東尾修
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1950年5月18日(59歳) |
| 身長 体重 |
177cm 79kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1969年 |
| 最終出場 | 1988年10月27日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督歴
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この表について
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東尾 修(ひがしお おさむ、1950年5月18日 - )は、元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者。愛称は「トンビ」(東尾の音読み)。血液型はO型。長女はプロゴルファーの東尾理子。
1970年代から80年代のパ・リーグを代表する投手。同年代の山田久志、村田兆治、鈴木啓示らと鎬を削り、ファンを沸かせた。引退後は1995年から2001年まで西武ライオンズの監督を務め、7年間でリーグを2度制し、すべてAクラスを死守した。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入りまで
和歌山県有田郡吉備町(現・有田川町)出身。吉備中学校を経て、和歌山県立箕島高等学校卒業。東尾はもともと平安高校へ入学を希望していたが、その評判を聞いた箕島高校の野球部監督の尾藤公が直々に口説き落とし、1968年には甲子園初出場校のエースとして全国ベスト4の成績を残した。後に尾藤は甲子園で春3回、夏1回の優勝という実績を残したが、「この年(1968年)のチームが最強であり、優勝できなかったのは自分自身の経験不足のため」と語っている。
1968年のドラフト会議で、西鉄ライオンズから1位指名を受ける。くじ引きにより西鉄の指名順位が12番目に決まったため、この1位指名は1巡目最後の12番目の指名だった。
ドラフト前には他の球団から何らかの接触があり、中には1位指名を仄めかした球団もあったというが、西鉄からの指名は事前に何の接触も無い唐突なものだった。そのため東尾の両親は「在京・在阪のチームならばとにかく、(一度も訪れたことのない)九州のチームに息子を入れるわけにはいかない」として西鉄への入団に猛反対し、指名を拒否して大学へ進学することを勧めた。東尾自身も西鉄の一方的な指名に腹を立て、一時は法政大学への進学を決めかけていた。しかし、「西鉄もプロのチーム。そのプロが1位指名してくれた」と思い直し、両親を説得して西鉄に入団した。東尾は後に、「1位指名だったからこそ入団した。西鉄は1位指名によって僕のプライドを守ってくれた。1位指名でなければ西鉄に入団しなかった」と語っている[1]。
[編集] 現役時代(1969-1988)
プロ入り後は、リーグの並み居る投手陣のレベルの高さに自信をなくし、一度は首脳陣に野手転向を申し出たこともあるという。ところが、1969年に「黒い霧事件」が発生、エースの池永正明ら主力投手が軒並み永久追放されて投手不足となり、一軍の投手としてフル回転せざるを得なくなる。投手コーチだった河村英文に才能を見込まれ、加藤初と共に連日350球から400球という投げ込みを課せられた。
東尾はロッテの木樽正明、成田文男らの投球フォームを参考に、切れ味鋭いスライダーやシュートを軸にした横の揺さぶりと、打者の内角を突く強気のピッチングスタイルを確立。死球を与えても全く動じない太々しい性格から『ケンカ投法』の異名も取った。なお東尾を指導した河村も、現役時代には内角攻めを得意としていた。そのため与死球数が多く、通算165個という日本記録を持っている。東尾は「僕がプロで生き残るためには、得意な球種を考えるとああいう投球パターンでなければいけなかった」と語っている。
黒い霧事件で戦力が激減した西鉄は、ついに身売りして太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズとチーム名を変更するなど、常に不安定な経済状況に晒された。東尾はその低迷時代をエースとして支えた。1975年には23勝8敗で最多勝。1977年シーズンオフには読売ジャイアンツから獲得の要請があり、球団が「東尾の放出は球団の死を意味し、それは我々が経営の当事者である限りありえない」との声明を発表した。
