東京都立松沢病院
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| 情報 | |
| 前身 | 東京府癲狂院 |
| 標榜診療科 | 内科、神経内科、精神科、外科、脳神経外科、整形外科、耳鼻いんこう科、皮膚科、泌尿器科、放射線科、麻酔科、リハビリテーション科、歯科 |
| 許可病床数 | 1352床 精神病床:1262床 一般病床:90床 |
| 開設者 | 東京都 |
| 管理者 | 岡崎祐士(院長) |
| 地方公営企業法 | 一部適用 |
| 開設年月日 | 1879年7月 |
| 所在地 |
〒156-0057
|
| 電話 | 03-3303-7211 |
| 二次医療圏 | 区西南部 |
| 特記事項 | 精神科応急入院指定病院 |
| (PJ 医療機関) | |
東京都立松沢病院(とうきょうとりつまつざわびょういん、東京都世田谷区上北沢2-1-1)(英名:Tokyo Metropolitan Matsuzawa Hospital)は、1352床(註:2008年8月1日現在)を持つ東京都立の精神科病院である。1940年代まで東京帝国大学医学部の関連病院であり、教授が院長を兼任するなど、密接な関係を持った。
東京都災害拠点病院に指定されている。また東京都の精神科応急入院指定病院であり、措置入院用の施設も備えてある。成年者の治療が主であり、未成年者の場合は、東京都立梅ヶ丘病院を紹介する。
目次 |
歴史
沿革
松沢病院の前身は、1872年(明治5年)に東京府本郷に設置された養育院に始まる。その目的は、明治政府樹立後の内戦や廃藩置県による混乱によって生まれた浮浪者や行き場のない病人を収容することにあった[1]。
1879年(明治12年)7月に養育院が東京府神田に移転した際に収容者を調査したところ、120人中68人が精神疾患者であることが判明し、彼らの収容目的として、同年7月に東京府上野に建てられた東京府癲狂院(とうきょうてんきょういん)を設立する。初代院長は東京府病院長長谷川泰[2]である[1]。
その後1881年(明治14年)8月に本郷区向ヶ丘、1886年(明治19年)6月に小石川区巣鴨駕籠町に移転。第3代院長には、東京帝国大学医科大学精神病学教室初代教授に就任した榊俶(さかき はじめ)が兼任する[3]。
1901年(明治34年)に東京帝国大学精神病理学講座主任教授呉秀三が巣鴨病院院長を兼任し、病院改革を始める。大きな改革は次のとおり[4]。
- 拘束具使用禁止。それらをすべて焼却処分する。
- 患者の室外運動の自由化 - 看護職員や家族が付き添い、病院構内での運動を自由化。
- 旧来の看護観を持つ看護長などリーダー格の職員を更迭し、看護職員の人員と意識の刷新を図る。
- 新しい看護長には医科大学附属病院で看護学講習を聴講させ、看護技術の向上を図る。
- 患者処遇の改善と治療方針の刷新。
- 作業療法の積極的活用。
- 病棟の増改築の実行。
1916年(大正5年)、東京帝国大学精神病理学講座が巣鴨病院から分離[5]。
1919年(大正8年)11月7日に荏原郡松沢村に移転し、東京府松沢病院になった。敷地面積は6万坪。格病棟は□型をしており、閉鎖病棟の患者も中庭には出られる構造になっている[5]。
1943年(昭和18年)7月の都制開始とともに現在の名称になる。
1949年(昭和24年)、公務員法による国家公務員と地方公務員の兼職禁止により、院長内村祐之(東京大学教授)が退任する。
このような歴史的経緯から、松沢病院は設立当初から日本の精神科医療の中心となり、大きな役割を果してきたことがわかる。
年表
- 1872年(明治5年) - 東京府本郷に「養育院」を設置[1]。
- 1879年(明治12年)7月 - 東京府上野に東京府癲狂院を設立。養育院の収容者のうち精神疾患者を収容[1]。
- 1881年(明治14年)8月 - 東京府本郷区向ヶ丘に移転。
- 1886年(明治19年)6月 - 東京府小石川区巣鴨駕籠町に移転。
- 1889年(明治22年) - 「東京府巣鴨病院」と改称。
- 1901年(明治34年) - 東京帝国大学教授呉秀三が巣鴨病院院長を兼任[6]。
- 1916年(大正5年) - 東京帝国大学精神病理学講座が巣鴨病院から分離[5]。
- 1919年(大正8年)11月7日 - 東京府荏原郡松沢村に移転、「東京府松沢病院」となる。
- 1943年(昭和18年)7月 - 東京都発足とともに現在の名称に改称。
保険指定施設
認定病床数
- 許可病床数 1352床
- 一般病床数 90床
- 精神病床数 1207床
- 精神科保護室 55床
診療科等
認定専門医人数
- 社団法人日本整形外科学会:整形外科専門医 2人
- 社団法人日本放射線学会:放射線科専門医 1人
- 社団法人日本外科学会:外科専門医 2人
- 社団法人日本循環器学会:循環器専門医 2人
- 財団法人日本消化器病学会:消化器病専門医 1人
- 社団法人日本腎臓学会:腎臓専門医 1人
- 有限責任中間法人日本消化器外科学会:消化器外科専門医 1人
- 社団法人日本透析医学会:透析専門医 1人
- 社団法人日本脳神経外科学会:脳神経外科専門医 2人
- 社団法人日本リハビリテーション医学会:リハビリテーション科専門医 1人
- 社団法人日本消化器内視鏡学会:消化器内視鏡専門医 2人
- 有限責任中間法人日本神経学会:神経内科専門医 3人
逸話
精神科病院での死亡率
立津政順は1958年に「戦争中の松沢病院入院患者死亡率」(精神神経科学雑誌、60:596-605,1958)を発表し、特に敗戦の年1945年には東京都立松沢病院に在籍した1,169名(年初在院668名、年間入院501名)中、478名が死亡し、年間在籍患者数にたいする死亡率が40.9%にのぼっていると発表した。
岡田靖雄はその他の病院の死亡率をも検討し、「戦前の精神科病院における死亡率」近代庶民生活史、20,病気・衛生226-240,三一書房,1995. において、死亡率に影響を与える要因として次のことを挙げている。
- 病院経営が安定すると死亡率が減少する。
- 太平洋戦争前は米価が上がると脚気による死亡率が上がると述べている。
それは赤痢、腸チフス、流行性感冒より影響が大であった。
第3に患者の入院費用種目であるが、しかし終戦直後の食料不足による栄養障害が最も重要で,松沢病院では62.3%が栄養障害による,そして1000カロリー以下のことも多かったのではないかとしている。
佐川一政
松沢病院の患者として最も有名なのは、パリ人肉事件の加害者である佐川一政であろう。フランスの精神病院にて精神病と診断され、不起訴処分となって帰国した佐川を患者として受け入れたのが松沢病院である。しかし病院側は、フランスでの診断は誤診であり、佐川は精神病患者でなく人格障害者であり、刑事責任を問うべきと診断した。しかしフランス警察が捜査資料の引き渡しを拒否したため、日本においての起訴はならず、佐川は厄介払いされるように15ヶ月後に退院した[要出典]。
交通アクセス
参考文献
- 長岡和『爆弾精神科医』情報センター出版局、2008年11月5日 第1刷、ISBN 978-4795849426
- 東京大学医学部創立百年記念会編『東京大学医学部百年史』東京大学出版会、1967年
脚注
関連項目
外部リンク
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最終更新 2009年10月19日 (月) 12:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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