村山実

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村山 実
基本情報
国籍 日本
出身地 日本の旗 兵庫県尼崎市
生年月日 1936年12月10日
没年月日 1998年8月22日(満61歳没)
身長
体重
175cm
83kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月14日
最終出場 1973年3月21日(引退試合)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督歴
  • 阪神タイガース (1970 - 1972, 1988 - 1989)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1993年
選出方法 競技者表彰

村山 実(むらやま みのる、1936年12月10日 - 1998年8月22日)は、日本プロ野球選手投手)・監督野球解説者兵庫県神戸市北区生まれ、尼崎市出身。1963年の一時期「村山 昌史(むらやま まさし)」に改名。

ザトペック投法」から投げ込むフォークボールを武器に活躍し、2代目「ミスタータイガース」と呼ばれる。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

住友工業高校(現尼崎市立尼崎産業高等学校)から大学野球を目指し、立教大学のセレクションを受けるが、身長が低いことを理由に落とされる。結局関西大学に進学。のちに阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス日本ハムファイターズ監督となる上田利治とバッテリーを組み、2年生のときには全日本大学野球選手権大会に出場し、全試合完投で優勝に貢献する。この優勝は西日本の大学としては初の快挙であった。だが、翌年の大会では肝炎を発症してマウンドに立つことができなかった上、チームが村山をセレクションで落とした立教大に敗れた。立教大に対する雪辱の思いは後に立教大出身のスター選手で1学年上の長嶋茂雄への闘志むき出しのピッチングとなって現われることになる。

1958年阪神電鉄に入社し、出向の形で大阪タイガース(1961年より、阪神タイガース。以下、阪神〔当時からの略称〕)に入団した。読売ジャイアンツ(以下、巨人)からは阪神の4倍の契約金を積まれたが、関西で生まれ育ったからと拒否したと言われる。しかし、本人の著書によると大学時代に肩を故障していたこともあり、いつ壊れるかわからない肩を不安に思ったまま、マウンドでの全力投球ができないからと電鉄に入社し、出向の形をとってくれた阪神にお世話になることにしたそうである[要出典]

ちなみに、首席入学の上田と違って大学での成績は芳しくなかったようである。卒業試験の時、問題がちんぷんかんぷんで答案用紙には何も書こうとせず、だまって腕組みをしているだけだった。すでに阪神と契約をすませており、教授からは名前を書くだけでいいからそれで卒業にしてやる、といわれて名前だけ書いてなんとか卒業することができたという[要出典]

[編集] プロ時代

プロ初登板は1959年3月2日阪神甲子園球場での巨人戦(オープン戦)。初代ミスタータイガース・藤村富美男の引退試合の日でもあった。当初は前日の予定も雨天中止のため月曜日の試合となったにもかかわらず、3万人の観衆を集め行われた。このとき村山は2回を投げ打者7人と対し、被安打1、無失点に抑えた。

公式戦初登板は同年4月14日国鉄スワローズ戦。初先発でもあった。ただ、この日は火曜日ながらデーゲームであり、観客は34人しかいなかったというが、公式記録では3千人。ちなみに、国鉄の先発は金田正一。結果は村山が6回までノーヒットに抑える好投で、2安打完封のデビューであった。この年18勝10敗、防御率1.19の活躍で、最優秀防御率のタイトルを獲得、新人ながら沢村賞も受賞した。しかし、新人王のタイトルは新人新記録となる31本塁打を放ち、新人ながら本塁打王のタイトルを獲得した桑田武に譲った。新人で沢村賞を受賞しながら新人王に選ばれなかった投手は現在も村山ひとりだけである。

闘志むき出しで全身を使ったピッチングは「人間機関車」と呼ばれた陸上競技選手のエミール・ザトペックに例えられ、村山のピッチングは「ザトペック投法」と呼ばれた。なお、村山のウィニングショットはフォークボールである。多い時には1試合で30~40球は投げたと言われ、オーバースロースリークォーターサイドスローで投げ分けられるフォークは空振りを量産した。村山は小柄であったが、手は大きく手首から中指の先端まで約22センチあった。一方でフォークを多用する投手は概して多いと言われる暴投が3000イニング以上投げたにもかかわらず、わずか16個しかなく、シーズンで見ても1961年に4個記録したのを除けば全て2個以下。1959年には295回1/3、1965年には307回2/3を投げて暴投0だった。

