桂小金治

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桂 小金治(かつら こきんじ)は落語家の名跡。当代は2代目。

2代目桂小文治の門弟に与えられる名跡である。

2代目桂 小金治(かつら こきんじ、1926年10月6日 - )は、東京府豊多摩郡杉並町(現東京都杉並区)生まれの落語家俳優タレント。本名、田辺幹男。血液型A型。現在は桂小金治事務所に所属。帝京商業学校(現帝京大学高等学校)卒業。

江戸前の歯切れの良い滑舌で、古き良き時代の江戸落語を聴かせる。また、映画やテレビドラマ、バラエティー番組に数多く出演し、ことにワイドショー番組の名司会者として名を馳せた。

孫の山岸快俳優として活動している。

目次

[編集] 年譜

  • 1926年、東京杉並の魚屋の息子として生まれる。
    • 陸軍少年戦車兵の特別幹部候補生となる。
  • 1945年、終戦。
  • 1947年日本芸術協会副会長・2代目桂小文治に入門し小竹を名乗る。
  • 1949年、二つ目昇進、桂小金治を名のる。
  • 1952年、映画『こんな私じゃなかったに』(松竹大船、監督:川島雄三)に出演し、映画デビュー。好評で松竹大船と専属契約を結び売れっ子となる。
  • 1955年、テレビに進出。
  • 1959年、東京映画(東宝系の映画会社。現在の東映とは無関係)に移籍。
  • 1961年日活に移籍。石原裕次郎高橋英樹と多く共演。
  • 1966年、ワイドショー番組『アフタヌーンショー』(NETテレビ、現・テレビ朝日)の司会を担当(1973年8月3日放送まで。このときのタイトルは「桂小金治アフタヌーンショー」だった)。この番組で「怒りの小金治」の異名をとる。
  • 1975年、バラエティ番組『それは秘密です!!』(NTV・毎週火曜日19時30分~20時00分までの30分番組)の司会を担当。同番組の人気コーナーであった「ご対面コーナー」で、感動のあまりもらい泣きする姿は視聴者の共感を誘い、前述とは打って変わって「泣きの小金治」と呼ばれた。
  • 2006年、テレビドラマ『セーラー服と機関銃』(TBS)に出演(第1回のみ。「目高組」の先代組長役)。

[編集] 人物

  • 著書に『泣いて叱る…ぼくの体当たり教育論』(講談社)などがある。
  • 保守的な政治思想を持つ事でも有名。
  • 「天皇陛下は日本のお父さんだ。天皇陛下が嫌いな奴は日本から出て行け!」と日本テレビのワイドショーで発言したことがある。
  • 「一念発起は誰でもする。努力までならみんなする。そこから一歩抜き出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。この棒に花が咲く」という名言は有名。
  • 自由民主党衆議院議員だった渡辺美智雄と親しかった。
  • 趣味は草笛やハーモニカ。

[編集] 落語家として

元々は、そして現在も落語家である。

[編集] 入門時

陸軍幹部候補生だったが、終戦。金も無く、着物を着て出来る職業ということで落語家を選んだ。

落語家になるために新宿末廣亭の楽屋に通い、誰にも入門できないまま、前座(5代目春風亭柳昇)の下でさらに下働きをしていた。落語家は、前座の弟子を食べさせる義務があるが、食糧事情が悪すぎるため、前座一人分の食糧を捻出できる落語家がほとんどいなかったのである。しかしよく働く小金治の姿に、日本芸術協会副会長・2代目桂小文治が目をつけ、小文治の方から入門をもちかけた。小文治は元々上方落語家であり、常に関西弁のみをしゃべるため(そのため、普通の入門志願者から敬遠され、どこかで挫折した、訳ありの落語家を後から自分の門下にすることが多かった)、入門を躊躇したが、副会長の権勢は傍目にもすごいように見え、入門を決意した。師よりもらった初名(前座名)は桂小竹

小文治は「はなしはよそ行って習うて来い。わしからは芸人としての生き方だけおぼえていったらええのや」といい、小金治にいっさい稽古をつけなかった。小金治は生粋の江戸っ子、それも魚屋の倅である。もし稽古をつけていたらせっかくの江戸らしさが失われていただろう。

[編集] 松竹入社

二つ目になった後、松竹大船撮影所川島雄三監督に抜擢され、一本目の映画『こんな私じゃなかったに』に出演し、拘束時間1日、ギャラ5千円だった。映画は好評で、川島により起用され続け、単発契約で何本か出演した。

それらも好評で、川島の所属する松竹は桂小金治と専属契約を結びたいと考えた。小金治に対して映画出演一本あたりのギャラを提示した。そのとき松竹は片手の指5本を開いて示した。(もともと映画一本のギャラが5千円という約束だったので)小金治は当初これを「5円」と解釈し自分の一月の稼ぎより多いと考えていたら、実は「5円」という意味だった。小金治は驚喜した。ちなみにこの時の条件は「年間6本の出演義務」であった(よって年収30万円)。念のため、師匠の小文治に「契約したほうがいいか断るべきか」を聞きにいったら、桂小文治は即座に「アホ!落語やってたら、そんな金、一生かかってもようもらえんで…」と返されたという。結果、松竹との専属契約は無事締結された。

