桂文楽 (8代目)

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8代目桂文楽(かつら ぶんらく、1892年11月3日 - 1971年12月12日)は江戸落語家。本名並河益義(なみかわ ますよし)。自宅の、住居表示以前の町名から「黒門町(くろもんちょう)」(の師匠)と呼ばれた。

落語における戦後最高の名人のひとりといわれ、2歳年上の5代目古今亭志ん生と併び称された。志ん生の八方破れな芸風とは対照的に、細部まで緻密に作り込み、寸分もゆるがせにしない完璧主義により、当時の贔屓を二分する人気を博した。

ネタの数は多くはなかったが、どれも徹底的に練りこまれており、特に廓噺、幇間もの等における艶やかな語り口は絶品とされる。

目次

[編集] お座敷の帝王

昔は、トップクラスの落語家はお座敷での余興を務めたものである。都内の一流料亭での酒宴に呼ばれて、落語を一席演ずるのである。その客は首相、与党幹部をはじめとする政界、官界、一流会社社長などの財界、そして終戦までは高級軍人であった。高座を終えると、こうした客たちと差し向かいで盃を酌み交わしたりすることもあった。

これらの宴席では、多くの落語家は噺だけでは時間がもたず、踊りや珍芸などもやっていたが、文楽はあくまでも自分は落語だけをやると考えており、落語だけを演じた。

戦前から、東京では6代目春風亭柳橋と並んで仕事の多さを誇っていた。毎晩、数件を掛け持ちして料亭を回るのである。まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」であり、ギャラも飛びぬけて高かった。大学出の新入社員の初任給が2万円、ラーメンが30円、タバコが20円から40円という時代に、文楽のお座敷での一回の高座のギャラが大体2万円であった[1]。1日5~6件回るとすると、現在の価値で日給100万円ほどと思われる。

弟子の柳家小満んは、ある高名な文学者と話した時に師匠である文楽の話題になり「桂文楽をどの寄席でご覧になりましたか」と聞くと、その文学者から「君、文楽(の真価が発揮される場所)は、お座敷ですよ」と逆にたしなめられた。料亭で飲食出来る階層の間では、文楽の最高の芸を満喫出来るのはお座敷に限るという常識があったようである。

また、噺家の川柳会「鹿連会」の師匠であった、川柳家の坊野寿山は、「一緒に遊んで一番楽しいのは文楽だった。座談は上手いし、踊りも見せるし、粋だなと思わせる数少ない噺家だった。」と書いている[2]

[編集] 所属協会

三遊派→京桂派浪花落語反対派→三遊柳連睦会(いわゆる「睦会」)→(落語協会に合同)→落語睦会→ふりい倶楽部→東宝名人会落語協会

落語協会では絶対権力者として君臨し、会長を2回、最高顧問を2回務めた。

[編集] 放送局専属

TBSの開局からの専属であった。TBSが落語家の専属制度を廃するまで(出口一雄の定年退社に伴う。1968年あたりまで)一貫して専属であり続けた。他の専属落語家のように、他局と二重契約を平気で結んだり(5代目志ん生)、NHKだけは出演できる特別契約に変更したり(6代目圓生)せずに、契約を忠実に守りとおした。TBSに対する帰属意識が強く、TBSのことを「ウチの会社」とまで呼んでいた。また、洋装のときは必ず「TBSの社員バッヂ」を胸に着けていた。

[編集] 人物

[編集] 出自

母は並河いく。並河家は武家で、常陸宍戸藩主松平家の家来筋。維新後も当主松平頼安家に奉公していた。

父は旧姓を小原益功といい、幕府将軍徳川慶喜御典医の息子であった。並河家の婿養子となり、維新後は明治新政府の大蔵省キャリア職員となった。その後、税務署長として各地に赴任している。父が青森県五所川原町税務署長を務め、一家で同地に赴任していた時にのちの文楽が出生したため、五所川原町出身となっている。文楽に青森県出身という印象がないのは、以上のような事情による。 一家の子たちは、みな父の名前から「益」の一字をとって命名された。

その後、父・益功は、帰京後に日本に割譲された台湾に単身赴任し、1901年にマラリアにかかって死亡している。 いくは、旗本の次男で警視庁巡査をしていた本多忠勝と再婚。本多が文楽に落語界入りの道筋を開くようになる(後述)。

[編集] 結婚

結婚歴は5回。文楽は、二股、三股、同時並行で複数の相手と付き合っていた時期が長い。例えば、第4の妻と第5の妻とは30年以上にわたり同時進行していた。

3度目の結婚相手は、様々な落語家達と浮名を流した女性だった。一番弟子の7代目橘家圓蔵がその女性の素性を文楽に知らせたが、文楽は逆に圓蔵を疎んじて破門してしまう。そのため圓蔵は芸歴に大きなブランクを作ることになった。

4度目の妻との結婚生活は40年を超える。よって文楽の妻として一般的に知られているのは彼女である。非常に横暴な人で大変な権勢もあり“長屋の淀君”との異名がある。[3]

この第4の妻が亡くなった後、文楽は75歳を越えていたというのに複数の女性との間でいろいろあったようで、それをすべて清算した上で、長く交際してきた女性[4]と正式な夫婦になった。この5度目の最後の妻にはすでに息子を1人産ませていて、正式結婚時には彼は成人していた(#子供の項参照)。

[編集] 子供

当時の正妻(4番目の妻)との間に子供が出来なかったので親戚の男の子を養子にとり、長男とした。しかしその子は太平洋戦争中、国のために、軍需工場で働くことをあえて自分から志願し、満洲国の軍需工場へ出発した。息子には生きていてほしい。文楽は引き留めたが、息子は翻意しなかった。[5]。「お前は桂文楽の子だから(敵軍の)捕虜になると承知しませんよ」と息子に言ったのが親子の最後の会話となった[6]。息子の出発は(後から思えば)終戦直前のことである。戦争は終わった。満洲国は崩壊した。[7]しかしその後も何の音沙汰もない。文楽は息子を探し続けた。マスコミなどあらゆる伝手を頼み、また新聞の引揚者欄やNHKたずね人の時間を欠かさずチェックした。[8]手がかりがないまま戦後20年以上が経ち、文楽は自らの死の直前になって初めて息子が死んだことを認め、供養をして、並河家の墓にその名を刻んだ。

最後の妻との間に実子(息子)がいる。大学を出てケーキパティシエとなり、現在は東京大学赤門近くでケーキ店を経営している[9]。地域ではケーキの名店として知られ、雅子妃が東京大学在学中によく通った事でも知られる(注 世田谷区の同名店とは無関係)。ちなみに、出の様子(コーヒーを客席に運んでくるときの歩く姿)が父・文楽(の高座へ足を運ぶ様子)そっくりで、驚くばかりである。[10]

また、志ん生の生活が困窮していた時代に、志ん生の娘である三味線豊太郎(美空ひばり、村田らのバックミュージシャン。長女美津子の下、馬生・志ん朝の上の女の子)を養女にとることになり、その代償として志ん生には5円が支払われることになった[11]。ところが、志ん生宅から文楽宅へ行く途中の駅で、豊太郎が泣き叫んで頑としてその場を動かなくなり、養子縁組はお流れとなった[12]。彼女は後に三味線豊吉(紅白歌合戦出場歌手、元芸者、歌謡曲三味線の先駆的奏者、とんち教室落第生)に入門し、三味線豊太郎の名をもらうことになる。日本舞踊花柳流名取にもなっている[13]