クラウンライターは1978年限りで堤義明のコクドに売却され、1979年から西武ライオンズとなる。監督の根本陸夫はフロントの要職も兼任し選手のトレードを大量に手がけ、西鉄ライオンズ時代からの西武での生き残りは東尾と大田卓司の2人だけになった。
1982年より広岡達朗が監督に就任。広岡はチームプレーを重視した守りの野球を展開する。同年5月の試合で1塁への東尾のカバーリングが遅れたと感じた広岡はローテーションから外す姿勢を打ち出した。特に1983年には、広岡が東尾の投球に関して試合後に「八百長をやっているのではないか」とコメントしたことがスポーツ紙に報じられたことから東尾が激怒したということもあった。
チームは広岡が就任後の1982年、83年とリーグ優勝、日本一を達成。1985年にも再びリーグ優勝する。東尾はこれら3度の日本シリーズではすべてリリーフに回り、1982年には日本シリーズMVPに輝く。1983年にはリーグMVPと最優秀防御率を獲得している。
1986年には、死球を受けて激昂したリチャード・デービス(近鉄)から試合中に暴行を受け顔面を負傷したが、そのまま続投し勝利投手になっている。このデービスとの一件の後、西武以外のパ・リーグ5球団から東尾の内角攻めや死球の多さに対する批判が集中。「暴力は許せないがデービスには同情する」という声が大勢を占め、中には「喧嘩両成敗で東尾にも何らかの処分を下すべき」「あまり内角攻めがしつこい場合はボークにしろ」などという過激な意見も見られた。阪急ブレーブスの上田利治監督は東尾のデッドボールについて「あれだけコントロールのいいピッチャーなのに、狙って投げているとしか思えない」と語っていたが、これについて東尾は「内角を突いていくのはピッチャーの権利。いちいち謝っていられるか」と返している。しかし近年、テレビ番組で島田紳助に「東尾さんは、狙って投げた球(デッドボール)は何球ぐらい有りますか?」と質問されたときには、「1球もない」と返答した。
1986年の日本シリーズ対広島戦は、史上一度しかない8戦目までもつれた激闘であった。東尾は第1戦に先発し、9回裏1死まで0点に押さえながら、小早川毅彦・山本浩二に連続ホームランを浴び同点とされ、第1戦は引き分ける。この後西武は3連敗し広島に王手をかけられる。東尾は続く5戦目でも9回を投げ、自責点0のまま降板。後を受けた工藤がサヨナラヒットを打って、西武はやっと1勝目をあげる。東尾に勝ち星は付かなかったものの、この1勝が西武の日本シリーズ大逆転劇へとつながる。最終8戦目も先発登板するが、ピッチャー金石に2ラン本塁打を打たれ3回で降板。試合後「もう握力がなくなっていた」と語っている。西武はこの後逆転し優勝を飾るが、当時37歳の東尾はこのシリーズで0勝ながら3試合、21イニングを投げている。この3試合は1分け2勝で、東尾が先発した5戦目で西武が1勝目を挙げ、8戦目で西武の優勝が決まったことを考えると、1986年の日本シリーズの運命を左右する存在であったと言える。
1987年オフに暴力団絡みの麻雀賭博容疑で書類送検された。半年間の出場停止と制裁金1000万円の処分を受ける。記者会見で「メンツにヤクザがいると知っていたら加わらなかった、軽率だった」と謝罪。またこの前年、落合博満と共に日本プロ野球史上初の年俸1億円プレーヤーとなり、87年シーズンの成績から翌年度は年俸の更なる増額が予想されていたが(事件発覚前には1億1000万円の提示を保留)、事件発覚により25%減俸、最終的には年俸7500万円で契約している。
1988年限りで現役を引退。引退後は、テレビ朝日・文化放送・日刊スポーツの野球解説者を歴任した。
現在、シーズン300イニング登板・20敗戦を記録した最後の投手である。これはチーム事情により、実力の不足している若手だった頃にも主戦投手としてシーズンを通して登板せざるを得なかったためである。この時代のチームの低迷が響き、長谷川良平、梶本隆夫に次いで史上3人目となる200勝より先に200敗を記録。また200勝を達成した1984年のシーズン終了時点で通算201勝215敗と大きく負け越していた。しかし、翌1985年、17勝3敗という好成績で14の負け越しを一気に帳消し、その後の3シーズンで33勝29敗と勝ちが先行した結果、引退時には251勝247敗と無事勝ち越しを記録することとなった。なお現在のところ、200勝投手で通算成績が負け越しているのは梶本隆夫のみである。
