村山等安
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村山等安(むらやま とうあん、生年不詳 - 元和5年(1619年))は16世紀末から17世紀初頭にかけて長崎で代官を務めていた人物である。文献によっては「東安」「東庵」「等庵」とも記されている。
村山等安の出自は、尾張国(現・愛知県清須市)[1]出身の他に、安芸出身、博多出身とも言われているが明らかではなく、生年も不明である[2]。長崎に流れ着き、長崎町衆の1人として朱印船貿易商となって、末次平蔵の父・末次興善たちの助けを受け、当時珍重された呂宋壺(ルソン島で焼かれた陶器。茶器として珍重された)の取引で資産を得た。また、イエズス会士により洗礼を受けアントン(アントニオ)と称した。
文禄元年(1592年)、文禄の役の際に名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎の地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預かる長崎代官になりたいと願い、許可された[3]。さらに秀吉は、彼の洗礼名アントンを元にした「等安」という名を与え、以後この名に改めるように命じた。
秀吉の死後も、外町(御免地を「内町」と呼び、それ以外の地を「外町」と称した)を村山が代官として支配していた。慶長9年(1604年)の正月にイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに伏見で徳川家康に謁見し、引き続き長崎の代官となる事を追認された[4]。
その後、等安は呂宋壺の他に生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い、島津藩や鍋島藩に融資するほどの金を蓄えた。
元和2年(1616年)には台湾征討のため、13隻の船団を台湾に派遣したが、これは失敗に終わった。
しかし、長崎の指導者層である頭人のグループや新興商人らと衝突する事となり、元和4年(1618年)の末次平蔵の訴えにより、キリシタンを擁護した事と大坂方と通じたという嫌疑で、元和5年(1619年)11月に江戸で斬首、一族も長崎で処刑された。彼の死後、長崎の代官業務は末次平蔵政直が継いだ。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2005年 ISBN 4-06-258336-4
- 鈴木康子『長崎奉行の研究』 思文閣出版 、2007年 ISBN 978-4-7842-1339-9
- 原田博二『図説 長崎歴史散歩 大航海時代にひらかれた国際都市』 河出書房新社、1997年 ISBN 4-309-72612-7
- 『長崎県の歴史』 山川出版社、1998年 ISBN 4-634-32420-2
- 『国史大辞典』8巻 吉川弘文館、1987年 ISBN 4-642-00508-0
- 『国史大辞典』10巻 吉川弘文館、1989年 ISBN 4-642-00510-2
- 『国史大辞典』13巻 吉川弘文館、1992年 ISBN 4-642-00513-7
- 『長崎県大百科事典』 長崎新聞社
最終更新 2009年11月17日 (火) 01:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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