[編集] 自宅

東京都台東区西黒門町時代劇「伝七捕物帖」の舞台となった江戸の香りあふれる下町である。黒門とは徳川家の菩提寺である寛永寺の本坊表門のことであり(この門そのものは移転と焼失を繰り返している)、この町名は江戸期に一帯が寺の門前町であったことを示している。ちなみに樋口一葉が、生家が最も裕福だった時代(12~16歳)に一家でこの町に在住していた。

この西黒門町に文楽の自宅があった。西を取った「黒門町」(くろもんちょう)という名は、文楽を指し示すもう一つの呼び名ともなった。文楽宅の4~5軒先には、5代目古今亭今輔の自宅もあったが、今輔は町名で呼ばれることはなかった[14]1964年、この町は後に住居表示に伴う町名変更で「東京都台東区上野一丁目」となったが、文楽の呼び名は「黒門町」のまま変わらなかった。

文楽の家は木造二階建てであった。門には、本名フルネームと芸名フルネームの二枚の表札[15]が掛けられていた。

最後の妻(5度目)は、30年間(最初の出会いから40年間)を文楽のために捧げたが、当時の文楽には正妻(4度目の妻)がいた。彼女は愛する文楽と別々に生計を営まなければならず、都内の別のところに住まいをもっていた。

4度目の妻が亡くなった後、自身が正妻となり、黒門町の家で文楽と共に暮らし、文楽の最期の一年を看取った。文楽の死後、未亡人は文楽との間に生まれた息子の待つ元の住まいに戻った。黒門町の家は完全に空き家となり、売却された。現在、文楽の家があったところは空き地になっており、地番としても存在していない。

文楽は落語協会会長だった。後任の圓生は、文楽の死からほどなくして、文楽の弟子である5代目柳家小さんに会長の座を譲った。当時の落語協会は単なる私党ないしは落語家の一派閥と言ってよく、法人化どころか、会長・副会長以外に役職者は存在せず、「会長の自宅」がそのまま落語協会の本部となっていた。小さんは会長に就任するや否や、理事制を敷くなどして機構改革を成し遂げたが、専用の部屋を借りて常設の事務所を構えるということも始めた。小さん会長は、かつて文楽の自宅があったすぐ前(台東区上野一丁目9-5)に部屋を確保した。後に落語協会はその建物全体を入手し、今日の「落語協会」本部となった[16]。小さんの師匠孝行の逸話とも言えるだろう。

講談定席「本牧亭」はこのすぐ近所に移転し、2002年7月に営業再開された(現在の本牧亭)。また、2003年4月に落語協会2階和室で協会自身による落語の定期興行「黒門亭」がスタートした。

[編集] エピソード

[編集] 入門

義父・本多忠勝が、三遊派2代目三遊亭小圓朝と懇意であった。この2人が文楽に初代桂小南を紹介したのである。初代小南は江戸の三遊派に加入し人気絶頂だった。小圓朝と初代小南は独立を画策し、「三遊分派」で途中まで同志だった。途中で小南が裏切り行為をしたため、二人は決裂したというのが真相らしい[17]

文楽は東京時代の初代桂小南の唯一の弟子である。[18]

文楽は内弟子として入門し、浅草にある小南宅に住み込んだ。小南は自身が上方落語家であるため、この新しい弟子に稽古をつけることはなかった。そのため文楽は3代目圓馬を頼ったのである。

[編集] 3代目圓馬からの稽古

3代目圓馬は、ネタ数の多さで有名で、その中には江戸・上方の演目が幅広く含まれる。石川県金沢市の一九亭で、毎日独演会を開き、助演も前座もなしで一日三席、それを一ヶ月間、一つのネタも重複させないで務めたことがあったという(花月亭九里丸『寄席楽屋事典』)。食べ方一つで羊羹の銘柄を描き分け、また豆を食べるのも枝豆そら豆甘納豆それぞれの違いをはっきりと表現し、文楽を驚かせた。

当初稽古に行った時、文楽は「なぜ私にだけ特別にきびしいのだろう、どうしてこんなにいじめるのだろう」とつくづく思ったという。当時の文楽はただ大声で怒鳴っているだけだったので、圓馬は「お前の声は川向こうでしゃべっている声だ。なぜそんな声をだすんだ」とたしなめ、半紙を取り出して登場人物の家の間取りを自ら描き、人物の位置関係を懇切丁寧に説明してくれた。

若き日の文楽はフィラーが多く、それを矯正することもさせられた。圓馬はガラスのおはじきを買って来て、文楽が噺をさらっている時フィラーが一回出るとおはじきを一個文楽に投げつけた。最初は一席話し終えて投げつけられたおはじきを数えると、七十を越えていたという。しかし、こうした稽古を重ねるにつれておはじきの数は減っていき、やがて0になったという。 また文楽は原稿用紙に圓馬のネタをどんどん自筆で書き写して覚えるということを続け、40歳を過ぎてもやっていた。

文楽が東京を去って京都に流れていたころ、圓馬は女の取り合いで4代目橘家圓蔵を殴打し、東京を去ってドサ回りに出た。文楽が東京に戻った時、圓馬は大阪に定住していた。すれ違いになったわけだが、以降、文楽はわざわざ圓馬の住む大阪まで通って稽古を付けて貰っていた。 文楽はかなり圓馬を崇拝しており、「なめろと言われれば師匠のゲロでもなめたでしょう」といったほどである。[19]

圓馬は晩年、中風で倒れ、言葉が不自由になったが、それでも文楽は師匠と仰いでいた。

圓馬が作り上げた「作品」として最も有名なのは文楽と3代目三遊亭金馬の2人。文楽は師匠圓馬から繊細さを、金馬は豪快さを、それぞれ継承したと言われる[20]。他にも6代目圓生も早くから圓馬に習いに来ていた。また5代目志ん生も、自伝によれば圓馬から稽古をつけてもらっていたようである。

[編集] 大阪

前述のように、大阪に足繁く通い、老いた恩師3代目圓馬から稽古をつけてもらっていた。しかし、大阪行きを繰り返していたのは、落語のためだけではなかった。

[編集] 義太夫

黒門町は年甲斐もなく夜も昼も頑張って義太夫の差し稽古に励んだ。その披露をすべく、弟子たちを集めようとするが、まるで乗って来ない。まるで落語の寝床そのものである。しょうがないので「弟子たちの妻」を集めて無理やり聞かせた。まったく元気な老人である。

[編集] 最後の高座

文楽は高座に出る前には必ず演目のおさらいをした。最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していたという[21]

1971年8月31日国立劇場小劇場における第五次落語研究会第42回で三遊亭圓朝作「大仏餅」を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」[22])で同一演目を演じた為、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった[23]

この日の文楽は、全く同じところを二度繰り返してしまうなど、異変が目立った。噺の中途、盲目の乞食が本当の出自を明かす決定的な場面の台詞、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞をまったく思い出せず、高座の上で絶句した。文楽は土下座すると、消え入るような声で、

