東プロイセン
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東プロイセン(ひがしプロイセン、ドイツ語: Ostpreußen; ポーランド語: Prusy Wschodnie; ロシア語:Восточная Пруссия)は、ヨーロッパのバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名。東プロシア、あるいはオストプロイセンとしても知られている。現在は大部分がポーランドとロシア、北端の一部分がリトアニアの統治下にある。
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[編集] 概要
元々バルト系のプルーセン人が住み、古プロイセン語が話されていた。1226年に始まるドイツ騎士団の武力による宣教(カトリック化)とドイツ人の東方植民によりドイツ系住民が増大していき、ポーランドやリトアニアからも移住者が増え、それらの人々が原住民と混血してバルト・ドイツ人が生まれていった。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルク(ハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。
[編集] 歴史
ドイツ騎士団はマリエンブルクの町に建てられたマリエンブルク城に本拠を構えたが、在地の貴族と農民達はしばしばドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。バルト・ドイツ人の諸都市もドイツ騎士団の専制支配に強い不満を抱いていた。ドイツ騎士団との間でたびたび紛争が起こったポーランド王国とリトアニアでもドイツ騎士団に対抗すべく(リトアニアがキリスト教を受け入れてリトアニア大公国となることで)ポーランド=リトアニア連合が誕生した。リトアニア大公国の大公ヤギェウォがポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚し、この二人が夫妻共同君主となってポーランド王国を治めることになった。1410年のグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)に続く15世紀前半の戦争を経てドイツ騎士団国家は弱体化した。1440年には都市、諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶がドイツ騎士団に反発してプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟した。1466年の和睦でドイツ騎士団は西プロイセンをポーランドに譲り、東プロイセンはポーランド国王の宗主権下に入った。プロイセン連合加盟の諸都市や諸侯の自治権が勝利者のポーランド王国によって保障された。
1525年、騎士修道会総長でホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクはプロテスタントに改宗し、世俗の「プロイセン公」となって東プロイセンにプロイセン公国を創設した。1618年にプロイセン公の後継者が絶えると、ブランデンブルクを領地とする同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント(在位1608-1619)がプロイセン公を兼ねる同君連合体制となり、ポーランド国王の宗主権下に東プロイセンを統治した。この頃からスウェーデンがバルト海に勢力を伸張し、東プロイセンにも影響を与え、1626年には、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって一時制圧された。しかし1660年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が東プロイセンをポーランド国王の宗主権から解放し、1680年までにスウェーデンの影響力を完全に排除した。そして1701年、大選帝侯の子ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴き、フリードリヒ1世としてプロイセン王に即位、プロイセン公国は「プロイセン王国」となった。ホーエンツォレルン家の主な領土はベルリンを中心としたブランデンブルク選帝侯領であったが、飛び地の東プロイセンは名目上神聖ローマ帝国の範囲外であり、ここでなら皇帝の臣下である選帝侯フリードリヒ3世も王となることができたのである。1772年プロイセン王フリードリヒ2世(大王)はポーランド分割で西プロイセンを併呑し、ブランデンブルクと東プロイセンを地続きにし、飛び地を解消した。以後、プロイセン王国は北ドイツからドイツ各地に勢力を広げ始めた。1871年にはついにプロイセン王がドイツ皇帝に即位する。