今度はいずれも軽い役でなく、長い日数拘束される。スケジュール上なかなか寄席に出られないことから、日本芸術協会から事実上脱会状態となった。以降、フリーの落語家となり、落語家としてはどこの協会にも属していない。しかし師弟関係を大事にし、小金治は、終生にわたり小文治を師匠と仰いだ。小金治が名を返そうと小文治の元を訪問すると「アホ! 師匠に『名を返す』なんてお前いつから偉くなったんじゃ? 師匠が名を取り上げるのでもあるまいに… 小金治、これからもしっかりやりや」と、師は小金治に名を返上しなくていいと告げた。そのため、落語家としての名も返上していない。

松竹時代の川島雄三監督は長く小金治を起用し続けた。しかし、1954年に川島が日活に単身移籍し、コンビを解消。だが、その川島が今度は東京映画(東宝系)に移ると、桂小金治も1959年東宝に移籍し、再びコンビを組み活躍。

1961年、今度は小金治が日活に単身移籍し、コンビを解消。その日活ではスターとして迎えられ、1962年から1963年にかけて4本の主演作を残している。他は脇役が多く、その日活には1965年まで在籍。そこの大部屋俳優・桂小かんは(俳優としての)弟子である。

[編集] 師匠

上述したように小金治は落語界では真打になっていない。本来ならば小金治を師匠と呼ぶことはできない。しかしテレビですっかり大看板となった小金治は芸能人仲間からよく「師匠」と呼ばれるようになる。どうしたらいいのか師匠小文治に聞きに行った小金治に対し、師匠小文治は「小金治が師匠と呼ばれて何がおかしいのか…」と諭した。よって、晴れて師匠と呼んで良い許可をもらったのである。

[編集] 高座

小金治が映画界入りしてから上がった高座は次の通り。尚近年演じるネタ「大工調べ」「禁酒番屋」「三方一両損」大ネタでは「芝浜」等を演じる。

以降、17年間完全に沈黙

以降、国立演芸場横浜にぎわい座などを借り切って独演会形式で活動を再開している。また、既設の名人会に呼ばれることもある。

[編集] CD・LP・カセット

1983年の本多寄席の高座はソニーミュージック京須偕充によりLP化(CD化)されている。

  • CD 『桂小金治(一)』ソニーミュージック SICL-92 (CDのカタログ番号)
    • 他に、LP盤、カセットテープがある。
    •  『(二)』以降は無い。

2004年7月19日神田伯龍・桂小金治二人会と2006年5月30日の独演会は以下の通りCD化されている。

  • 『桂小金治名演集1』Curelle Records CURELLE0003-2
    •  『2』以降は無い。

[編集] 末広演芸会

テレビ朝日テレビ番組『末広演芸会』の司会を務めた。落語はしなかったものの、会場の新宿末廣亭には定期的に足を運び続けていたのである。

[編集] エピソード

小金治は「五代目柳家小さんの弟子」と自ら名乗っている。前座だった小金治は、ひょんなことから真打になったばかりの小さんの高座を観た。小金治は「なんとこの人はうまいのだろう」と驚き、小さんから稽古をつけてもらうべく、すぐさま師・小文治に頼んだ。失礼な頼みであるが、上方落語の小文治は、(東京の落語家は東京の落語をやるべきなので)弟子に落語を教えないようにしていたため、弟子が他から正統江戸落語を教わるのは歓迎なのだ。小文治はすぐさま自ら小さん宅に電話をかけ、小金治への稽古を依頼した。若き小さんにとって小金治は「最初に落語を教えた人」である。正式な師弟関係がなくても、小金治が「小さんの弟子」と名乗るのはこのような事情である。

前座の小金治が、いつものように、5代目柳家小さんの自宅に赴き、落語を習っていた。稽古が終わると、戦後まもない食糧事情の悪い頃なのに、小さんはいつも白いご飯を食べさせてくれた。「さすが売れっ子(=小さん)は違うな」などと小金治は思いこんでいた。小金治はある日の稽古後、小さん家を辞した後、忘れ物をしたことに気づき、再度小さんの家に戻った。家族4人で食卓を囲んでいたのが見えた。「さぞかしうまいものを食べているに違いない」と覗き込んだ。小金治は驚いた。小さん一家は、一個の芋を4人で分け合って食べていたのだ。若き小金治が師匠小文治に泣きながらこのことを話すと、小文治は「柳家小三治(小さん)はお前に落語を教えようとしているんじゃない。落語を後世に残そうとしているんだ」と言った(テレビ朝日『徹子の部屋』2003年10月6日放送「小金治 涙・小さん夫妻の銀シャリ」)。

映画のギャラについて諭し、小金治を映画界に転身させた師匠小文治だが、もともとは「銭残す暇があったら噺残せ」と小金治に教えていた。その反面、「金を残しいや。金がないと馬鹿にされるさかいな」という言葉も残している。

次男がニューヨークに住んで居た事もあり、1980年代後半からニューヨークを頻繁に訪問し、現地の日系人会のお年寄りを対象に、「人の心に花一輪」という題名の講演会を行い、ボランティア活動も積極的に行っている。

[編集] テレビ

[編集] ドラマ

[編集] 映画

[編集] 著書

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最終更新 2009年9月11日 (金) 22:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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