台詞を忘れてしまいました……

申し訳ありません。もう一度……

……勉強をし直してまいります

と言い残し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。

舞台袖で待ち構えていた出口一雄(第五次落語研究会の裏方でもある)は両手を差しのべて高座から降りた文楽を抱いた。

文楽は言った。「出口君、僕は三代目になっちゃったよ
文楽は冷静なままであったが、出口はその場で大粒の涙をこぼして泣いた。

  • この三代目とは柳家小さんのことである[24]。明治の名人、3代目柳家小さんは、その末期に重度の認知症になり、高座で演じている最中に別の噺と混ぜこぜになる、噺の同じところをぐるぐると回り進行しないなど、全盛期とはあまりにかけ離れた悲惨な状態を見せていた。[25]

以降のすべてのスケジュールはキャンセルされた。公式の引退宣言はなかったものの、二度と高座に上がる事はなく、稽古すらしなくなった。やがて肝硬変で病院に入院し、血を吐いて苦しみながら死んだ。

これが今でも伝説として残る、文楽の落語家としての壮絶な幕切れである。[26]

文楽の後を継ぎ、落語協会会長となった6代目三遊亭圓生は、文楽が亡くなった数年後、東京落語会で『鼠穴』をかけた。

「ェェ江戸の名物と申しますと」冒頭、そこまで言って高座の圓生は絶句してしまった。

「江戸の名物… へへへへ… 江戸の名物……。何でしたっけ?」にっこり笑って客に問いかけた。「どうもいけませんねえ。老化現象という……。まことにはや情けない」客席から笑いが漏れた。完璧主義者として知られた圓生にとってはなはだ珍しいトチリである。

時間が経つと、思い出したように身を正し、言いたてた。「江戸の名物と申しますと、武士、鰹、大名小路、生鰯 - 茶屋紫に、火消、錦絵、- 火事に、喧嘩に、中っ腹…」いつも通り完璧に言い立て、客席も含めてほっとしたところで、満座の誰も予想していなかった悪魔の一言を圓生は発した。

あたくしもおいおいに桂文楽になる[27]

[編集] 来歴

[編集] 年譜

  • 1892年11月3日青森県五所川原町にて出生。
  • 1894年 父が東京に転任し、東京に戻る。
  • 1899年 地元の根岸尋常小学校に入学。
  • 1901年 父が任地の台湾で病死する。
  • 1902年 家計が苦しくなり、小学校は三年で中退(文楽の唯一の学歴)。横浜の問屋に丁稚奉公に出る。
  • 1906年 奉公先から夜逃げする。道楽のかたわら仕事を点々とする。
  • 1908年:落語家になる。東京浅草に定住し三遊派のスターだった初代桂小南に入門。住み込みの内弟子となる。桂小莚(かつら・こえん)と名乗る。若手勉強会『胆力養成会』では「道灌小僧」の異名をとっている。
  • 他の弟子と連れだって近所(黒門町、後に浅草に転居)に住む3代目三遊亭圓馬宅に行き、スパルタ式の稽古を付けてもらう。
  • 1910年:ある日、小南と圓馬から厳しく叱られたあと、二ツ目昇進を告げられる。入門から僅か2年のスピード出世である。叱ったのは本人を天狗にしないための芝居だった。
  • 1911年 小南が三遊分派を起こすが失敗し東京を去ったため、師匠を失う。三遊分派の同志の一人が紹介状を書いてくれ、名古屋へ移住することを勧めた。
  • 三遊分派の別の同志・3代目小金井芦洲の一座に混ぜてもらい、ドサ回り。しかし座頭の芦州自身が逃亡し、一座は消滅。単身名古屋に転居し、当地の寄席に上がる。
  • 名古屋在住の三遊亭圓都のドサ周り一座に混ぜてもらい、巡業の間だけ三遊亭小圓都を名乗る。
  • 1912年明治天皇崩御。歌舞音曲停止の為、巡業続行不可能と判断し、圓都一座は解散(圓都は後に廃業し道具屋となる)。名を桂小莚に戻す。一旦帰京する。
  • 京都に行き、当地の寄席笑福亭に住み込む。初代桂枝太郎らと共に「京桂派」結成メンバーとなる。1年滞在。毬の名手、春本助治郎と知り合う。
  • 大阪に行き、浪花落語反対派に加入。1年滞在。反対派紅梅亭のお茶子と結婚。当地に在住していた8代目桂文治(根岸の文治)と知り合う。
  • 神戸に落ち延びる。落語家として1年滞在。
  • 上方セミプロ芸人桂門三郎の一座に入り、当時の満洲をドサ回り。
  • 1916年:東京に戻る。嘗て大阪で知りあった、8代目桂文治(根岸の文治。当時翁家さん馬)門下に移り、翁家さん生を襲名。
  • 文治より、真打昇進し、翁家馬之助襲名するように命じられたが、本人は一旦断った。
  • 文治は、三遊柳連睦会(いわゆる「睦会」)に行く約束を翻して東京寄席演芸会社に所属。文楽はそれに帯同せず、睦会に行く。
  • 1917年9月:睦会で真打昇進、翁家馬之助襲名。披露口上で、睦会会長5代目柳亭左楽は、文楽は事情あって師匠文治と離れ離れになっています、と紹介。形式的には文治門下で在り続けながら、事実上、5代目左楽門下へ移る。以後、生涯に渡り5代目左楽の弟子となり、主に人間学・対人面の技術・人心掌握術を学ぶ。また、睦の四天王の一角を占める人気落語家になる。
  • 1918年:2度目の結婚をする。相手は旅館「丸勘」の後家。婿養子になる。姓を「鵜飼」に改める。
  • 1920年5月6日桂文楽襲名。その際、現存の5代目桂文楽を強引に他の名(桂やまと)に改名させ(後の3代目桂才賀)、世間から激しい非難を浴びる。新しい文楽は実際には6代目だが、末広がりで縁起がいいからと、6も7も飛ばして、8代目を名乗る。
  • 1920年:初めての弟子(三遊亭銀馬)をとる。
  • 1923年7代目橘家圓蔵が入門。
  • 1923年関東大震災。旅館も立ち行かなくなる。妻を捨てて北海道に巡業に行き(旅費は最初の妻が出した)、そのまま離婚。姓を元に戻す。
  • 三遊柳連睦会(いわゆる「睦会」)が一旦消滅し、落語協会に一本化されるも、旧睦会グループは離脱し、「落語睦会」として再建される。
  • 1924年:3度目の結婚。
  • 1925年:離婚。
  • 1925年:4度目の結婚。結婚式を挙げる(芸人で結婚式を行った初めての例という)。
  • 1937年11月13日:落語睦会が解散する。(以降、5代目柳亭左楽と別行動をとる)
  • 自身で新団体「ふりい倶楽部」を結成。
  • 春本助治郎と共に東宝名人会に参加。
  • 1938年 東京落語協会(現落語協会)に加入。
  • 1945年 3代目三遊亭圓馬死す。
  • 1950年:皇族(秩父宮雍仁親王)の邸宅に招かれて落語を披露。この時は「素人鰻」を演ずる。弟子の5代目柳家小さんを帯同。この後何回も秩父宮邸に招かれる。
  • 1953年:師匠5代目左楽死去。
  • 1953年:出口一雄に請われ、TBSと専属契約。
  • 1954年芸術祭賞受賞(落語家で初めての受賞。演目は「素人鰻」)。
  • 1955年落語協会3代目会長就任。(前任は元師匠8代目桂文治)。
  • 1957年:落語協会会長職勇退(後任は5代目古今亭志ん生)、最高顧問就任。
  • 1957年:芸談『あばらかべっそん』出版。
  • 1961年:志ん生、脳溢血に倒れる。この年、文楽は入れ歯を入れたため、以降は声が悪くなったと言われる。
  • 1963年:体調が万全でない志ん生に代わり落語協会会長に再度就任。
  • 1965年:落語協会会長職勇退(後任は6代目三遊亭圓生)、最高顧問に再度就任。
  • 1969年:第4の妻と死別。
  • 1970年11月10日:第5の妻と夫婦としての同居生活を始める
  • 1971年3月3日:第5の妻と入籍。披露宴は5月10日
  • 1971年8月31日、第五次落語研究会において劇的な#最後の高座
  • 東京・駿河台日本大学病院に入院。
  • 1971年12月12日午前9時18分:駿河台日本大学病院において死去。死因は肝硬変享年79。
  • 戒名:桂春院文楽益義居士