[編集] 西武ライオンズ監督(1995-2001)
1995年に西武の監督に就任。ドラフトで西口文也・高木浩之・小関竜也などを獲得し、黄金期の主軸を担ったオレステス・デストラーデを復帰させ、現役大リーガーのダリン・ジャクソンも入団させるも、オリックスに5勝21敗と大きく負け越し、1年目の成績は3位に終わった(オリックス戦以外の成績は62勝36敗6分だった)。翌1996年には広島から河田雄祐、中日から清水雅治と前原博之をトレードで獲得し、ドラフトでも高木大成・大友進・原井和也を獲得して戦力を整え、2年ぶりの優勝を目指したが、8月終了時点で借金12(47勝59敗4分=最下位)を経験するなど勝率は5割を割り、この年も3位に終わった。余談だが、西武は平成時代になってから借金13を一度も経験していない(他球団は借金13を経験している)。
1997年、読売ジャイアンツにFA移籍した清原和博の後釜としてドミンゴ・マルティネスを、ドラフトでも谷中真二・和田一浩・玉野宏昌などを獲得。この年、清原の後の4番に据わった鈴木健が奮起、このほか松井稼頭央を始めとする新鋭、また黄金期を支えた新谷博・潮崎哲也・杉山賢人・佐々木誠らベテラン、中日から移籍した金村義明などの活躍で、3年ぶりにリーグ制覇をなしとげた。翌1998年は日本ハムからトレードで西崎幸広を、またオリックスからFAで中嶋聡を獲得するなど戦力を補強、森慎二・デニー友利・竹下潤・橋本武広などの活躍でリーグ2連覇を果たすが、日本シリーズでは横浜に2勝4敗で敗退、この年も日本一となれなかった。1999年、黄金ルーキー松坂大輔の活躍で福岡ダイエーホークスと優勝争いを繰り広げるも2位に甘んじ、リーグ3連覇は成らなかった。翌2000年もダイエーと優勝争いに敗れて2位に終わり、2001年も近鉄バファローズ・ダイエーとの優勝争いに敗れ、この年限りで監督を勇退した。
東尾が監督に就任した当時の西武は、黄金期の主力選手が移籍したり衰えが顕著になるなどして、戦力の低下が著しかったが、東尾は投手陣に関しては松坂大輔・西口文也・石井貴・豊田清の「先発4本柱」や、中継ぎ・抑えの森慎二などを育成し世代交代に成功。また、西武黄金時代にはリリーフだった潮崎哲也を先発に転向させたり、日本ハムファイターズから半ば戦力外の形で移籍してきた西崎幸広を抑えとして再生するなど、ベテランの起用にも手腕を発揮した。戦力になった左投手が主にワンポイントの橋本武広、土肥義弘ぐらいしかいなかったのが弱点であったが、右投手が強力だったためあまり問題にはならなかった。
野手や打撃面に関する采配については必ずしも的確だったとは言えないが、黄金期が終焉を迎え戦力面に関しては過渡期であった中で、世代交代を果たしつつAクラスを常に維持した。また、これらの奇策には、前述のように黄金期の主力野手(石毛宏典や清原和博など)が次々に退団し、俊足巧打で守備力もあるが長打力に欠ける若手選手が多く残されたというチーム事情の中で真剣に勝つことを模索した結果生み出されたものも多い。
その後、テレビ朝日・文化放送・スポーツニッポンの野球解説者に復帰し、現在に至る。また2006年9月から2009年8月まで、バスケットボールのプロリーグbjリーグの東京アパッチの球団社長を務めた。
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ | ブ |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 死 球 |
奪 三 振 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1969 | 西鉄 太平洋 クラウン 西武 |
8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | 15.0 | 16 | 2 | 15 | 11 | 14 | 8.40 | 2.07 |
| 1970 | 40 | 3 | 0 | 0 | 11 | 18 | -- | 173.1 | 183 | 22 | 97 | 94 | 99 | 5.15 | 1.62 | |
| 1971 | 51 | 3 | 0 | 0 | 8 | 16 | -- | 221.1 | 198 | 20 | 133 | 109 | 92 | 3.75 | 1.50 | |
