麗軍と共に戦った[3]。この結果双城は容易に陥落した[3]。 この功により李子春は従二品の位を授かり、東北面兵馬使に任じられた[3]。ここにおいて全州李氏一族は母国に復帰した[3]。
そして双城陥落から四年後の1360年に李子春は朔方道万戸兼兵馬使に任命されたが[17]、その直後に46歳で亡くなった。このころ彼の息子である李成桂は既に武将となっており、翌年には朴儀の反乱を鎮圧して功を立てている[17]。また同じ年に二つの大きな戦いを経験している。一つ目は紅巾軍の侵入である。1361年、10万の紅巾軍が南侵して首都開京を占領した[17]。李成桂は首都奪還戦において2000名を率いて開京一番乗りを果たした[17]。この戦いはその後の李成桂の台頭の始まりとなった[9]。二つ目は元軍との戦いである。双城を奪還のために侵攻してきた元の大軍を咸興平野で殲滅ししてここでも名を高めた[18]。
当時の中国遼東地方では、元の権威が弱まったことに乗じて、元人の納哈出(ナガチュ)が行政丞相を自称して強大な勢力をもっていた[17]。納哈出は遼東を支配下に置くと、自ら軍勢を率いて高麗に侵入し、瞬く間に西北部を攻略して三撤(咸鏡南道北青)、忽面(咸鏡南道洪原)にまで迫った[17]。1362年2月、東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを撃破して咸関嶺(洪原の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった[17]。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、李成桂はこれを撃破し、納哈出に高麗侵入を断念させた[17]。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の王を廃し、王の叔父である徳興君を王位に就かせようとしたが、高麗は断固としてこの要求を拒んだ[18]。1364年、元は高麗の反逆者崔儒に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は崔瑩らと共に国境近くでこれを殲滅した[18]。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却した[19]。そして同年2月、満州から大軍に侵入して和寧(咸鏡南道永興、現在の金野郡)以北を占領していた女真族を討伐して領土を奪還した[17]。この女真討伐戦の時に文官として従軍したのが、親友でありながら後に李成桂と対立した鄭夢周である[17]。 李成桂は1370年には東北面元帥として東寧府を攻め、さらには大陸の遼陽城までも制圧した[18]。
南方の対倭寇戦では、1377年に智異山で倭寇を殲滅したことによって名声を確固たるものにし[17]、同年8月にも西海道(黄海道)一帯の倭寇を大破していた[18]。そして1380年倭寇が500隻から成る軍勢で侵入し、その中で最も強力な倭寇の集団が雲峰(全羅北道南原郡)の引月駅を占領したため、高麗側は9人の元帥に攻撃させたが敗北して二人の元帥が死んだ。この事態を受けて李成桂は総指揮官に任命され、引月駅に進撃してこれを破った[17]。
一連の戦いで名声を得た李成桂のもとには、新興官僚[20]や地方豪族が集まっていくことになる[8]。1388年、明は高麗領である鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきたため、高麗第三十二代国王王禑と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで明の圧力を退けようと計画した[19]。李成桂は右軍都総使に任じられ[1]、前線指揮を担った[21]。李成桂は四つの不可論[22]を理由に出兵を反対していたが、王禑は崔瑩の意見に従い反対論を無視し遠征を開始した[1]。実はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力や李成桂ら武人の勢力を削るという目的があった[19]。王禑は遠征軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激励の言葉を一つもかけなかった[3]。また、反乱に備えて遠征する武将らの家族は王宮に来させて人質(回軍の時には全員脱出した)とした[3]。