松原操
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| 松原 操 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 別名 | ミス・コロムビア |
| 出生 | 1911年3月28日 |
| 学歴 | 東京音楽学校 |
| 出身地 | 北海道小樽市 |
| 死没 | 1984年6月19日(満73歳没) |
| 職業 | 歌手 |
| 活動期間 | 1933年~1948年 |
| レーベル | コロムビア |
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。本名は、1939年の歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)との結婚後に坂本操になっている。
目次 |
[編集] 生涯
1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽市生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業後、1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。
1933年、人気スター・伏見信子と人気子役の高峰秀子が共演した松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が、ポリドールからコロムビアが引き抜いてきた江口夜詩の作曲により、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒット。その後は、『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』などのヒットを連打し、美貌と美声を兼ね備えた流行歌手として人気を博すが、1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため、1年間の療養を余儀なくされる。
1937年(昭和12年)には復帰を果たし、一連のネエ小唄ブームの流れを組む『ふんなのないわ』が本人の思惑とは相反して、カムバック後の最初のヒットとなった。同年7月、NHKの特別番組として、当時の女性歌手が総出演の音楽放送『鶯の競演』に出演。松原操の出演中に番組を中断し、盧溝橋事件の臨時ニュースが流れたのである。デビュー当時から、『流浪の民』などの声楽曲は、本名の松原操でレコードが発売されていたが、日中戦争勃発後、彼女がレコーディングした戦時歌謡も殆どが松原操の名前で発売されている。
松原操として歌った『婦人愛国の歌』『兵隊さんよありがとう』などがヒットする一方で、1938年(昭和13年)、デビュー間もない霧島昇と歌った松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』と『悲しき子守唄』がミス・コロムビアとしての最大のヒット曲となる。映画『愛染かつら』自体が爆発的な人気となり、続編、完結編が製作されると、『愛染夜曲』『朝月夕月』『愛染草紙』『荒野の夜風』と一連の主題歌が合わせて発売され、いずれもヒットしている。映画の中では、田中絹代が歌うシーンの吹き替えを松原操が担当したが、当時はアフレコの技術があまり世間に知られていなかったため、田中自身が歌っていると勘違いをする観客も多かったという。『愛染かつら』はこの後も、劇中で歌った『ドリゴのセレナーデ』が、松原操の名前で改めてレコードが発売され、さらには、霧島昇、渡辺良らと『愛染物語』という短編映画にも出演するほどのブームとなったのである。
『旅の夜風』のヒットで、《愛染コンビ》と呼ばれた霧島昇との共演が多くなり、『一杯のコーヒーから』『愛馬進軍歌』『愛染夜曲』が続けてヒット。ステージや巡業の機会が多くなったことから、3歳年下の霧島昇との関係が親密となっていった。ところが、霧島は当時一躍人気歌手となっていたため、『純情二重奏』で共演した高峰三枝子や、コロムビアの新人歌手・奥山彩子らとの関係がスキャンダルとして取り上げられると、すでに長男を身篭っていた松原操は、正式な結婚を霧島に迫り、1939年(昭和14年)暮れ、作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌によって、人気歌手同士の結婚が成立したのである。
1940年(昭和15年)以降も、「結婚後は人気が落ちる」という通説を覆し、『目ン無い千鳥』『愛馬花嫁』などのヒットを続けるが、内務省からのカタカナ名前の芸名を禁じる指令の対象となり、ミス・コロムビアとしての活動に終止符を打ち、松原操として活躍を続けた。家庭と仕事を両立させ、戦時中も『大空に祈る』『いさおを胸に』などをレコーディング。また、スクリーンにおいても、1939年の松竹映画『純情二重奏』をはじめ、1940年には同じく高峰三枝子が主演した松竹映画『信子』にも音楽教師役として好演した。
終戦後、生来身体が丈夫ではなかったこともあり、1948年(昭和23年)に『三百六十五夜』を夫・霧島昇とレコーディングをしたのを最後に完全に引退。家庭の人として、霧島昇をささえ、育児に専念することとなる。その後、何度もカムバックの話があったものの、歌うことに関しては一切の仕事を断り続けた。1981年(昭和56年)、霧島昇の歌手生活45周年を記念して発売された『妻よ』に松原操として台詞を入れて参加し、30数年ぶりのレコーディングを行ったが、1984年(昭和59年)4月、霧島に先立たれてしまった。入院中であった松原操は、病身を押して、葬儀を執り行い、霧島昇の49日の法要を終えた後、まるで後を追うかのように6月19日胆石病でこの世を去ったのである。
戦後、コロムビアは女性歌手のPRとしてミス・コロムビアの流れを汲む「コロムビア・ローズ」を誕生させ、現在に至るまで、3代のコロムビア・ローズがデビューしている。
霧島・松原夫妻の忘れ形見である長男の坂本紀男と三女の大滝てる子は、現在も父母のヒット曲を歌い継いでいる。
[編集] 代表曲
- 『十九の春』(昭和8年)
- 『並木の雨』(昭和8年)
- 『秋の銀座』(昭和9年)
- 『旅の夜風』(昭和13年)共演:霧島昇
- 『一杯のコーヒーから』(昭和14年)共演:霧島昇
- 『目ン無い千鳥』(昭和15年)共演:霧島昇
- 『愛馬花嫁』(昭和15年)
- 『三百六十五夜』(昭和23年)共演:霧島昇
[編集] テレビ出演
- 『木曜ゴールデンドラマ・花も嵐も踏み越えて 西条八十の愛と歌』(1980年、YTV)

