松平信定
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松平 信定(まつだいら のぶさだ、生年不詳 - 天文7年11月27日(1538年12月18日))は、室町時代・戦国時代の武将。
大久保の三河物語に、松平内前殿。与一(與一)・次郎。法名は道見。松平長親の子。松平長親系の桜井松平家の初代。松平宗家の家督を巡り、兄の松平信忠との対立に始まり、清康・広忠と宗家3代に渡り反意を示したが敗れた。
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[編集] 経歴
[編集] 誕生・碧海郡桜井に分出
桜井松平信定は15世紀の末頃、宗家安城松平家の松平長親の三男として生まれた。一方、長男の信忠は松平宗家の跡目でありながら一族・家臣からの人望に乏しく、松平党は統率を欠いた。このため三男であった信定の家督継承を望む声があったと云われており、また父長親(長忠・道閲入道)からの期待も受けたとも云われる。だが、三男ゆえに信定は叔父・松平親房(松平親忠の四男、入道宗安)の養子に出されたため宗家跡目の候補から外され、叔父の所領・三河国碧海郡桜井(安城市桜井)に桜井城を築き、居城とした。
やがて、長兄の信忠は宗家家督を継ぐも、その暗愚を咎められ一門・家臣等によって短期で隠退させられた。
[編集] 甥に仕えるも、なお宗家跡目を窺う
大永3年(1523年)、代わって松平宗家の家督を継いだ松平清康(長兄・信忠の子で信定には甥にあたる)に仕えることになった。しかし信定は宗家に対して従順といえる姿勢ではなかった。
大永6年(1526年)には尾張の守山城主となった織田氏と縁を結んだ(織田信秀妹を室に迎えたとされ、のち信定の娘を織田信光に嫁がせたともいう)。また清康の指揮のもと、享禄2年(1529年)尾州・品野城攻めに従軍し、のち品野城を与えられる。しかしこの後、信定は織田氏と結び不穏の動きを示すことになる。
清康が外征の矛先を東三河に転じると、享禄3年(1530年)の八名郡宇利城攻略する。だが、この時に、先鋭を務めた次兄の福釜松平左京亮親盛に援軍を送らなかったため、親盛の父子を死なせてしまう。これが清康の逆鱗に触れ、衆目の前で面責を受けた。一説にこれを深く恨んだとも云う。
他にも、清康との不仲が想像される逸話がある。
天文元年(1532年)吉田城を攻めた際、城の西岸・宝飯郡下地において城方と会戦した(『下地合戦』。但し、この下地合戦を享禄2年とする説もあり)。この時、緒戦の戦況の不利に興奮し、敵中への突撃を試みる清康の行動に対して、「大将に討ち死にをさせよ」と誰憚らず発言。敢えて制止しなかったという。しかし、清康に続いた旗本衆の突撃によって運良く敵勢の腰が砕けたため、松平軍は辛くも勝利を得た。
[編集] 宗家押領の失敗と信定の死
天文4年(1535年)には、松平宗家の清康による尾張国への出陣には不参(既に織田氏に通じていたとの見方もある)。すると、その遠征先の尾張国守山において清康が25歳の若さで陣没してしまう(守山崩れと呼ばれる)。
この松平宗家の混乱に乗じて、信定はまたもその家督を巡って清康の遺児・松平広忠と対立。広忠を追放して、その居城岡崎城を占領した。
しかし、翌年には広忠の近臣・阿部大蔵定吉の働きなどにより、東条吉良氏や駿河国の戦国大名今川氏からの支持を相次いで取り付けた流浪の広忠ら主従は、今川軍の後援を得て幡豆郡室城への入城に成功した。
信定は、岡崎を奪回される恐れを案じて、これを攻めるも広忠討伐に失敗。やがて、事態を知った大久保忠俊らの広忠派の譜代家臣が、広忠の岡崎復帰を画策。広忠派の巻き返しに拍車が掛かる。
ついに天文6年(1537年)6月には、岡崎城留守居であった信定の同調者・松平蔵人信孝(三木松平家。信定の甥、清康の弟。)でさえも広忠派に転身。広忠を岡崎城に迎え入れ、その威に服した。
信定は情勢の不利を悟って、やむなく広忠に帰順。宗家簒奪騒動は鎮静化するも、広忠への姿勢は恭順とは程遠い不遜のまま。弟松平義春等とも対立したが、間もなく天文7年11月27日に死去。法号、一心道見。
[編集] 信定没後に孫の家次は宗家に帰順
信定の子松平清定(内膳正・与一)や孫松平家次(監物丞)も広忠・家康と宗家に反意を示したが、家次は永禄7年(1564年)春、三河一向一揆の終息とともに宗家に完全に帰服した。
[編集] 家族
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年8月29日 (土) 17:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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