| 1972 | 55 | 13 | 2 | 0 | 18 | 25 | -- | 309.2 | 313 | 37 | 122 | 171 | 126 | 3.66 | 1.40 | |
| 1973 | 48 | 14 | 5 | 2 | 15 | 14 | -- | 257.2 | 250 | 22 | 114 | 104 | 94 | 3.29 | 1.41 | |
| 1974 | 27 | 7 | 1 | 1 | 6 | 9 | 0 | 123.0 | 116 | 12 | 53 | 58 | 47 | 3.44 | 1.37 | |
| 1975 | 54 | 25 | 4 | 1 | 23 | 15 | 7 | 317.2 | 287 | 14 | 70 | 154 | 84 | 2.38 | 1.12 | |
| 1976 | 43 | 15 | 2 | 1 | 13 | 11 | 5 | 243.1 | 256 | 14 | 59 | 93 | 86 | 3.19 | 1.29 | |
| 1977 | 42 | 17 | 1 | 3 | 11 | 20 | 4 | 241.2 | 259 | 30 | 70 | 108 | 104 | 3.87 | 1.36 | |
| 1978 | 45 | 28 | 1 | 1 | 23 | 14 | 1 | 303.1 | 299 | 25 | 69 | 126 | 99 | 2.94 | 1.21 | |
| 1979 | 23 | 10 | 1 | 3 | 6 | 13 | 0 | 155.0 | 181 | 19 | 39 | 61 | 78 | 4.53 | 1.42 | |
| 1980 | 33 | 18 | 1 | 4 | 17 | 13 | 0 | 235.1 | 258 | 28 | 53 | 84 | 99 | 3.79 | 1.32 | |
| 1981 | 27 | 11 | 1 | 2 | 8 | 11 | 0 | 181.0 | 192 | 24 | 58 | 55 | 77 | 3.83 | 1.38 | |
| 1982 | 28 | 11 | 2 | 0 | 10 | 11 | 1 | 183.2 | 179 | 20 | 52 | 59 | 67 | 3.28 | 1.26 | |
| 1983 | 32 | 11 | 3 | 2 | 18 | 9 | 2 | 213.0 | 198 | 14 | 57 | 72 | 69 | 2.92 | 1.20 | |
| 1984 | 32 | 20 | 3 | 3 | 14 | 14 | 0 | 241.1 | 227 | 24 | 61 | 84 | 89 | 3.32 | 1.19 | |
| 1985 | 31 | 11 | 3 | 2 | 17 | 3 | 1 | 174.1 | 164 | 19 | 53 | 74 | 64 | 3.30 | 1.24 | |
| 1986 | 31 | 8 | 0 | 2 | 12 | 11 | 2 | 168.1 | 183 | 29 | 34 | 52 | 79 | 4.22 | 1.29 | |
| 1987 | 28 | 17 | 3 | 6 | 15 | 9 | 0 | 222.2 | 215 | 16 | 35 | 85 | 64 | 2.59 | 1.12 | |
| 1988 | 19 | 5 | 1 | 0 | 6 | 9 | 0 | 105.2 | 121 | 21 | 33 | 30 | 57 | 4.85 | 1.46 | |
| 通算:20年 | 697 | 247 | 34 | 33 | 251 | 247 | 23 | 4086.0 | 4095 | 412 | 1267 | 1684 | 1588 | 3.50 | 1.31 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 西鉄ライオンズ(西鉄)は、1973年に太平洋クラブライオンズ(太平洋)に、1977年にクラウンライターライオンズ(クラウン)に、1979年に西武ライオンズ(西武)に球団名を変更
[編集] タイトル・表彰・記録
- MVP:2回(1983年、1987年)
- 最優秀防御率:1回(1983年)
- 最多勝利:2回(1975年、1983年)
- 最多奪三振:1回(1975年) ※当時はタイトルではない
- ベストナイン:2回(1983年、1985年)
- ゴールデングラブ賞:5回(1983年~1987年)
