柴栄

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世宗 郭栄
後周
2代皇帝
王朝 後周
在位期間 954年 - 959年
姓・諱 柴栄
諡号 睿武孝文皇帝
廟号 世宗
生年 921年
没年 959年
柴守礼
陵墓 慶陵
年号 顕徳 : 954年 - 959年

柴栄(さいえい)は五代後周の第2代皇帝。五代で随一の名君とされる。

目次

[編集] 即位まで

血縁上の父は柴守札と言い、郭威(太祖)の皇后・柴氏の弟であり、柴栄は柴氏の甥に当たる。柴氏は太祖と同郷の州(けいしゅう)出身で、太祖の即位前より内助の功を発揮し、その覇業を助けたと言う。柴氏は太祖の即位前に死去し、太祖即位後にその死を惜しんで皇后号が追号された。

柴栄は幼い頃より太祖の家で養われ、後晋末に太祖の養子となっていた。太祖が権力を獲得していく戦いの中で柴栄も助力し、太祖が後漢の枢密使・天雄軍節度使となると柴栄も太祖の下で天雄軍牙軍(親衛隊)の総指揮官となり、太祖が後漢に対してクーデターを起こして、開封へと侵攻した際には根拠地である魏州の防衛を任された。太祖が即位して周を建てると州(現在の河北省濮陽県)節度使とされる。

太祖の一族は後漢の第2代皇帝であった隠帝に殺害されていたこともあり、954年に郭威が没すると後継者に指名されて即位することとなった。

[編集] 国内改革

即位後、太祖が死んだ隙を突いて、北漢契丹の援軍を受けて侵攻してきた。両軍は沢州高平(現在の山西省晋城県)で激突、序盤で自軍の一部が北漢に降り窮地に陥る。しかし、世宗自ら矢石を犯して督戦し、将軍趙匡胤の奮戦によって押し返し、北漢軍を撃破、逆に北漢の首都・太原を包囲した。この戦いでは北漢を滅ぼすまでは至らずに退却する。

節度使の地位は、大きな軍事力と領内に対する行政権を兼ねて独立・割拠の傾向が強く、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。また後唐明宗の時に禁軍として侍衛司が整備されていたが、歴代の皇帝がこれを優遇しすぎたために、恩賞が約束されないと戦わない驕兵となっており、再編成のために老兵を止めさせることさえ出来なかった。世宗はこれに対して新たに殿前軍を編成し、節度使の配下から優秀な兵士を引き抜いて殿前軍に組み入れ、その指揮権を皇帝のみが有するようにした。このことにより節度使の弱体化と禁軍の強化=皇帝権力の強化が達成された。

世宗は廃仏令を出し、仏教勢力の力を弱め、法難と仏教側からは非難された。しかしそれまでの廃仏が多かれ少なかれ仏教と対抗する道教側からの示唆・介入があったのに対して、世宗の廃仏は経済上と国家としての統制の問題であり、税逃れや兵役逃れのためにやたらに僧になりたがったり、不当に寺院が財産をため込むことを防ぎ、国家から見て仏教勢力が不当に持っていると見える権益を奪うためのものであった。これらによって増えた税収と没収財産は軍事再編成の費用に当てられた(三武一宗の廃仏の4回目)。

またの私有を禁じる法令を出した。これは当時の貨幣である銅貨を鋳造するためのものであり、当時は貨幣経済の発達と分裂による銅生産地の断絶により、大幅に銅が不足していたからである。また廃仏令の一環として銅製の仏像を没収し、これも銅貨に鋳造しなおした。

さらに太祖以来の方針を受け継ぎ、租税の軽減や農村の復興を行なった。また、大周刑統という国法を定めている。

[編集] 統一事業

これらの蓄積を元に、世宗は滅亡以来の統一を目指して奔走する。955年、初めに四川後蜀を攻めて秦州(現甘粛省天水)を初めとする4州を奪った。

更に同年の冬から十国のうちでの最強国である南唐を攻める。南唐も激しく抵抗し、この戦いは3年にわたるが、958年に南唐の李璟は降伏し、和睦の代償として南唐の長江以北の領土の割譲や、後周に対して南唐は皇帝号を廃して国主と名乗るなどと言った条件を取り決めた。この淮河から長江に至る地域は、中国でも最大のの産地が含まれており、南唐の高い経済力はこの地があればこそと言っても過言ではなく、この地を奪った事はまさしく南唐の生殺与奪権を握ったのと同じ事であった。この地を奪われた南唐ではこの後、自国内の塩の供給をまかなう事が出来ず、逆に後周から毎年30万石(17,800キロリットル)の援助を受けるようになってしまった。

南唐を抑えた世宗は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの2州を奪取した。

更に軍を北上させようと幽州へと入るが、世宗はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。

[編集] 宋へ

世宗の後を継いだのはわずか7歳の息子・柴宗訓であった。しかしすぐに五代の先例に漏れず、軍内の兵士たちによる実力者擁立の動きが出てくる。それが世宗に最も信頼された殿前都点検・趙匡胤である。軍部の推戴を受けた趙匡胤は柴宗訓より禅譲を受け、北宋を建てる。

殺伐とした戦乱の時代である五代十国時代では、禅譲した前皇帝は殺されるのが通例であったが、柴宗訓は手厚く保護され、柴氏は南宋の滅亡まで実に400年の間、勅命により優遇された。

[編集] 子女

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  1. 越王 柴宗誼
  2. (早世のため不詳)
  3. (早世のため不詳)
  4. 梁王 柴宗訓(後周恭帝)
  5. 曹王 柴熙譲
  6. 紀王 柴熙謹
  7. 王 柴熙誨

[編集] 元号

[編集] 参考文献

  • 栗原益男 『乱世の皇帝 後周の世宗とその時代』 桃源社、1979年

[編集] 関連項目

先代:
太祖
後周帝王
第2代:954年 - 959年
次代:
恭帝

最終更新 2009年2月28日 (土) 08:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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