李鵬

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李鵬
生年月日 1928年10月20日
出生地 中華民国上海市
所属政党 中国共産党
親族 周恩来(養父)
配偶者 朱琳

中華人民共和国の旗 第7代全国人民代表大会常務委員長
任期 1998年3月16日 - 2003年3月15日
国家主席 江沢民

内閣 李鵬内閣
任期 1988年3月25日 - 1998年3月17日
1987年11月24日 - 1988年3月25日まで国務院総理代行
国家主席 楊尚昆
江沢民

中華人民共和国の旗 国務院副総理
内閣 趙紫陽内閣
任期 1983年6月 - 1988年3月25日
国家主席 李先念

内閣 趙紫陽内閣
任期 1985年6月 - 1988年4月

中華人民共和国の旗 第2代電力工業部長
内閣 趙紫陽内閣
任期 1981年3月 - 1982年3月
  
李鵬
各種表記
繁体字 李鵬
簡体字 刘鹏
Lĭ Péng
和名表記: り ほう
発音転記: リー・ポン
  

李鵬(り ほう、リー・ポン、1928年10月20日 - )は中華人民共和国政治家国務院総理首相)、全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)、中国共産党中央政治局常務委員などを務めた。

目次

[編集] 経歴

李鵬の父李硯勛は中国共産党初期の指導者であったが、中国国民党に処刑されたといわれる。周恩来とその妻鄧穎超は子供がに恵まれなかったため孤児を引き取って養っており、李鵬もその1人であった。建国の元老である父と母を後ろ盾として国務院トップまで上り詰めた二世政治家。

1979年から1983年にかけて、電力工業部副部長(副大臣)、電力工業部長(大臣)、水利電力部副部長を歴任。1982年9月の第12回党大会で中央委員入り。1983年6月に国務院副総理。1985年の第12期五中全会で政治局委員中央書記処書記に選出。同年6月、国家教育委員会主任に就任。1987年第13期一中全会党総書記に就任した趙紫陽の後継として、国務院総理に指名され、政治局常務委員に選出される。翌1988年3月、正式に国務院総理に就任。

1989年天安門事件では一貫して強攻策を主張した。趙紫陽が北朝鮮の訪問中に留守を託された李鵬ら保守派は鄧小平に事態を誇張して報告し、鄧小平は学生運動を動乱と認定。その意向は4月26日付『人民日報』社説である「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」に反映された。この社説に対する見解を巡って趙紫陽と決裂し、学生との対話でも終始小バカにした態度で反感を煽った。さらに5月19日、党・国務院・人民解放軍などの幹部を集めた大会で行った講話でも学生たちの不満を煽った。

天安門事件によって趙紫陽総書記と胡啓立政治局常務委員の失脚が確定的となった後、鄧小平たち八大元老は総書記の人選に入ったが、李鵬が候補として挙げられた形跡はなく、上海市党委書記で学生デモや『世界経済導報』停刊の対応を評価された江沢民(当時政治局委員)の後塵を拝することになった。学生運動の開始後ずっと前面に出ていたため、国内外に対する印象の悪さも考慮されたと思われる。 また、2009年11月現在まで天安門事件の再評価を頑なに拒んでいる。

天安門事件以降、安定を最優先にしたため経済政策は引き締め路線を走り、保守派と妥協した鄧小平もついに業を煮やし1992年の旧正月に広東省や深セン市などの経済特区を突如訪れ、改革路線を肯定する談話(南巡講話)を発表して回ったため改革派が勢いづき、李鵬の引き締め路線はほとんど無視されるようになった。

政局および政策の転換により、1993年の任期をもって総理を退任し、経済通の朱鎔基が後継者となるという見解が大勢を占めていたが、これに反して続投が決まった。総理候補として挙がったのが李鵬だけだったため、事実上の信任投票となったが、反対票は曽慶紅2003年国家副主席就任)と同率の12.5%に達した。1994年、国内の大反対を押し切って、三峡ダムの着工を強行。家族に電力会社関係者が多く、批判を集めた。