第一次世界大戦初期において侵攻してきたロシア軍に対しドイツ軍がタンネンベルクの戦いで勝利した。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により西プロイセンが再びポーランドへ割譲され(ポーランド回廊)、東プロイセンはまた飛地となる。1933年に政権をとったナチス・ドイツはポーランドにポーランド回廊の割譲を要求し、ポーランド側が拒否すれば軍事的手段に出ると述べた。この要求を呑めばバルト海への出口を断たれるポーランドはヒトラーの要求を拒否した。1939年、ナチス・ドイツは旧ドイツ帝国領の北辺の地、いったん国際管理となり隣国リトアニア領になっていたメーメル地域を東プロイセンに併合。同年、ポーランドがポーランド回廊の割譲要求に応じないことを名目に宣戦布告のないままポーランドに侵攻した。この際に東プロイセンはドイツ軍の出撃基地となった。ポーランド侵攻の結果、ドイツは西プロイセンを実効支配し、東プロイセンは再びドイツ本土と地続きになった。東プロイセンを含むすべてのナチス・ドイツ占領地域に住んでいたポーランド人住民(正確にはナチス・ドイツの法令で「ポーランド人」と認定された者)はポーランド総督府と名づけられた東部の狭い地域にすべて追放された。独ソ戦開始とともに東プロイセンのラステンブルク郊外に「総統大本営」(いわゆる「狼の砦」)が置かれ、ヒトラーは東部戦線に近いここから軍隊を指揮した。ベルリンへ向かうソ連赤軍が東プロイセン攻勢を行った1945年1月から4月の間に、迫り来る赤軍を恐れて東プロイセンの住民260万人(1939年時点)のうち200万人以上がドイツ西部に逃れ、残った人々も戦後シベリアに送られるか、オーデル・ナイセ線の西側に追放された(ドイツ人追放)。
第二次世界大戦後、ケーニヒスベルク(カリーニングラードと改称)を含む北半分はソヴィエト連邦(カリーニングラード州)に、南半分はポーランド(ヴァルミア県とマズルィ県)に分割併合され、東プロイセンという地名は消滅した。旧東プロイセンの主要都市は第二次世界大戦でほとんどが激しく破壊されたが、その後の経緯はソ連側とポーランド側で大きく異なる。カリーニングラード州の諸都市はソ連の政策によりファシストや帝国主義者の遺物だとされ、ケーニヒスベルク城をはじめとして多くの歴史的建造物が撤去されてしまった。ポーランド側ではポーランドの政府と市民が協力し、戦後の時代を通じて歴史的建造物や街並みを次々と調査して再建し、その多くが中世の姿を取り戻した。現在カリーニングラード州はロシア共和国の州、ポーランドのヴァルミア県とマズルィ県は自治体合併によりヴァルミア=マズルィ県となっている。カリーニングラード州は1990年代終わりごろからロシア共和国随一の産業地帯として繁栄している。近年は、ケーニヒスベルク大聖堂などといった一部の歴史的建造物の再建が少しずつ行われている。ポーランドのヴァルミァ=マズルィ県は自然と古い街並みが調和する風光明媚なリゾート地の多い地方として内外の観光客が多数訪れ、ドイツ人もやってきてはバカンスを楽しんでいる。初夏から夏にかけてはグルンヴァルトの古戦場跡(グルンヴァルトの戦い)やマルボルク城で壮大な歴史祭りが開催され、ポーランドやドイツをはじめとしたヨーロッパ各地から集まったたくさんの人々が騎士や歩兵に扮して昔の戦いを再現する。
[編集] 参考文献
- Cajus Bekker(著)、Flucht uebers Meer, Ostsee-deutsches Schicksal 1945,1959, Gerhard Stalling Verlag
- Marion Graefin Doenhoff(著)、Namen die keiner nennt,Ostpreussen-Menschen und Geschichte,1962,Eugen Diederichs Verlag
- 伯爵夫人マリオン・デーンホフ(著)、片岡啓治(訳)、『喪われた栄光;プロシアの悲劇』、学習研究社、1963年
- Walter Goerlitz(著)、Die Junker,Adel und Bauer im deutschen Osten,Geschichtliche Bilanz von 7 Jahrhunderten,1964,C.A.Starke Verlag
- セバスチャン・ハフナー(著)、川口 由紀子(訳)、『プロイセンの歴史;伝説からの解放』、東洋書林、2000年
- ギュンター・グラス(著)、池内紀(訳)、『蟹の横歩き;ヴィルヘルム・グストロフ号事件』、集英社、2003年
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年10月31日 (土) 17:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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