[編集] 受賞


[編集] 定紋

三ツ割桔梗

[編集] 出囃子

近松半二作の人形浄瑠璃(後に歌舞伎化)「野崎村」の段(新版歌祭文 上巻)の大詰め幕切れ直前、お染が舟に、久松が籠に乗り、ともに野崎村を去るという場面がある。この場面の派手な三味線二重奏(連れ弾き)が、黒門町の出囃子である。「野崎」と呼ばれる(「曳舟」、「野崎の送り」とも)。

元々上方噺家2代目桂春団治が使用している出囃子である。黒門町との関係は桂春団治の項を参照。

※ 2代目桂小南9代目桂文治(留さん)は、共にその名を文楽からもらった。そして出囃子も同じものを使っている。#芸名の差配を参照。

[編集] 主な持ちネタ

師匠三代圓馬は持ちネタが異常に多かったが、文楽はごく少数の演目のみを習得し、演じた。落語家は持ちネタ数を競いたがるものだが、珍しいスタンスである。ごく限られた演目を極限まで練り上げた文楽らしい姿勢と言える。

  • 文楽のネタの主題は「幇間」「若旦那」「盲人」の三つに大別されるとされる[28] 文楽のネタは、古典落語の中でも、柳家の落とし噺(滑稽噺)とも三遊派(圓朝)の人情噺ともかなり色合いが違う。しいて言えば「若旦那」「幇間」に代表される、ある風情を映し出すものである。それはある特定の時期に特定の場所でのみ現れた。良質の江戸文化そのものである(昭和に入って、それらは壊滅した。それは「八代目文楽の落語」の中にだけ生き続けたのかも知れない)。聞き手は、彼らが登場する世界、つまりは江戸文化に親しんでいないと(あるいは理解しようとしていないと)真の意味で楽しむことはできない(そのような高級江戸文化に親しんでいた層(東京の文化人、料亭(花柳界)で遊んでいる政界・財界人…)からの評価が特に高かった理由である)。
    • 盲人を主題とする噺のなかで、特に「心眼」は彼以外に演じ手が無かった。他に絶品の「景清」。「大仏餅」「按摩の炬燵」など。
  • 「若旦那」噺の代表である明烏は絶品であった。噺の中に登場人物が甘納豆を食べる場面があり、その芸の巧みさに客が釣りこまれて甘納豆を食べたくなるほどと言われる。文楽がこれを寄席で高座にかけると、寄席売店でお菓子として売られていた甘納豆が売り切れたという逸話がある。
  • 愛宕山(幇間の噺)、船徳(若旦那の噺)などの評価が特に高いが、この2作は、派手なアクションが売り物である。しかしこの噺は体力を消耗するため、「愛宕山」を演じ終えた文楽は息絶え絶えになりながら小一時間身を横たえて休息しなければならなかったという。文楽を贔屓にしていたある医者は、見かねて「愛宕山」を演ずることを禁じたが、文楽はそれをきかなかった。
  • 文楽の噺の多くに、演者が泣く、あるいは泣く真似をするシーンが現れる。川戸貞吉はこれを指して「泣きの文楽」と命名した。
    • 文楽の芸の一つの特徴に、どの実演であっても、まったく同じセリフを同じ抑揚で同じ時間配分で演ずるというものがある。あたかも機械で再生するかのようである(志ん生と正反対である)。それが名人の名人たる所以である。しかし、「泣き」を本気でやってしまうので、終演後、聞き手の心には「熱演」の印象のみが残るわけである。
  • 非常に限られた演目だけを習得し、研ぎ澄ませていくという態度は、同じ職人気質といえども、後輩の三遊亭圓生 (6代目)と正反対である。圓生も三代圓馬から落語を教わったいわば“同門”である。圓生はソニーミュージックの『圓生百席』に現れているように、3桁に及ぶ膨大な数のネタを持っていた。文楽と圓生との間ではこの問題については一歩も譲らず、互いに、「あの人には十八番というものがない。あたしのネタはすべて十八番」と批判し合っていた。

[編集] 残された作品

[編集] DVD

第五次落語研究会で収録された映像が主催のTBSに残っている。TBSと黒門町との関係は別稿参照。2009年3月27日にDVDとして発売される。

吉田首相との会談も含めて、貴重な映像が揃う。 黒門町の実演は、後述のように派手なアクションがあるものがあり、(当然ながら)それはCD等では伝わらないものである。

[編集] CD

CD・レコードともに多くの会社に吹き込み、発売されている。特にどこかの会社の専属ということではなかったようである。その集大成といえるのが『八代目桂文楽 落語全集』(小学館、CDブック)であるが、黒門町の芸の特徴として、どの実演においても平均以上の出来を見せるので、どのCDであっても推薦できる。[31]

若き日に、SP盤がまだマイクを使用する電気録音でなかったころ(ラッパで集音する旧式吹き込み) の時代に吹き込んだことがある。(ラッパ式の録音は、楽器にしろ歌唱にしろ小さな音しか出ないものをどのようにして大きな音を出させてそれを集音するかに 苦心したものだが)、当時の若き黒門町ははあまりにも声が大きすぎて、蓄音機の針が振りきれ、なんと溝を飛び出し、録音に失敗し、製品にならなかったという話が残っている。

[編集] 映画

  • 東宝映画「羽織の大将」、1960年、主演はフランキー堺、共演・柳家金語楼安藤鶴夫桂小金治3代目三遊亭圓歌9代目桂文楽 、監督・千葉泰樹
    • 新入落語家フランキー堺の大師匠役を演ずる。座談で「実にどうも、べけんやべけんや(笑)」といった一連の文楽節をフルに披露。安藤鶴夫を前にして落語まで演ずる。この映画をきっかけにして主演のフランキー堺を落語の本当の弟子にした。しかし、ある事情から、この映画は将来的にもDVD化されない。

[編集] 書籍

[編集] 本人著

[編集] 芸談
  • 『あばらかべっそん』
    • ちくま文庫、旺文社文庫、『日本の芸談』第8巻(九芸出版)、『日本人の自伝』第21巻(平凡社)
    • 聞き手は正岡容
  • 暉峻康隆『落語藝談』小学館ライブラリー(三省堂新書版では上巻)