1388年5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達したが、大雨による増水で河を渡ることが出来ず、日が経つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧の補給も難しくなっていた[1]。このような状況を理由に李成桂は撤退を要求したが、これも認められなかったため、李成桂は独自に撤退を開始した(威化島回軍)[1]。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂を助けるべく馳せ参じた[3]。また民衆も回軍を歓迎し[3]、李成桂に希望を持つ歌が流行った[23]。一方の高麗朝廷は既に民から見放されており[3]、回軍の報せを受けた崔瑩が抵抗軍を組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった[3]。 6月1日に開京に着いた李成桂は、王禑に遠征の責任を問い、崔瑩の処罰を要求した。しかし、王禑は李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞を与えるという触書を出したため[3]、李成桂は交渉を諦めて王宮を攻め崔瑩を捕虜とした[3]。崔瑩は処刑されずに遠方に流され(二か月後に処刑されている)、王禑は王の地位を失わなかったが、権力を失い名ばかりのものとなった[3]。王禑は王権を取り戻すべく、内侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され[3]、子の王昌が曹敏修らに擁立されて王位に就いた[3]。しかし李成桂らに擁立された恭譲王に1389年、王位を奪われ[1]、王昌と王禑は処刑された。 恭譲王は朝鮮王朝樹立の2年後の1394年、臣下の強い要請によって首を刎ねられた(李成桂自身は王氏一族を内地に復帰させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の強い要請によって処刑せざるを得なかった)[3]。このとき李成桂により王氏(高麗王家)一族の皆殺しも行なわれた。韓国統計庁が2000年に行なった本貫調査によると開城王氏の人口は2.0万人と極端に少なかった。このときの皆殺しが原因とされる[要出典]。
政治の実権を握った李成桂、鄭道伝、趙浚らは親元的な特権階級、権力と結びつき腐敗した仏教勢力が私有地を拡大したために国庫が尽きている現状を痛烈に批判し、1390年から田制改革を強行した[1]。
1392年7月、国家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に即位を要請し、恭譲王を追放した[1]。「禅譲」の形式による新国家樹立であった[1]。
[編集] 後継者争いと失意の晩年
李成桂は、八男の李芳碩に後を継がせようと思っていたが、それに反発した王子達が、1398年に反乱を起こした(第一次王子の乱)。これにより、芳碩と功臣鄭道伝が五男の李芳遠に殺されてしまうと、李成桂は芳遠の奨める次男の李芳果(定宗)に譲位し、退位してしまう。その後も李成桂の王子達の反目は続き、1400年、今度は四男の李芳幹が反乱を起こす(第二次王子の乱)。この乱は李芳遠によって鎮圧されたが、この乱の後、定宗は李芳遠に譲位し、芳遠は太宗として即位した。
自分の息子達の争いに嫌気がさした李成桂は咸興に引きこもり、仏門に帰依した。太宗は父から後継者として認められたくて差使を咸興に送った。しかし李成桂はソウルから差使が来る度に遠くから矢を射ち殺してしまった。そこから任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じた。
1402年に太宗と和解し、ソウルに帰って来た。そして、太宗は李成桂から 国璽を受けて正式に朝鮮王として認められる。その後李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活をしていたと言う。1408年、74歳で崩御した。御陵は健元陵(京畿道九里市、東九陵の一つ)である。
[編集] 伝説