新人シーズンの1959年6月25日天覧試合では小山正明をリリーフし、巨人の長嶋茂雄に左翼ポール際へのサヨナラ本塁打を打たれた。微妙な判定であったため、村山は死ぬまで「あれはファールだった」と言っている(村山本人、捕手山本、打者長島が司会徳光和夫と伴に同席した参考動画)。以来、村山vs長嶋のライバル関係ができあがった[1]。村山は1500奪三振(1966年6月8日)、2000奪三振(1969年8月1日)をいずれも長嶋から狙って奪っている。なお、村山対長嶋の対戦成績は302打数85安打、打率.281、21本塁打、39三振であった。

現役時代、キャッチボール中に隣から飛んできたボールを反射的に右手で払いのけてしまい、右手首を傷める。この時に手首に負担がかからないフォークの投げ方を新たに開発したと述懐している。三宅秀史は同じようなケースで目を負傷し、連続試合出場が途切れている。

1962年1964年のリーグ優勝に貢献。1962年にはMVPを獲得した。しかし、日本シリーズではそれぞれ東映フライヤーズ南海ホークスに敗れ、日本一の栄冠には届かなかった。村山は1962年第2戦で8回一死まで一人の走者を出さずあわや完全試合の快投、シリーズタイ記録となる6試合登板など大車輪の活躍をしたが打線の援護に恵まれなかった。5連敗(1962年第6戦~1964年第7戦)、シリーズ3敗(1964年)という不名誉なシリーズ記録(いずれもタイ記録あり)も持っている。

また、日米野球でも活躍。1962年11月17日デトロイト・タイガース戦(後楽園球場)で8回2死までノーヒット・ノーランに抑える快投を披露。終盤に2安打を喫し、快挙は逃したが無四球・9奪三振の完封勝利を収めた。日米野球で日本人投手が完封勝利を収めたのは史上初であった。この試合後、デトロイト・タイガースの監督が村山と握手し、興奮気味に「来年はうちに来ないか?君と契約したい」とまくし立てたが、英語が分からない村山は「サンキュー、サー」としか答えられず、後から何と言われたか通訳に教えられ苦笑したという(文春ビジュアル文庫「魔球伝説」)。

1967年頃より右腕の血行障害に悩まされ、エースの座を江夏豊に譲る。1969年は兼任投手コーチ。1970年選手兼任監督に就任。同年200勝達成。また、この年記録したシーズン防御率0.98は規定投球回数以上での戦後唯一の0点台記録

1972年シーズン限りで現役引退、監督退任(この年は4月21日から金田正泰ヘッドコーチに監督を委ねた)。1973年3月の引退試合(巨人とのオープン戦)では、王貞治高田繁らをフォークボールで三振に切って取る(長嶋は発熱の為大阪入りせず)。村山登板の際には江夏の音頭で投手陣が作った騎馬に乗ってラッキーゾーン(当時ブルペンはラッキーゾーンにあった)から登場、満場の拍手に迎えられた。捕手の田淵幸一に「今日は涙で見えないから全部フォークでいく」と言い、その通り実行した。「ムラさんまだまだイケルよ!今日のフォークは最高だった」と告げるとまた涙でむせ返った。この試合では女優の浪花千栄子があいさつし、「村山はん、ほんまにあんた、ようおきばりやしたなぁ。おおきに、おおきに」とねぎらいの言葉を贈った。

背番号11は阪神の永久欠番となった。村山自身、永久欠番の栄誉を終生誇りにしていた。サインを求められ応じた際は必ず「阪神タイガース永久欠番」と添えていた。阪神淡路大震災で被災した時、世話になった人たちに腕時計を贈ったが、その時計の裏にも「阪神タイガース11 村山実」と刻まれていたという。本人は「あんなもの」と言っていたが、贈られた人はいたく感激して大切にしているという[要出典]