[編集] 口演集
  • 『桂文楽全集』 上・下巻   立風書房
  • 『古典落語 文楽集』 ちくま文庫
  • 『八代目桂文楽落語全集』 小学館(CDブック)

[編集] 他人による評論

1968年4月に早稲田大学入学を控えた山本益博は、たまたま第五次落語研究会第一回(1968年3月14日、国立劇場小劇場)に入場し、初めて文楽の落語を体験した。感動に打ち震えた山本は、その後大学生活4年をかけて、黒門町の追っかけを始める。卒業論文のテーマも黒門町。その論文はあまりの出来の良さに、そのまま商業出版されることになった(『桂文楽の世界』)。若手演芸評論家・グルメ評論家としてのデビューである。

[編集] 芸の継承

[編集] 弟子

[編集] 講談師

[編集] 落語の弟子

[編集] 職業落語家

文楽は弟子を育てるのは下手だという評がある(川戸『落語雑記帳』)。その点は師匠5代目柳亭左楽とは大いに異なる。本当に手塩にかけて育てた弟子は、6代目三升家小勝と5代目柳家小さんの2人だけであったともいう。

[編集] 一門に関するエピソード
  • 本来の一番弟子は三遊亭銀馬。しかしすぐに2代目三遊亭金馬一門に移った。
  • 早い時期の弟子として7代目橘家圓蔵がいる。しかし7代目圓蔵は一度破門されている(弟子として復帰するまで約20年のブランクを要した)。その理由は2つある。
    • 1つは圓蔵が師匠文楽の金を日常的にくすねていた事。これは従来明らかにされていた[32]
    • もう一つの理由は、上述されているように文楽の3度目の妻について落語家内で広まっていた悪い評判を文楽に伝えたことだった。圓蔵は師匠の為を思ってしたことであったが、文楽はこれで圓蔵を完全に切り捨ててしまったのだ。
  • 9代目桂文楽までの弟子は、師匠と別の独自の芸風を作り上げた為、8代目とあまり似ていない。
  • 文楽死後17日後、小勝も早世した。小勝は素質に恵まれていた為、大変に惜しまれた。一門総領弟子は圓蔵となり、他の弟子達の多くは橘家門下となった(同じく文楽一門の小さん一門に入った者もいる)。
  • 3代目桂三木助日本芸術協会(現落語芸術協会)脱退後、落語協会に加入する際に、協会前会長文楽の形式的な門下となった(いわゆる「身内となった」「内輪になった」)。
  • 志ん生が満洲国に巡業に行く為、留守中、当時ついていた2人の前座をそれぞれ他の師匠に預けた。文楽に預けられたのは初代金原亭馬の助(お笑いタッグマッチ)である。志ん生帰国まで、文楽の弟子として修行した。
  • 嘗て初代桂小南門下で弟弟子だった8代目金原亭馬生(ゲロ万)は、二つ目時代のごく短期間、文楽の門下に入った。文楽が彼に与えた名が初代桂文生。この人は師をくるくると変える人で、他門に移籍した後に真打となった。
  • 孫弟子に林家三平8代目橘家圓蔵の両爆笑王がいる。5代目小さんの弟子は言うまでもなく多数ある。
  • 孫弟子である8代目橘家圓蔵は、前座時代に文楽の住み込み内弟子を務めた。[33]。ここで8代目圓蔵は、文楽宅の女中と出会い、結婚した(「ウチのセツコが…」の節子夫人)。

[編集] 5代目柳家小さん
  • 5代目柳家小さん(人間国宝)は「小さん」襲名前、自らの「小三治への改名・真打披露」興行中に師匠4代目柳家小さんを亡くし、文楽の預かり弟子となった。
  • 5代小さんはもともと軍人で、剣道が趣味という堅物である。元の師匠である4代小さんも、話芸は逸品であったがヨイショのできない性格で、大いに損をした。文楽は、弟子となった小さんを皇族邸をはじめ、いろいろな場に帯同し連れ歩き、社交性と人付き合い、そしてお酒を実地で教え、愛嬌を身に着けさせた。滑稽噺をレパートリーとする本人(および柳家)にとって、愛嬌はなくてはならないものである。
  • 5代小さん夫妻の、黒門町への献身ぶりは見ていて痛々しいほどであった。妻などは、毎日黒門町の自宅に来て、召使いのように文楽夫人(おそらく4番目の妻)に仕えていた。(海老名香葉子『おかみさん』より)
  • 文楽は強引な政治力で小さんに「5代目柳家小さん」を襲名させたのだった。
  • 小さんの襲名まもなくやっかみや陰口が集中した。中にはこの人だけはと信頼していた者もいた。苦渋を訴える小さんに文楽は「あたしが文楽を継ぐ時、師匠の左楽もどのくらい敵をつくりましたか。」と励ました。
    • 8代文楽の襲名は、当時現存していた桂文楽 (5代目)を強引に他の名跡に変えるという強引なものであり、それを決めた師の5代目左楽ともども、批判されたという経緯があった。
  • 5代目小さんは、小さん襲名直前は非常に貧しかった。そのため、小さん襲名に必要な金は、なんとそのほぼ全てを文楽が支出した。それは文楽の全財産に等しいものであったという。小さん襲名披露の前日夜、文楽の妻(第4の妻と思われるが詳細不明)はこの全財産を持って姿を晦ましたが、翌日になるまでに発見出来たので事なきを得たという。
  • 小さん襲名披露興行では、師弟で京都新京極・富貴に出た。小さんの披露だから小さんが主任でなければならない。ところが席亭は文楽を主任にして、小さんをかなり浅い席に入れるのであった。文楽は強く掛け合ったが、席亭を翻意させられない。文楽は弟子小さんに「こんな商売をやっているところと金輪際付き合うつもりはない。辛いだろうが我慢して席を務めておくれ」と親身に慰めた。
  • 落語協会会長になっていた5代小さんは、関係者(8代文楽本人、その弟子の6代小勝・7代圓蔵ら)が死んだ後、8代文楽の弟子のうち生存者で最高位の桂小益に9代目桂文楽を襲名させることを決めた。
  • この襲名は、落語ファン等から批判を浴びせられ、NHKテレビでも批判的な内容の放送がなされた。自信を失った小益は、襲名取り消し・名跡返上を落語協会会長になっていた小さんに申し出た。しかし小さんは、自身の名跡襲名の際に先代に励まされた話をし、名跡返上を叛意させた。

[編集] 素人弟子
  • 映画「羽織の大将」で共演した、フランキー堺を弟子とした。フランキーが文楽宅まで挨拶に来たが、そこで「明日から弟子として通ってきなさい」という話になったのだという。映画完成後、文楽はフランキーに桂文昇(上方落語の同名跡とは別系譜)という落語家名を与えた(『桂文楽全集』下巻 付録)。フランキーは落語の独演会を主催し、高座を務めた。フランキーは他の映画でも落語家役を演じ、あるいは落語に深く関わりのある作品(幕末太陽傳)に主演している。
  • 他にもアマチュア落語家の弟子がいた。その一人、桂文鶴は大手ゼネコンの建築士だった。その文鶴が母校、私立芝中学校・高等学校に行った時、一人の中学生を紹介された。その少年は落語に興味を示し、週一回文鶴宅に通って稽古をつけてもらうことになった。少年は師から桂文芝という名をもらった。つまり桂文芝は文楽の孫弟子に当たる。桂文芝の本名は篠山紀信という。[34]