- 日本シリーズ最高殊勲選手:1回(1982年)
- オールスターゲーム出場:10回(1972年、1973年、1975年、1976年、1978年、1982年、1984年~1987年)
- 通算与死球記録:165(日本記録)
[編集] 監督成績
[編集] 年度別成績
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995年 | 平成7年 | 西武 | 3位 | 130 | 67 | 57 | 6 | .540 | 12.5 | 117 | .246 | 2.98 | 45歳 |
| 1996年 | 平成8年 | 3位 | 130 | 62 | 64 | 4 | .492 | 13 | 141 | .258 | 3.58 | 46歳 | |
| 1997年 | 平成9年 | 1位 | 135 | 76 | 56 | 3 | .576 | - | 110 | .281 | 3.63 | 47歳 | |
| 1998年 | 平成10年 | 1位 | 135 | 70 | 61 | 4 | .534 | - | 115 | .270 | 3.66 | 48歳 | |
| 1999年 | 平成11年 | 2位 | 135 | 75 | 59 | 1 | .560 | 4 | 89 | .258 | 3.58 | 49歳 | |
| 2000年 | 平成12年 | 2位 | 135 | 69 | 61 | 5 | .531 | 2.5 | 97 | .255 | 3.68 | 50歳 | |
| 2001年 | 平成13年 | 3位 | 140 | 73 | 67 | 0 | .521 | 6 | 184 | .256 | 3.88 | 51歳 | |
- 1995年から1996年までは130試合制
- 1997年から2000年までは135試合制
- 2001年から2003年までは140試合制
[編集] 通算成績
- 937試合 489勝425敗23分 勝率.535
(3試合少ないのは、退場処分で3試合出場停止になったため)
[編集] 背番号
- 21 (1969年 - 1988年)
- 78 (1995年 - 2001年)
[編集] エピソード
[編集] 現役時代
- 黒い霧事件により、主力投手が永久追放されたことで、自分に登板のチャンスが巡って来ると感じ、内心喜んだ。東尾は黒い霧事件について「自分の野球人生における最大のチャンス到来、ターニングポイントだった」と語っている[2]。
- 西鉄時代の1970年シーズン最終戦に先発するも、相手打線に打ち込まれ途中降板。試合後、同試合に登板し不甲斐無いピッチングをした河原明、柳田豊らと共に、稲尾和久監督に呼ばれ、三人並ばされて稲尾監督からビンタを喰らうが、東尾だけは殴られた後、稲尾監督を睨み返した。後に稲尾は「コイツは必ず大物になる」と思ったと言う。
- 牽制球の技術には定評があったものの福本豊には滅法相性が悪く、多くの盗塁を許していた。そのため、当の福本に直接癖を教えてもらい、克服する。しかしまたすぐに別の癖を福本に見抜かれた。後にNANDA!?で福本は、東尾の癖を「本塁へ早く投げたい気持ちが左肩に出ていた」と表現した。
- 夜の遊びのほうも、毎晩のように夜の街に繰り出していた。ある日、中洲を女性と一緒に泥酔状態で歩いていたところ、偶然妻に出くわし、そのまま髪の毛を引っ張られ、自宅の浴槽に服を着たまま投げ込まれたという。
- 雨天中止と踏んで登板日前日に同僚の加藤初と深酒したが、当日は快晴。二日酔いの中、省エネ投法で何とか切り抜けたところ「素晴らしい投球術だ」と監督から絶賛されたことがある。
- 『野武士軍団』と呼ばれた西鉄ライオンズの最後の生き残りらしく、豪放かつ実直な性格でチームの兄貴分として慕われた。特に工藤公康とは師弟関係にあったとも言われ、東尾が監督に就任したのは、工藤のFA移籍を止めるためだとまで言われていた(しかし実際には工藤は石毛宏典とともに福岡ダイエーホークスに移籍している)。 監督時代も選手と一緒にTV番組に出演してゲームに興じるなど、良くも悪くも『上司』だった広岡達朗、森祇晶両監督とは正反対の兄貴分・親分的な存在としてチームをまとめていた。
- そのような性格のためか、徹底した管理野球を身上としていた広岡とは現役時代からソリが合わないので、当時から事ある毎に互いを非難し合っていた。現在でも、広岡との対談を持ちかけるのはタブーとされている(なお、東尾と森との間には確執はない)。
