松平信吉
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松平 信吉(まつだいら のぶよし、天正8年(1580年)-元和6年8月1日(1620年8月28日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の人物。藤井松平家当主で嫡流2代。常陸土浦藩主・上野高崎藩主・丹波篠山藩主。幼名は万千代、後に勘四郎。なお、生年については天正3年(1575年)説もあるが、同年当時に生母・多劫姫は桜井松平忠正(父・忠吉の実兄)の正室であった時期にあたり、辻褄が合わない。
[編集] 系譜
- 実父は桜井松平家の松平忠吉。母は久松俊勝の娘で徳川家康の異父妹にあたる多劫姫。忠吉の長男にあたる。
- 養父は藤井松平信一で正室は信一の娘(養女で阿部定吉の娘とも)。継室は四辻秀継の娘。
- 子は松平忠国(長男)、松平忠晴(次男)、松平忠秋(三男)、松平信治(四男)、松平季治(五男)、娘(秋田俊季正室)。
- 弟に桜井松平家を継いだ松平忠頼がいる。
- 長男・忠国の家系は山城守を世襲し、次男・忠晴の家系は、伊賀守を世襲。このため藤井松平家は2流に分かれる事となった。伊賀守の家系は、老中を多数輩出している。
[編集] 生涯
実父は桜井松平家の当主ではあるが、その実兄である先代・忠正が没し、その遺児松平家広(生母は信吉と同じ多劫姫であるため、異父兄にもあたる)が成人するまでの中継ぎであり、その父も天正10年(1582年)には死亡している。更に母もその後保科正直と再婚しているため、不遇な少年時代を過ごした。ところが、同じ松平氏一族の藤井松平家の松平信一が子供に恵まれなかったために、主君・徳川家康の甥にあたる信吉が養子に迎えられる事になった。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、養父・信一は結城秀康の越前移封に伴ってその支城であった土浦城4万石に封じられ、続いて翌年には江戸崎藩の蘆名盛重が実家の佐竹氏に連座して出羽角館城に移されたために、信吉は養父の名代として江戸崎藩の事後処理にあたった。慶長8年(1603年)には安房守に叙任される。この年に養父が隠居して翌年に家督相続が認められて土浦藩主となる。
土浦城を改築して水戸街道を城下に引き入れるなど領内整備を行いながら、並行して2度の大坂の陣にも嫡男・忠国とともに出陣している。だが、元和3年8月(1617年)に5万石をもって高崎城に転封され、続いて翌々年の元和5年(1619年)10月には更に篠山城に移されて伊豆守に転じる。こうした度重なる転封によって元々病弱であった信吉は体調を崩し、篠山移封の翌年に京都の藩邸にて病死した。戒名、光照院殿雲誉団惣沢大禅定門。墓所は、京都千本称念寺。
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最終更新 2009年11月14日 (土) 02:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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