[編集] 色物

[編集] 芸名の差配

襲名に関与する事により、他門の落語家にも恩を与えていった。

  • 6代目三遊亭圓生が持つ名跡と自分が持つ名跡を交換しようとし、結果として本来の一番弟子7代目橘家圓蔵という大名跡を襲名させる事が出来た。しかしアクシデントにより、文楽が持っていた「桂小南」は圓生によって使われる事はなかった。
  • その為、「桂小南」という名跡は完全に空き名跡となった。この名を襲名する前の2代目桂小南は、真打昇進時に他の名(「三遊亭右女助」)を継ぎたかった。文楽の弟子小勝がかつて「桂右女助」を名乗っていた。そのため文楽がこの名跡を管理していると考えられていた。小南は文楽のもとを訪れて“三遊亭右女助の名を頂く訳には参りませんでしょうか”と切り出すと“右女助?お前なら小南をやるよ”と言われて師弟共々驚きかつ喜んだという。しかしこれはアクシデントによるもので、圓蔵と2代目三遊亭百生の絡んだ複雑な事情が横たわっている。詳しくは『聞書き七代目橘家円蔵』参照。
  • 3代目桂米朝は大名跡4代目桂三木助を襲名することになった。米朝は東京の文楽に直に会い、協力を申し入れた。文楽は「襲名興行は(松竹直営の大劇場)大阪・中座にしよう」と提案した。米朝側はその一言を以下のように解釈した。米朝に対して千土地興行から松竹芸能へ移籍しろと命じているのだと。朝日放送(米朝が専属であった放送局)ディレクターの某が暗躍し、松竹が米朝を引き抜くために、文楽にこの一言を言わせたのだという観測もある。結果として襲名話はそこで立ち消えになった。以後この名跡は永久に大阪に戻らない(「桂文枝一門が管理」というのは全く根拠のないデマである。4代目桂三木助は3代目三木助の息子が継いだ。3代目の孫もまた東京の落語家であり(桂三木男)、次代も東京の落語家により継承される。)
  • 桂文治の名跡は桂派家元の大名跡だが、東西を行ったり来たりしていた。8代目文治は文楽の嘗ての師匠で、落語協会会長であった。8代目文治没後、8代目文治の元弟子で、8代目文治の前名9代目翁家さん馬がいた。彼に9代目文治を襲名させた。名跡が上方に流出することを防ぐ為である。経歴的には最善の選択のように思えるが、彼は本格的古典派でなく、落語家としての実力も劣っていた(下手というレッテルを生涯拭えなかった)ので、本来は襲名させられないポジションである。そのため、襲名後ですら重く用いられる事はなかった。本人も幾つかの理由で襲名を嫌がったが、結局文楽の押しで襲名を実現させ、東京にこの名跡を残した。
    • 8代目…落語協会会長。根岸の文治
    • 9代目…稲荷町在住(彦六と同じ長屋)。通称留さん文治。十八番は「さん」「オペラの穴」。ロセンの大きい文治

[編集] 寄席文字

  • 押しかけ弟子(橘左近)を持った橘右近に、「寄席文字」の流派を作ってその家元になったらどうかと提案した。右近は文楽の了承のもと、「橘流」を創始した。これにより、嘗て無かった寄席文字の一門が確立できただけでなく、従来「ビラ字」とのみ言われていた寄席文字の地位が飛躍的に上昇した。

[編集] 他の芸人とのエピソード

[編集] 春本助治郎

毬の名手、春本助治郎は京都時代からの旧友で、東宝名人会に共に加入したりもした。春本が、鈴本演芸場の鈴木孝一郎席亭の末娘英子と結婚する話が持ち上がった時に、鈴木家は春本の豊富すぎる女性体験に難色を示した。文楽は単身鈴木家に乗り込み、「助治郎は今は真面目です」と援護したが、鈴木家は「春本に頼まれたな」とすぐに見破ったという。のちの講談定席本牧亭の創業者・席亭・石井英子である(石井は春本の本名の姓)。(『本牧亭の灯は消えず』)

[編集] 鶴本の志ん生

ある女が、文楽と鶴本の志ん生(4代目古今亭志ん生)の両方と付き合っていたことがある。鶴本の方が先に気づき、3者での会合をセッティングしてきた。女は志ん生の存在を知らせずにおいたので、文楽は待ち合わせ場所に来てみて驚いた。志ん生は金での解決を提案し、文楽は先輩には逆らえずに泣く泣くその条件をのみ、女をとられたという。文楽はこの悔しさを忘れずに高座の上で再現させるように精進した。 (このエピソードはイラスト付きで当時の『講談倶楽部』誌に掲載された)

[編集] 5代目古今亭志ん生

5代目古今亭志ん生は名実ともに「びんぼう自慢」で、60歳近くまで借金取りから逃げ回る悲惨な生活を送っていた。ライバルの文楽をも当てにして、「文楽から借金する」という名目で多くの金を引き出している(前述のように娘まで売り飛ばそうとしたくらいである)。いちおう質種を持っては来るが、どれも出所不明の怪しげな骨董品ばかりだった。まともな値では転売できそうもないシロモノばかりで、見る見るうちに文楽の自宅は志ん生の骨董品で埋まってしまう。文楽の家を訪れても、志ん生の家に来ているようだったという(新宿末廣亭席亭、北村銀太郎)。文楽は必要に迫られたせいもあるのか、いつしか骨董の目利きができるようになり、骨董を趣味とするようになった。

ただし文楽も負けてはいない。50銭の借金のカタとして、かつての志ん生が持ってきた古い額があったが、志ん生が大出世して名人の地位を揺るぎなくした後、文楽はその額を自宅の客間正面に掲げた。文楽は、来客が来るたびに披露して悦に入っていた。

「これはネ、美濃部(志ん生)がネ、貧乏していたあのころに持ってきた…」

志ん生が驚いて、「並河(文楽)、額を返してくんな。借金は何倍でも何百倍にでもして払うから…」と哀願しても、文楽は「いえ、例え何万が何十万でも、この額だけはお返しするわけにはいきません。なんてったって、とうに、質流れの品物だもの…」[35]

[編集] 3代目三遊亭金馬

金馬と文楽は共に3代目圓馬から落語を教わっている。金馬は批評家達から本格派と認められなかったが、文楽は金馬の芸に惚れぬいていた[36]。金馬に直接電話をして、高座の良い部分を次々挙げて褒めていくことがあったという。

春風亭柳好に対しても同様で、久保田万太郎が毛嫌いした芸に文楽は惚れ込み、激賞した。日本芸術協会から引き抜くところまでいったが、落語協会内の嫉妬などがあり、結局実現しなかった。