- 田淵幸一らと共に広岡監督には反抗し、キャンプ中の飲酒を禁じられた時には、若手選手にビールを買いに行かせ、ビールをやかんに入れて冷蔵庫で冷やし、泡が出ないようにして、湯呑に入れてお茶のふりをして、田淵ら何人かで飲んでいたという。むろん、美味しいわけはないのだが、東尾本人に言わせるとそれが監督への抵抗であり、まずいビールを一緒に飲むことで、選手の間に連帯感が生まれたと語っていた。しかし、『西武ライオンズ30年史』(ベースボール・マガジン社)のインタビューでは東尾・田淵共に「創成期の西武ライオンズにおいて、広岡という監督は必要不可欠なものだった」と語っている。
- 大田卓司とともに、西鉄ライオンズが西武ライオンズになるまでの全てのライオンズ球団に所属した選手である。
[編集] 監督時代
- 東尾退任後の西武は投手力の低下が深刻なことから、現在でも一部のファンからは「東尾を投手コーチに」という声が挙がっている(なお、東尾はコーチの経験はない)。なお、麻雀賭博の不祥事の後、当時近鉄の監督だった仰木彬は、「お前を使えるのはオレぐらいかな。投手コーチとして」と言っていたという(永谷脩の仰木に関する著書より)。
- その一方で野手に関しては、俊足巧打で守備力もある選手は多かったが長打力に欠けるところがあり、特に清原和博の読売ジャイアンツ移籍以降は外国人の出来によってチーム全体の打力が大きく左右されるようになった。また鈴木健、松井稼頭央(スイッチヒッター)、高木大成、小関竜也、大友進、高木浩之など主力が左打者に偏っており、相手先発が左投手の時には特に苦労していた(福岡ダイエーホークスは2001年にすでに外国人投手枠が埋まっていたのにもかかわらず、西武対策として左投手のクリス・ヘイニーを獲得したほどである)。そのこともあって打撃面では以下のような理解に苦しむ采配を取ることが目立ち、ファンからは不満の声も上がっていた。
- 典型的な1番タイプであった松井稼頭央を早くからクリーンアップ、時には4番として起用した。ただし松井は後にトリプルスリーを達成するほどの長打力を身につけた。ツインバズーカ獲得後はトップバッターに復帰。
- 守備・走塁面に大きな難があったものの、二年連続で30本塁打を記録するなどチームの主砲として活躍していたドミンゴ・マルティネスを「日本シリーズで勝つチームを目指すため」として1998年オフに解雇。1997年と1998年の日本シリーズにおいては、DH制のないセ・リーグ本拠地では、他のスタメンのポジションの兼ね合い、マルティネスの守備力、さらに無理なポジションを守らせることで打撃不振に陥り、本末転倒になることを恐れ、マルティネスを起用できない(1997年に一塁手で起用したことはある)ことが影響していずれも日本一を逃がしており、シーズンの優勝のみならず、シリーズに於ける勝利も含めて、打撃力とある程度の機動力、守備力を持った外国人選手を獲得するための解雇であったが、翌1999年はマルティネスの穴を埋めるべく入団したアーキー・シアンフロッコ、グレッグ・ブロッサーらが全く打てずに貧打に陥り、リーグ優勝すら逃す結果に終わってしまった。ちなみに1998年のマルティネスは1人で30本塁打を打っていたが、1999年の外国人野手4人は合計で25本塁打である。
- 1軍ではほとんど実績のなかったルディ・ペンバートンを、1998年の終盤戦に左腕対策としてしばしば4番で起用した。なお、ペンバートン4番の試合では、それまでほぼ全試合で4番か5番を打ってきたマルティネスは6番を打ったり、スタメンから外れることさえあった。
- 相手先発が左投手の時に、先発二塁手に守備に定評があるが打力に難がある原井和也を多用していた。これに関してはファンの不満が特に多く、当時の東尾のホームページで「なぜ原井ばかり起用するのか」とのファンからの質問が掲載されたこともあるが、それに対する東尾の回答は「どうせ誰も打てないから守備のいい原井を使う」であった(詳しくは原井の項を参照)。
- 高木大成、和田一浩、貝塚政秀といった、打撃に定評のある捕手を捕手以外のポジションで起用することも多かった。これは攻撃力不足を補う面ではある程度役に立ったが、彼らがなかなか確固たるポジションを獲得できないことにも繋がり、更には西武黄金時代からの正捕手であった伊東勤の後継者育成が大幅に遅れる一因ともなった。ただし、和田は後に本格的に外野手に転向し、首位打者を獲得するなど選手としての才能が開花。また東尾の後任の伊原春樹も、2002年にはそれまでほとんど1軍経験のなかった捕手の犬伏稔昌を、相手の先発が左投手の時に3番打者に起用するなどして有効に活用していた。