李成桂の生誕については神秘的な伝説に彩られている。あるとき父李子春の夢枕に老翁が現われた。老翁が語るには「我は白頭山の神仙である。もしお前たち夫妻が100日間祈願参篭をするならば、生まれた子供は後に天下を頂くことになるであろう」。夢から覚めた李子春は霊夢にしたがって妻・崔氏とともに白頭山に100日間の祈願参篭を行った。そして100日満願の翌日李子春はまた霊夢を見た。今度は天界で五色雲に乗って天女が下降った。その天女は李子春に拝礼すると「この品物を受け取ってください。やがて後日東国を測量する時必要になるでしょう」と言って、袖の中から尺を取り出した。李子春がその尺を受け取ったところで、夢から覚めた。翌日、妻・崔氏が身篭ったことがわかった。崔氏は13ヶ月後男児を生んだが、その赤んぼうが李成桂である。
李成桂は在世に「伝御刀」という刀を使ったが、この刀は父李子春が先祖の墓にあったものを李成桂に与えたと伝えられている。李成桂はその刀で先祖の墓を侵犯した妖物を倒した。また竜王の子孫である禑王と闘った時も伝御刀を用いたが、禑王を倒すやいなや伝御刀は泣きながら刃がこわれたと言う。その後伝御刀は誰も直すことができず、その行方は伝わっていない。そして李成桂のもう一つの武器の「御角弓」という弓とスモモで作った矢は現在北朝鮮で保管している。
李成桂が戦時に騎乗した駿馬の名が8頭伝わっている。その名前を順番どおり列挙すれば「横雲鶻」、「遊麟青」、「追風烏」、「発雷赭」、「竜騰紫」、「凝霜白」、「獅子黄」、「玄豹」である。後に世宗は画家安堅には八駿馬の姿を描くように、「集賢殿」の楽士らには賛を作曲するように勅した。
[編集] 年表
- 1335年:和寧府(永興:現在の咸鏡南道金野郡附近 双城総管府のあった所)で、元のダルガチ李子春の次男として産まれる。
- 1357年:父とともに高麗に寝返り、双城総管府陥落の手引を行なう。
- 1360年:父の死とともに高麗の官吏になる。
- 1362年:咸鏡道に入り込んだ納哈出(ナハチュ)軍を撃退する。
- 1363年:元は、恭愍王を廃位し、代わりに徳興君を王位に建てようとする。
- 1369年:満州地域に侵略する為に遠征を行う。
- 1376年:倭寇が忠清道公州を落とし開京が危機に陥ったため倭寇討伐に赴く。
- 1380年:倭寇の首領アキバツ(阿只抜都)の軍を雲峰で撃退した(荒山戦闘)。
- 1382年:女直のホバツが朝鮮東北部を荒らしたのでこれを撃退した。
- 1385年:咸州に入り込んだ倭寇を撃退。
- 1388年:李成桂は第32代高麗王王禑から遼東半島の明軍討伐の命を受けるも、兵を都の開京(開城)へ向け軍事クーデターを起こし、高麗の権力を掌握する。(威化島回軍)王禑を退位させ、王禑の子王昌を第33代高麗王に擁立する。
- 1389年:王昌を父王禑とともに殺害し、第20代神宗の7代孫を恭譲王として第34代高麗王に擁立する。
- 1392年:恭譲王を廃位して、高麗王として即位。(権知高麗国事)
- 1393年:明より国号変更の要請を受けたが、逆に和寧と朝鮮の国号を提示し、どちらの国号かふさわしいかを明の皇帝太祖(朱元璋)に問う。結果、権知朝鮮国事に冊封されることによって国号が朝鮮と決まる。
- 1394年:漢陽(漢城、今のソウル)に遷都。 杆城に追放していた恭譲王を謀反の疑いを理由にその子とともに殺害する。
- 1398年:李成桂は八男の芳碩を後継にしようとしたが、五男の芳遠が反乱を起こし芳碩を殺してしまう(第一次王子の乱)この時病床にありこの争いに嫌気が差した李成桂は、国事を放棄し、芳遠の推挙した次男の芳果(定宗)に国事を譲る。
- 1399年:開城へ再遷都。
- 1400年:定宗の弟、李成桂の四男である芳幹が第二次王子の乱を起こし、その鎮圧に功の有った芳遠(太宗)に定宗は国事を譲位する。李成桂は、ショックで咸州に引きこもってしまう。漢陽に再々遷都する。
- 1401年:明から正式に国王号が認められる。
- 1402年:太宗と和解し、漢陽に戻る。
- 1408年:死去(73歳)。晩年は念仏三昧の日々を送ったという。
[編集] 宗室
[編集] 父母
- 父 李子春(後に桓祖とされる)
- 母 永興崔氏(後に懿惠王后とされる)
[編集] 后妃
- 承仁順聖神懿王后(安辺韓氏)
- 順元顕敬神徳王后(谷山康氏)
[編集] 王子
[編集] 王女
- 慶慎公主
- 慶善公主(以上は神懿王后韓氏の娘)
- 慶順公主(以上は神徳王后康氏の娘)
- 宜寧翁主
- 淑慎翁主
[編集] 李成桂が登場するドラマなど
[編集] 脚注
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り ぬ る 姜(2006)