[編集] 7代目立川談志

  • 談志の出世作「源平盛衰記」(談志ひとり会、1968年)は現在の水準でも落語の最先端を行くと評されるが、当時も聞く者に衝撃を与えた。この一席で談志ファンになった人は多い。しかし、落語勉強会(TBS主催・会場東宝演芸場)において、文楽は談志の面前でこの高座をけちょんけちょんにくさした(飯島友治の指図とも言われる)。これについては談志が恨み言を書いている(『現代落語論』)ほか、のち、飯島の首根っこをつかんでどうして素人のお前らにプロの俺たちが指図されなければならないのだ!と直接脅迫した。以後は『天下御免の極落語』参照
  • 立川談志がはじめてとった弟子は10代目土橋亭里う馬である。談志は彼の初名を「立川談十郎」と名付けた。歌舞伎宗家市川團十郎のもじりであり、談志一流の諧謔精神による。[37]しかし文楽は「前座の分際で『團十郎』とは生意気でげす」と怒り、結局彼は前座の間だけ「立川談十」という名になった。

[編集] 春風亭小朝

文楽はTBSラジオのラジオ番組「しろうと寄席」の審査員をしていた[38]。この番組に出演し、中学生ながら5週勝ち抜きチャンピオンとなったのが、現在落語界のトップに立つ春風亭小朝である。文楽は小朝に「あなた、噺家におなんなさい」と直に声をかけた(これが小朝の落語界入りの直接のきっかけとなった)。中学生の小朝は文楽の一言を信じ、文楽に弟子入り志願の手紙を出した。しかし文楽自身はこの懇願を拒絶した。[39]

[編集] 覚せい剤

立川談志によれば、8代目文楽は覚醒剤(ヒロポン)の常用者だった(『談志楽屋噺』)。また、六代目[40]蝶花楼馬楽(落語協会副会長)も、間接的にそう証言している[41]。なお、馬楽によれば、ヒロポンより前に流行った「ムルチン」という薬も、文楽は常用していたという[42]。「あの人の家に行くと、ムルチンがお茶がわりに出されるんです。『よっ、注射一本打ったげよう。疲れが抜けますよ』」。何とも江戸前の光景であるが、まぎれもなく、薬物常用者だった文楽が、薬物を人に薦めている描写である。

[編集] 趣味

[編集] 名言集

  • 「お後がよろしいようで」
  • 「べけんや」(共に意味はない)。立川談志は、文楽を称して「究極の感覚人間、いわゆるナウの人」と評している。
  • 「あばらかべっそん[43]」(自伝本のタイトルにもなった)
  • 「死ぬまで勉強です」
  • 「悲しいと思ったら、それが芸ですよ」/「悔しいと思ったら、それが芸ですよ」/(おいしい料理を一口だけ弟子に食べさせて)「美味いかい?美味いと思ったら、それが芸ですよ」
  • (弟子を叱るとき)「あたしが許しても(あたしに見つからなくても)天が許しませんッ!」 黒門町特有の甲高い声でこのセリフを発せられたら、たちまち震え上がってしまうだろう。
  • (弟子たちに対して)「浮気がばれても絶対、認めてはいけません。その『最中』にみつかっても、『いまお腹が痛いから見てやっているんだ』って言いなさい。絶対に白状してはいけません」 (圓蔵の浮気がばれて妻に物指しで叩かれたところ、翌日、文楽宅で)「文楽の弟子が内儀さんに物指しで引っぱたかれちゃいけませんよ」と小言を言われたという[44]
  • 吉井勇が文楽に送った言葉「長生きも芸の内」

[編集] 他のエピソード

落語協会会長に就任した後、弟子入りにあたっては、弟子は師匠に保証金を持ってこなければならないという規則を作った。その額は20000円(当時)。それ以降、少なくとも文楽自身の直弟子は本当に支払っている。映画「羽織の大将」でもこのエピソードが出てくる。

噺家には風(扇子)とマンダラ(手ぬぐい)がつきものだが、風はさておき、マンダラとして白いハンカチーフを用いていた。これをやってのけたのは文楽本人(と、直弟子の一部)だけであった。

亡くなる十数年前、胸を患ったことがある。不吉なものを感じた文楽は、4代目柳家小さんの妹が「拝み家」をしていたことを思い出し、彼女のところに行って占ってもらった。すると「えらい坊さんが出ました。その坊さんは塙保己一と名乗り、文楽はまだ大丈夫だと語った」とお告げが出た。そこで文楽は保己一の墓に行って、汚れている墓をきれいにした。寺の住職に過去帳を見せてもらうと、同行していた5代目柳家小さんがその系図の最後の人を指差し、「この人は軍隊の時の自分の上官です。随分殴られました」と語った[45]