通算222勝は大卒の投手としてはチームの大先輩・若林忠志以降、最多勝記録である(阪神の投手勝利数の記録でも若林に次ぐ2位)。通算防御率2.09はセリーグ記録でもある。

[編集] 引退後

1973年〜1987年日本テレビ(系列局・よみうりテレビ広島テレビ(後者は1979年頃から)も兼任)の野球解説者となる。1978年7月24日金田正一により発足した日本プロ野球名球会へ入会。大卒選手で200勝以上した名球会会員は村山(通算222勝)だけである(明治・大正生まれのために名球会資格がない大卒200勝投手は3人いる)。1988年1989年に再び阪神監督になり、自身の永久欠番の11をつける。

大野久和田豊中野佐資の若手選手3人を「少年隊」と命名して売り出し、話題を作るが成績は6位・5位と低迷した。この3人を相手にキャンプで打撃投手を自ら買って出たが、この無茶がたたって股関節を痛め、人工関節手術を受けることになった。

在任中、ドラフト会議で立命館大学古田敦也捕手(後のヤクルトスワローズ捕手)の獲得を球団に進言したが、眼鏡をかけているという理由で拒否されたことを、のちにテレビ番組で話している。

1989年6月25日に甲子園で行われた阪神対巨人戦で、岡田彰布ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放って阪神が勝つが、天覧試合からちょうど30年目の日で、同じ左翼ポール際への一発でスコアも5-4と裏返しとなり、しかもこの時の巨人監督が天覧試合完投勝利した藤田元司だったことから、岡田が村山監督の仇討ちを果たした形となった。試合後「今日は岡田に尽きるが、若いの(和田、亀山)がよくつないだ。天覧試合と同じ日?そりぁうれしい、気分が全然違うよ。」とコメントした。1989年オフに退任。

1990年からは朝日放送の野球解説者となる。1993年野球殿堂入り。現役時代から実業家の資質に長けており、村山自身、芦屋市のマンションを購入して自分自身の会社の本社にしたというエピソードは有名である。その自宅マンションは、阪神・淡路大震災で被災し、しばらく自家用車で寝泊りをする生活をしていた。1998年8月22日、直腸ガンのため死去。61歳没。葬儀の際に村山の棺を乗せた霊柩車は、参列した大勢のファンの「六甲おろし」の大合唱に送られて斎場を後にした。なお、2004年に出身校の尼崎産業高校に銅像が建てられた。

[編集] エピソード

  • 1963年8月11日の巨人戦で、7回にリリーフに登板したがカウント2-2から自信をもって投げた球を球審(国友正一)に「ボール」と判定され、「どこ見てるんや! わしは一球一球、命かけて投げてるんや」と涙を浮かべて激しく抗議し、暴言を吐いたとして退場処分になった。このとき村山は最初の打者(池沢義行)との対戦中であり、「1人の打者との対戦が終わるまで投手は交代できない」という野球規則の例外記録となった。なお、村山は前日の同一カードでは7回までノーヒットというピッチングをしており、それを破られたのはこの日対戦していたのと同じ池沢だった。
  • 初めて購入した自宅の電話番号が「3279」、つまり3(長嶋)に泣く、という語呂合わせにもなっていたが、当時電話を引くのだけでも大変だった時代のためしばらくはこの電話番号を使っていた。
  • 1959年5月21日の巨人戦で、相手をノーヒットに抑え完投しながら味方の失策などで失点を許す“ノーヒットありラン”を記録している。試合は3-2で勝ち、完投して勝利投手となった。
  • ほぼ同時期に活躍した小山正明は「10-0」でも「10-9」でも勝ちは勝ちというドライな性格だったが、村山の場合は「10-0」で9回2死ランナー無しでも、全力投球するスタイルを貫いた。例えば、小山は大量点でリードしていても、鬼の形相で投げ続ける村山に「適当に力抜かないとパンクしてしまうぞ」と声をかけたという。しかし、村山は「力抜くとキャッチャーまでとどかないような気がする」と答えたところ、小山は「なんだあいつ、かっこつけやがって」と思っていたそうである。だが、村山の葬儀の際、小山は「頭に白いもの(白髪)が目立ち、この年になって村さんの言葉がようやくわかるようになった」と述べている。また、小山は、自身が解説をつとめていたゲームで、阪神の井川慶が味方の打線によって大量リードの援護を受けた直後に連打を浴びて失点した場面で、実況のアナウンサーの「どんな投手でも大量リードのときに手を抜いてしまうようなことはあるんですか?」という問いに「それはあります。一人を除いて。」と話し、「誰ですか」と聞かれた小山はただ一言「村山」と答えたことがある。
  • 監督在任時に主力選手であった真弓明信が、故郷の福岡ダイエーホークスにトレードが決まりかけていたが、自身の首を賭けて全力で阻止した。
  • 晩年まで長嶋茂雄と仲がよく、お互いに「チョーさん」、「ムラさん」と呼び合っていた。
  • 母校の尼崎市立尼崎産業高等学校には村山実のピッチングフォームの銅像(モニュメント)が飾られている。このモニュメントは2004年8月に卒業生らが「後輩の励みになるように」と寄付金約1000万円を募って、校門近くに建立されたものである。高さは台座も含めて2.65m。像はほぼ等身大に近い造型。1959年の後楽園球場で行われた天覧試合で巨人の長嶋茂雄選手相手に投げている瞬間がモチーフになっている。今でも命日である8月22日には同校の教職員が花を供えたり、全国のファンたちも訪れたりしている。
  • 巨人の星に登場する花形満は、村山実がモデルである[2]