- ^ 太祖實錄 總序によれば、「太祖康獻至仁啓運聖文神武大王, 姓李氏, 諱旦, 字君晋, 古諱成桂, 號松軒, 全州大姓也。」であるので、本貫は全州李氏となる。
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り ぬ る を わ か よ た れ そ つ ね な ら む う ゐ の お く や ま け ふ こ 李(2006)
- ^ *李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、78 - 79頁より引用
- ^ い ろ は に ほ 「壬辰倭乱、ヌルハチと朝鮮 2」、Kdaily(韓国語)、2007年2月8日
- ^ 1258年のモンゴル軍の第四次侵略において、高麗の土着の豪族が投降する動きがあり、これに対応してモンゴルは、和州(永興)に設置し、周辺を領土化した。 村井(1999)
- ^ い ろ は に ほ へ と [1]
- ^ い ろ は に ほ へ 旗田(1974)
- ^ い ろ は 伊藤(1986)
- ^ 滝沢(2003)
- ^ 井上(2004)
- ^ い ろ は に 旗田(1964)
- ^ 青柳(2000)
- ^ 寺内(2004)
- ^ 岡田(1999)
- ^ 宮脇(2006)
- ^ い ろ は に ほ へ と ち り ぬ る を 麗(1989)
- ^ い ろ は に ほ 李(1989)
- ^ い ろ は 水野(2007)
- ^ 儒教の知識を持ち、腐敗した仏教勢力やこれに連なる貴族が有する膨大な土地と人を国家に取り戻すことなどを訴えた。 李(2006)
- ^ 金(2002)
- ^ 第一は小を以て大に逆らうのが不可であり、第二は夏に軍を動員するのが不可であり、第三は国を挙げて遠征すれば、倭寇がその虚に乗じてくるから不可であり、第四は暑くて雨の多い時に当たり、弓弩の膠(にかわ)が解け、大軍が疫疾にかかりやすいから不可である(姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年、120頁より引用)
- ^ 平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生(人民)を救いたまえ。(李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年、57頁 - 58頁より引用)
[編集] 参考文献
- 青柳純一「「満鮮史」学の虚像」『人文論叢』、釜山大学人文学研究所、2000年
- 伊藤亜人他監修平凡社編『朝鮮を知る事典』平凡社、1986年
- 井上直樹「近代日本における高句麗史研究 - 「満鮮史」・「満州史」と関連させて」『高句麗研究会』第18輯、2004年
- 井上直樹「日露戦争後の日本の大陸政策と「満鮮史」」 - 高句麗史研究のための基礎的考察 -」『高句麗研究会』第18輯、2004年
- 岡田英弘『皇帝たちの中国』原書房、1999年
- 姜在彦『歴史物語 朝鮮半島』朝日新聞社、2006年
- 金素天『韓国史のなかの100人』前田真彦訳、明石書店、2002年
- 滝沢規起「稲葉岩吉と「満鮮史」」『中華世界と流動する民族』、社会文化科学研究科プロジェクト報告書37集、千葉大学大学院社会文化科学研究科、2003年
- 武田幸男編訳『高麗史日本伝(下)』岩波文庫、2005年
- 朝鮮史研究会編著旗田巍編修代表『朝鮮の歴史』、三省堂、1974年
- 寺内威太郎「「満鮮史」研究と稲葉岩吉」『植民地主義と歴史学 - そのまなざしが残したもの - 』刀水書房、2004年
- 旗田巍「「満鮮史」の虚像 - 日本の東洋史家の朝鮮観」『鈴木俊教授還暦記念 東洋史論叢』、鈴木俊教授還暦記念会、1964年
- 宮脇淳子『世界史のなかの満州帝国』PHP出版、2006年
- 村井章介『中世日本の内と外』筑摩書房、1999年
- 李殷直『朝鮮名人伝』明石書店、1989年
- 李景珉監修水野俊平著『韓国の歴史』河出書房新社、2007年
- 李大淳監修李成茂著『朝鮮王朝史(上)』金容権訳、日本評論社、2006年
- 麗羅『人物韓国史(上)』徳間文庫、1989年
[編集] 関連項目
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