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 9代目桂文楽『桂文楽のちょっと粋な話』
  2. ^ 『粗忽長屋』創拓社
  3. ^ 彼女について述べた本は、ずばり『内儀さんだけはしくじるな』(古今亭八朝・岡本和明 ISBN 978-4163704005 )、孫弟子の妻からみた文楽の妻の姿は海老名香葉子『おかみさん』(文春新書) ISBN 978-4166606733
  4. ^ 長唄師匠稀音家六里治。東京芸術大学卒。
  5. ^ 文楽は、息子が無事に帰って来られるかに否かを、拝み屋に占ってもらったところ、「モクズ」という縁起の悪い占いがでた。ちなみにその拝み屋は4代目柳家小さんの実妹である。(宇野信夫『私の出合った落語家たち』(河出文庫))
  6. ^ ほんとうに文楽が言いたかったことは「何があっても死ぬな。生きて帰れ」という言葉であろうが… それは親子同士の会話でもいうことが当時はできない台詞だった。(息子は軍人ではないが)捕虜になるくらいなら死ね、というのが当時の日本軍の規律であった。心ならずも文楽のこの言葉が“実現”してしまったわけである。
  7. ^ まず、現地まで行く間に船が撃沈されたり事故にあったりした可能性がある。現地に着いたとしても、満洲は、ソ連赤軍により占領された。つまり、ソ連赤軍に殺された、シベリアに抑留されて凍死…などの可能性がある。しかしもちろん真相は不明である。
  8. ^ 4代目柳家小さんの実妹である拝み屋にも、再度縋ったが、「息子さんは今金魚になっています」と要領を得ない答えが返ってくるばかり。
  9. ^ 皇太子妃雅子さま想い出の店 創作ケーキとカレー アルルカン
  10. ^ まさか本人はそれを意識していないだろうが…
  11. ^ 当時、養子縁組に金銭が介在し、人身売買のようになっていたことは日常的なことであった
  12. ^ 『びんぼう自慢』、結城昌治『志ん生一代』、美濃部美津子『おしまいの噺』
  13. ^ 人間国宝花柳壽應(2世壽輔)の内弟子
  14. ^ 文楽が落語協会会長。今輔は日本芸術協会会長。
  15. ^ 字を書いたのは弟子の5代目柳家小さんである。
  16. ^ ときおり、文楽の自宅がそのまま落語協会になったという誤解があるが、このように正しくは“文楽の自宅の近所”である
  17. ^ 3代目三遊亭小圓朝が今村信雄にした証言より。
  18. ^ 同門の先輩には2代目立花家花橘がおり、通常は花橘は小南の弟子と伝えられているのだが、文楽は二人の関係を兄弟弟子と見ていた。花橘は小南を(「師匠」でなく)「兄さん」と呼んでいたからである。つまりそれまで小南は弟子がいなかった。売れっ子だったが上方落語家であり、しかもケレンで売っていたためかもしれない。
  19. ^ 安藤鶴夫の証言による。
  20. ^ 圓馬の弟子正岡容の『完本正岡容寄席随筆』岩波書店版に所収の「随筆寄席風俗」より。河出文庫版には入っていない。
  21. ^ 安藤鶴夫、柳家小満んの証言による。
  22. ^ ひらがなの「圓朝“まつり”」でないことに注意。
  23. ^ 弟子柳家小満んの回顧。
  24. ^ 「(3代目)小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない。」「じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。」「今から少し前に生まれても(最高の)小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。」(夏目漱石三四郎』)
  25. ^ この小さんの模様は安藤鶴夫が目撃している(『寄席はるあき』)。また花菱アチャコも証言している(立川談志と の対談。立川談志ひとり会特典CD「とっておきの二大対談・花菱アチャコ/手塚治虫」)。かなり長い期間、小さんはこのような悲惨な状態であったが、高座 に出るのをだれも止めることができなかった。ラジオ放送で「客の笑い声が入る」形式の収録をはじめてやったのが小さんであったが、上述の状態となり、さすがにこのときは放送が途中で停止された(今村信雄『落語の世界』)。
  26. ^ 5代目三遊亭圓楽の最後の高座は明らかに、伝説的な黒門町の最期を意識したものである(2007年2月25日、国立演芸場、第297回「国立名人会」主任、三遊亭圓朝作の大ネタ「芝浜」)。圓楽最後の高座を伝える新聞記事も、この高座を黒門町の最後の高座との関連のみで論じている(産経新聞「産経抄」、読売新聞「編集手帳」、朝日新聞天声人語」。三紙とも2007年2月27日付け)。尤も、圓楽はこの日の高座で実際には大きなトチリを見せなかった。そのため引退宣言は高座でなく、噺終えたあと楽屋に詰めかけた取材陣に対して発せられた。第297回「国立名人会」 日本芸術文化振興会
  27. ^ もっとも、最晩年の圓生が実際に起こしたものはあの落語協会分裂騒動であり、文楽とは違う意味で大変に厳しい事になり、最後は誕生日に一席終えた所で心筋梗塞をおこして急死するという最期であった。
  28. ^ 山本益博『さよなら名人芸』では「夫婦」の噺もあるとされる。
  29. ^ セットには同一演目が複数収録されているが、それぞれ別々の時期の実演。
  30. ^ 吉田首相が落語好き…というのは桂文治 (9代目)(ケチ文治、留さん)がマクラで言っていたとおりである。留さんによれば、吉田は落語を聞いていたから首相にまで出世できた。だからお客さんも落語を聞くべき、落語さえ聞いていれば必ず首相にまでなれる…と
  31. ^ のどの手術をしたり、入れ歯が合わなくなったりして、晩年の実演は質が落ちる、という意見もある。また例外的に「出来の悪い演目」もあることはある。これに関しては出口と山本益博の間である逸話が残されている。京須偕充『みんな芸の虫』参照。しかし最終的にCD化された
  32. ^ これは2代目快楽亭ブラックの最初の破門理由と同じ。
  33. ^ 文楽の直弟子がみな昇進し、前座がいなくなったことがあった。文楽の弟子(小勝・小さん・7代目圓蔵・内輪となった3代三木助)が、師匠文楽の身の回りの世話をさせるため、自身の弟子を労働力として文楽宅に提供した。7代目圓蔵は8代目圓蔵を派遣した。ちなみに小さんが派遣したのはなんと談志であった。当初の構想では4人の孫弟子を一週間代わりに一人ずつ付けるというものであったが、8代目圓蔵だけが、文楽の妻(4人目の妻)に特に気に入られ、ずっと文楽宅にとどまる、つまり実質的な内弟子となることになったのだ。(小久保晴行『八代目橘家圓蔵の泣き笑い人情噺』ISBN 978-4872573848
  34. ^ 篠山少年は3年ほど落語を習いつづけたが、大学受験の準備のためこれを断念し、大学の写真科に進んだ。東大落語会(東大落語研究会OB会)が彼の噂を聞きつけ、同会が編纂する『圓生全集』の写真家として起用した。また彼と関係の深いCBSソニーは、『圓生百席』の全タイトルのジャケット撮影に彼を起用した。(『名人名演落語全集』第3巻 月報) 篠山は「モデルを笑わせるのがとてもうまい」という定評がある。篠山は“婦人科”(女性を多く撮るカメラマン)の最高峰であり、多くの大物歌手・女優を脱がせてきた。落語で得た笑いの技術で、女優らをその雰囲気にさせてしまうのだ。
  35. ^ 新宿末廣亭支配人真山恵介(杉田憲治)『落語学入門』
  36. ^ 金馬未亡人と文楽との対談「三代目金馬を偲ぶ」、『三代目 三遊亭金馬集』東大落語会編)
  37. ^ 以下の弟子にも、「左談次」「談四楼」と市川一門の歌舞伎役者をもじった名を命名
  38. ^ 他の審査員は弟子の6代目小勝と5代目小さん、TBS専属4代目三遊亭圓遊安藤鶴夫7代目一龍斎貞山アダチ龍光コロムビア・トップ・ライト、宮島一歩・三国道雄。この番組は牧伸二10代目柳家小三治、テレビ朝日馬場雅夫アナウンサー、坂本新兵、川戸貞吉、林家ライスなどスターを輩出している。
  39. ^ 小朝の公式ブログ 2007年12月1日 http://ameblo.jp/koasa-blog/entry-10058081448.html で明かされている。文楽はお世辞の上手い人で、どうやらそこらじゅうの人間に同じように(落語界にお入んなさいと)声をかけていたらしい、と現在の小朝は振り返る。また、直接面会せずに仲介者も立てずに、手紙で弟子入りを申し込んだということ自体が失礼なことなのだと反省している(が、一般的にはそうであっても、必ずしも落語家全体にはそれは当てはまらない。笑福亭鶴光6代目笑福亭松鶴に入門する時は「往復はがき」でやっている)。小朝はまったく新宿末広亭支配人の紹介で別の一門に入門し、大変丁重に扱われ、20歳代半ばで落語界きっての売れっ子となった(すでに弟子数の多かった文楽一門では絶対にこのような出世はあり得なかった)
  40. ^ この馬楽(河原三郎)は六代目となるが、本人自身は五代目を名乗っており、自著『馬楽が生きる』でも五代目と明記している。
  41. ^ 自著『馬楽が生きる』pp196-197。馬楽は自著で「薬に手を出さなかった師匠」を何人か、偉い順に列記したが、そのなかに文楽は含まれていない。談志の証言と重ね合わせると、文楽は覚醒剤を常用していたと断言できる。なお、「覚醒剤をやらなかった師匠」として談志も馬楽も志ん生の名を共通して挙げている。しかしこれは志ん生は覚醒剤とは別の、強い依存性飲料を常用していたためと思われる。
  42. ^ ムルチンは解熱剤で、戦後も長く売られていた。ムルチンは覚醒剤ではないようである。
  43. ^ この言葉について、湯川博士は、サンスクリット語の「ア・バ・ラ・カ・キャ・ウン」(地・水・火・風・空・識)に由来しているのではと推測している。『落語うんちく事典』(河出文庫)P.153
  44. ^ 坊野寿山『粗忽長屋』P.63
  45. ^ 宇野信夫『私の出合った落語家たち』(河出文庫)

[編集] 外部サイト

最終更新 2009年11月3日 (火) 04:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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