- ただ、東尾政権の1997年に、日本シリーズで野村克也率いるヤクルトスワローズと対戦した際、試合前の君が代斉唱のとき先発投手や捕手が整列していなかったり、野村が主審に抗議に行った時に心無い野次が西武ベンチから飛んだりする光景があり、また、茶髪などの選手がいたことなどに対し、野村は「昔の西武はこんなチームではなかった」「こんなチームに負けていてはいけない」と嘆いていた。
- 試合に負けてもニヤニヤ薄ら笑いを浮かべていることが多々あり、一部ファンから「緊張感がない」「負けているのに笑っているとは何事か」などと叩かれることがしばしばあった。
- 松坂に関してはメジャー移籍後も交友があり、松坂が調子を崩した際、東尾の指導により調子を上向かせた事があり投手の指導力の高さが伺える。
[編集] 解説者として
- 解説者としては、滑舌が悪くしかも口調が独特であることから「1杯引っかけてから解説に来てるんじゃないか」などと揶揄されることもある(一部では居酒屋中継とも呼ばれている)。また毒舌解説でも知られ、同じく毒舌解説者である大下剛史と組んだ中継では緊迫感が倍増するともと言われる。
- しかし、解説の内容そのものは非常に鋭い。2005年の日本シリーズ第1戦にテレビ解説者として招かれた際、ロッテ・西岡剛が走者1塁の場面でプッシュバントを1・2塁間に転がして成功したプレーについて、西岡が打席に入った直後から「さっきから1塁前を気にしていますね」と発言。更に送りバントの構えから1球引いた後の西岡の内野を見渡すような視線の動き(シフトを見ていたといわれる)をモニター越しに確認し「今、西岡が面白い目の動きしましたね。ただのバントではないかも」と語り、その次の1球で起こる奇襲策についてほのめかしていた。
- 他にも、投手を見る眼力についてもかなりのものがあることが、その解説の随所に窺われる。
- 94年のオールスターゲーム第1戦の解説者としてテレビ出演した際には「投手は(同じリーグの)外国人選手と仲良くしておいた方がいいですね、殴られなくて済むから」と発言し、他の解説者から「体験者は語る」と笑いながら突っ込まれていた。更にこの試合に登板した桑田真澄がインタビューを受けている際に「桑田、外人選手と仲良くしておいた方がいいぞ、怒らせないように」とも語っている。
- かつて『ニュースステーション』の放送中に久米宏との会話がはずみ、「気に入らない奴にはわざと当ててやるんですよ」と冗談なのか笑いながら喋った事があった。
[編集] その他
- 北海道日本ハムファイターズ 投手コーチの吉井理人とは、卒業した小学校・中学校・高校が同じであり、実家も近い。その縁から吉井は、日本で所属した近鉄バファローズ・東京ヤクルトスワローズ・オリックスバファローズの各球団で、東尾の現役時代の背番号だった21番をつけていた。
- 広瀬哲朗は著書「プロ野球オレだけが知ってるナイショ話」の中で、広瀬が東尾の球をコツコツとファウルにし続けていると、激昂した東尾がマウンドから降りてきて「小僧、いつまでファウルにしとるんや。早く凡退せえ、コノヤロー!!」と怒鳴られた、というエピソードを紹介している。
- ゴルフがとても上手く日本のゴルフの試合で予選通過の実績があるほどの腕前である。
- 現役時代から歌手・梓みちよと不倫関係にあったと言われている。これは梓の告白会見により明らかになったことだが、東尾はこれについては口を閉ざしている。
- 現役引退してテレビ朝日の野球解説者になった頃、同局のドラマに外科医役として出演したことがある。またゲスト出演した同局のクイズ番組では、真面目な問題にも関わらず放送禁止用語を回答してしまい、答えを書いたフリップにモザイク処理をかけられたことがある。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 著書
- プロ野球ウラ読み勝負―こんな見方もあるぞ!(1989/08・全国朝日放送) ISBN 4881311336
- 私の真実―わが悔いなき野球人生(1989/11・ベースボール・マガジン社) ISBN 4583028040
[編集] 参考文献
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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