松本竜助
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| 松本 竜助 | |
|---|---|
| 本名 | 松本 稔 (まつもと みのる) |
| 生年月日 | 1956年4月6日 |
| 没年月日 | 2006年4月1日(満49歳没) |
| 出身地 | |
| 血液型 | AB |
| 身長 | 160cm |
| 方言 | 大阪弁 |
| 最終学歴 | 大阪市立都島工業高等学校卒業 |
| 師匠 | 河内家菊水丸(1998年から) |
| コンビ名 | 紳助竜介(解散) |
| 相方 | 島田紳助 |
| 芸風 | 漫才(ツッコミ) |
| 立ち位置 | 左 |
| 事務所 | 吉本興業 |
| 活動時期 | 1977年 - 1998年(21年間) |
| 同期 | ラサール石井、小堺一機 など |
| 配偶者 | 既婚 |
松本 竜助(まつもと りゅうすけ、本名:松本 稔(まつもと みのる)、1956年4月6日 - 2006年4月1日)は、日本のお笑いタレント。徳島県出身。大阪市立都島工業高等学校卒業。
目次 |
経歴・生涯
芸人修行
大阪市立都島工業高等学校を卒業後、大手食品会社のAGFに就職しサラリーマンとなったが、早々に退社し、旧なんば花月の舞台裏方として芸人修行に入る。
紳助・竜介結成・大ブレイク・解散
1977年、松本竜介の名前で島田紳助と共に漫才コンビ「紳助・竜介」を結成した。紳助が明石家さんまと組もうとして断られ紹介されたのが竜介である。「松本竜介」は西川のりおが命名した。漫才ブームの波に乗り、吉本興業の看板芸人一員として一世を風靡する。しかし、人気絶頂期の1985年に紳助の意向でコンビを解散。解散後、芸名を竜助に改名した。その後吉本を去り、新たな相方と「竜助 ポン太」というコンビを組むが、売れずにほどなくして解消する。
実業家として・そして自己破産
その後、映像制作会社を起業し、タレント活動も続けるが、1996年頃より吉本興業と疎遠になり、1998年に居酒屋、喫茶店、アダルトビデオ製作などの副業失敗で1億3000万円の借金を抱え、自己破産した。
菊水丸へ入門・再起・そして破門
自己破産後、河内家菊水丸に弟子入りして河内家ピンポン丸(高校時代卓球部に在籍していたことが命名の理由)の名で芸能界復帰を図るが、トチリ(無断欠勤)を続けた結果、破門され、その後は『借王』などの映画に端役(セリフはほとんど無し)で出演したものの、芸能活動も休止状態となる。
芸能活動休止・細々と職を転々
晩年は名古屋の風俗レポーター、大阪ミナミの風俗案内所長などの職を転々とし、大阪の歓楽街で話題になっていた。特に風俗案内所の店員の仕事をしていた時はほとんど休みがなかったらしい。その多忙振りが祟り脳内出血で倒れ、後に亡くなった遠因と言われている。また、M-1グランプリの予選では息子と出場したが、敗退した。
急死・最後のお別れ
2006年3月22日、案内所で勤務中に脳内出血(脳幹出血)で倒れ、同年4月1日死去。享年51(満49歳没)。最後の言葉は倒れる前に従業員に言った「頭が痛い」であった。3日後の4月3日、大阪市北区で行われた葬儀・告別式には、かつて所属していた吉本興業の関係者や所属芸人、ファンなど約500人が弔問に訪れた。弔辞は島田洋七が読み上げた。出棺の際、西川のりおは「竜助! これがお前の最後の舞台やぞ! お前のためにいっぱい(弔問に)来てはるで」と絶叫しながら泣き崩れた。霊柩車のクラクションが鳴った際、竜助が眠る棺を担いだ、のりお、オール巨人、洋七、島田洋八、上方よしお、大平サブローが霊柩車の前に整列して「竜助ぇ!」と見送った。
一周忌
2007年4月1日一周忌にあたるこの日、「緊急特番今日は松本竜介の一周忌やねん!」というタイトルの番組がフジテレビで放送された。内容は生い立ち・漫才師として活動していた時代・「オレたちひょうきん族」で脚光を浴びていた頃をVTRで振り返る物だった。
出演していた番組
- 「笑っていいとも!」(テレフォンショッキング・ゲスト、フジテレビ)1982年12月29日初登場。
- 「人形劇三国志」(1983年NHK教育テレビ)
- 「ものまねバトル」(2005年秋頃放送分、日本テレビ系)
著作
- 「ぼくはこうして破産した―首が回らなくなるまでの全軌跡」
- 「うそどりの「志」」
- 「一語一会 ― HOW TO竜助」
関連人物
外部リンク
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最終更新 2009年11月7日 (土) 09:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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