[編集] 年度別投手成績





























1959 大阪
阪神
54 19 7 2 18 10 295.1 165 15 61 294 39 1.19 8.96
1960 36 7 1 0 8 15 167.2 116 12 51 153 47 2.52 8.21
1961 48 18 3 1 24 13 293.0 238 16 69 221 74 2.27 6.79
1962 57 23 6 7 25 14 366.1 261 17 60 265 49 1.20 6.51
1963 28 10 2 0 11 10 158.1 126 16 49 121 49 2.77 6.88
1964 46 17 5 2 22 18 255.0 227 27 85 159 94 3.32 5.61
1965 39 26 11 4 25 13 307.2 221 17 56 205 67 1.96 6.00
1966 38 24 8 9 24 9 290.1 194 16 56 207 50 1.55 6.42
1967 30 9 3 2 13 9 180.1 141 20 43 126 56 2.80 6.29
1968 32 14 1 0 15 8 198.0 169 13 46 152 60 2.73 6.91
1969 35 11 1 2 12 14 214.2 180 19 45 160 48 2.01 6.71
1970 25 7 5 1 14 3 156.0 85 7 37 118 17 0.98 6.81
1971 19 4 2 1 7 5 83.0 70 6 18 45 25 2.71 4.88
1972 22 3 0 1 4 6 84.2 78 8 20 45 34 3.60 4.78
通算:14年 509 192 55 32 222 147 3050.1 2271 209 696 2271 709 2.09 6.70
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 本塁打 打率 防御率 年齢 球団
1970年 2位 130 77 49 4 .611 2 110 .245 2.36 34歳 阪神
1971年 5位 130 57 64 9 .471 12.5 101 .220 2.76 35歳
1972年 2位 130 71 56 3 .559 3.5 125 .239 3.00 36歳
1988年 6位 130 51 77 2 .398 29.5 82 .248 3.82 52歳
1989年 5位 130 54 75 1 .419 30.5 135 .257 4.15 53歳
通算 650 310 321 19 .491  

※1970年から1996年までは130試合制

[編集] 背番号

[編集] 解説者として出演していた番組

日本テレビ・よみうりテレビ時代
朝日放送時代

[編集] 脚注

  1. ^   『巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。  p.32~35
  2. ^ 川崎のぼる日刊スポーツ連載コラム・伝説『スポ根アニメの原点 巨人の星』(2009年4月21日5月2日)の中で、「村山実は『巨人の星』のキャラクターの中で唯一存在したモデル」と語っている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月15日 (日) 20:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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