1995年頃、日本について、オーストラリア首相であったポール・キーティングに、「日本という国は40年後にはなくなってしまうかもわからない[1]」あるいは「30年もしたら日本は大体つぶれるだろう[2]」といった内容の発言をしたとされている。また、1995年に「日本などという国は20年後には消えてなくなる」と発言したと、テレビ番組「TVタックル」(テレビ朝日系)で紹介された。しかし、そのころオーストラリアを訪問した記録はなく、どこで発言したか不明であり、発言が一人歩きしている感はある[3]

1998年、朱鎔基に総理の座を譲り、全人代常務委員長に就任。2002年4月に全人代常務委員会委員長として訪日し、日中間の友好関係の構築について発言した[4]2003年に退任し、引退した。

2008年2月5日、脳梗塞を起こし北京301医院に搬送された。半年後の9月25日、高速鉄道「和諧号」に乗車しているところを報じられ、健在が確認された。2009年3月に開かれた全人代にも出席している。 また、2009年11月にはカナダの明鏡網が、李鵬が重病との情報を伝えた。 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1118&f=politics_1118_011.shtml

長男の李小鵬は山西省副省長。

[編集] 略歴

[編集] 「元宵」事件

人民日報』海外版1990年3月20日号に、美国(アメリカ合衆国)留学生の作として、以下の七言律詩が掲載された。

東風拂面催桃
鷂鷹舒翅展
玉盤照海熱涙
遊子登思故國
休負生報國志
育我勝萬金
起直追振華夏
且待神洲遍地春

そのまま読めば、春の訪れを待つ愛国的な留学生の気持ちを詠ったものである。しかし、右斜め上から下に「李鵬下台平民憤」(李鵬が辞めれば民の憤りは収まる)という文が隠されていたため大騒ぎになった。「人民我勝萬金」の列は、「人民我勝萬金」と誤って紹介されることがある。

中文版李鹏下台嵌字诗も参照。

[編集] 脚注

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  1. ^ 参議院議員笠原潤一は「米国人の方はどちらかというと日本人よりも中国人の方に親近感を感じているわけです、長い歴史の上からいっても。中国人社会がいかにアメリカの中に溶け込んでいるかというのは日本人社会以上ですから。そういう点からいえば、時々は米中はぎすぎすしますけれども、お互いの話というのは、コミュニケーションというのは非常にいいわけです、これはもう第二次世界大戦の例を見てもわかるように。ですから、その点では我々はそういう点をもう少し認識しないと、日米というよりも中米の方が本当を言えばタイトなんですよ、いろんなことからいって非常に関係が深いわけですから。そういう点で、その点もしっかり把握しておかないと日米という問題は将来大変なことになるだろう」と米中日の関係を話したうえで、次のように報告している。「この前、ちょうどAPECを控えて、我が自民党で御承知のようにAPECの問題でアメリカとオーストラリアに行ってもらったんです。そのときに、オーストラリアのキーティング首相がこう言ったんです。中国の李鵬さんと会ったらどう言ったかといいますと、日本とのいろんな話をしたら、いや日本という国は四十年後にはなくなってしまうかもわからぬと、そう言ったというんです。これはうそじゃありません、これはほかの先生みんな行って言っているんですから。それくらい軽視されているわけです、ある意味では。」参議院 (1996-11-08). "参議院会議録情報 第134回国会 国際問題に関する調査会 第2号" (日本語). 2007年9月4日 閲覧。
  2. ^ 衆議院 (1998-05-09). "衆議院会議録情報 第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号" (日本語). 2007年9月4日 閲覧。
  3. ^ 2006年7月3日の放送
  4. ^ [1]

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

 中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代:
喬石
全国人民代表大会
常務委員長
1998年 - 2003年
次代:
呉邦国
先代:
趙紫陽
国務院総理
1988年 - 1998年
次代:
朱鎔基
先代:
何東昌
国家教育委員会主任
1985年 - 1988年
次代:
李鉄映
先代:
劉瀾波
電力工業部長
1981年 - 1982年
次代:
水利電力部に再編

最終更新 2009年11月20日 (金) 13:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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