桂米朝 (3代目)

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さんだいめ かつらべいちょう
三代目 桂米朝
結び柏は、桂米朝一門の定紋である。
結び柏は、桂米朝一門定紋である。
本名 中川 清
別名 俳号:八十八(やそはち)
生年月日 1925年11月6日(84歳)
出生地 関東州大連普蘭店
(現:中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店市
職業 落語家
活動期間 1947年 - 現在
活動内容 1943年:上京、正岡容に師事

1947年四代目桂米團治に入門、三代目桂米朝を名乗る
1974年米朝事務所設立
1987年紫綬褒章受賞
1996年人間国宝認定
2002年文化功労者顕賞

家族 五代目桂米團治(長男)
公式サイト 米朝事務所
主な作品
地獄八景亡者戯』『百年目』『一文笛』

3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年(大正14年)11月6日 - )は、旧関東州満州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家上方噺家)。本名、中川 清(なかがわ きよし)。出囃子は『三下り鞨鼓(三下りかっこ)』。俳号は「八十八(やそはち)[1]」。

現代の上方落語界を代表する落語家の一人で、戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われている。1996年、落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。1979年には帝塚山学院大学非常勤講師一門の弟子たちからは「ちゃーちゃん」と呼ばれている。

目次

[編集] 人物

語り口調は端正で上品。容姿も端麗で人気を博す。多くの弟子を育て、長男5代目桂米團治もその一人。特に初期の弟子には月亭可朝2代目桂枝雀2代目桂ざこばなど自身の芸風とはかけ離れた異能派が並んでおり、かつては芸に厳しく怒鳴ったり、鉄拳等も出ることがあったが近年は大きな包容力で一門を育て上げている。絹子夫人は元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の「駒ひかる」である。なお、次男と三男は双子である。 持ちネタは多数あるが、代表的なところでは自ら掘り起こした「地獄八景亡者戯」や「百年目」、自作に「一文笛」がある。

「芸は最終的には催眠術である」が持論。お客さんを落語の世界へ引っ張り込むことを催眠術に例えている。

長男によると「父の中川清」は、とりわけて子煩悩でも、教育熱心でもなく、かといって目立った諍いも無く、家に居ても丹念に落語の資料に目を通している父親で父子としては至って普通の淡白な関係であった。ただわからない事を訊ねると子供相手であっても順を追って理路整然と説明するなど父親と本業の両面が出ていた。舞台での流暢な喋りと温厚そうな雰囲気の反面、TVや新聞を見て気に障る事があると、途端に虫の居所が悪くなり、怒声や剣幕こそ出さないものの、険しい顔で所作が乱暴になり険悪な雰囲気を撒き散らす等、子供にとっては居心地の悪くなってしまう気難しい面も持っていた。

ニュースなどで北朝鮮と米国を扱ったいわゆる「米朝問題」を聞くと「自分とは無関係なのにドキっとする」と語っていた。

[編集] 来歴

1925年関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店市)に生まれた。4歳の頃に奉天(現瀋陽)ヘ転居。1930年に、祖父の死去に伴い、父が神社の神主(九所御霊天神社)を継ぐため一家で姫路へ帰国した。米朝自身も上京前に周囲の勧めもあり、神主の仮免状を取得している。

幼少時代から落語浪曲に親しみ、父や演芸好きの叔父に連れられて西花月亭南地花月にもよく通っていた。

1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)(まさおか いるる)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。正岡一門の一番弟子となった。正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫と知り合いとなった。

1944年2月の応召直後病に倒れ病院で終戦を迎えた。この頃橘ノ圓都が慰問で病院に訪れ出会うことになる。大学には復学せず、神戸市会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていたが、矢倉が3代目桂米之助となった事が縁で彼の師匠である4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。

やがて師正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る。一旦勤めを辞め内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の郵便局員として1年ほど勤務した。

戎橋松竹でデビュー後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座うめだ花月に出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語を中心に活動するようになる。1974年千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。

1960年代頃からは、放送タレントとしても「ハイ!土曜日です」、「お笑いとんち袋」(関西テレビ)や「味の招待席」、「和朗亭」(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。

一方で、落語研究家としても活動を行い、一度滅んだ噺を文献から発掘したり、落語界の古老から聴き取り調査をして多数復活させている。彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」「けんげしゃ茶屋」などがある。

入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、共に上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。

しかし、東奔西走といっても、地方においては昭和40年代であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。つまり、地方ではテレビの『笑点』でやっている大喜利が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかったのである。

1972年に正月と夏にサンケイホールで独演会を開催(その後も長年サンケイでは独演会を開く)。

上方落語協会の会長に四天王としては唯一就任していない。5代目文枝の自伝『あんけら荘夜話』によれば、1988年の選挙で一旦は会長に選出されたが、米朝は「会長になる気持ちはない」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている。

1987年4月29日紫綬褒章受章。1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

TVコマーシャルの出演は一切拒否しているが、「ハイ!土曜日です」でアイバンクを紹介した事が縁で、1983年放送の公共広告機構(現:ACジャパン)のアイバンクのCMに出演している。このCMは、ラジオ部門のACCグランプリ、秀作賞、タレント賞を受賞した。

2002年の東京・歌舞伎座の口演を最後に一線を退く(2009年現在は落語会のよもやま噺やテレビ、ラジオ出演のみ)。

2007年は芸能生活60周年(米團治に入門してから数えて)であり桂米朝を祝う会等も行われ、退院以来のトリで落語「将棋小噺」を披露した。

2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹梗塞と診断され入院した[2]

[編集] 幻の桂三木助の襲名

1972年8月に3代目の死後空名跡となっていた「桂三木助」の襲名を松本昇三(当時朝日放送の社員)が発案し、香川登志緒(作家)、三田純市(作家)、そして米朝本人を加えて4人で食事の席を設け、そこで松本が襲名を提案した。3代目三木助の師匠であり落語芸術協会の会長であった6代目春風亭柳橋、陶酔した落語協会8代目桂文楽、三木助未亡人と家族、席亭、安藤鶴夫久保田万太郎、テレビ局関係者の承諾で襲名間近まで行ったが、文楽から「襲名披露は角座で行うこと」と条件があった。当時米朝は千土地興行所属で角座は松竹芸能が経営を行っていたため柳橋、文楽を呼び寄せていろいろ話し合いがもたれたが松本の朝日放送の退社などで計画は頓挫した[3]。米朝自身は著書で『文楽さんにも私にも知らされていなかったが(中略)襲名を条件に私をある興行会社の専属にしようという計画だった』『三木助の名前で誘い込もうというのである。それを知った途端に私の思いは冷めた』と述べている[4]

その後「三木助」の名は3代目の実子が4代目を襲名したが死去。現在は空名跡。4代目は襲名後米朝に稽古を付けて貰っていた事がある。因みに米朝の若い頃は3代目の若い頃に似ているといわれていた。

結局米朝は改名・襲名をこれまで行っていない。

[編集] 主な門弟

詳細は「米朝一門」を参照

[編集] 上記以外の受賞歴

[編集] 上記以外の出演番組・映画

[編集] CD・カセットテープ

[編集] DVD・ビデオ

[編集] 著書

  • 米朝上方落語選(立風書房、1970年)
  • 上方落語ノート(単行本、全4巻、青蛙房、1978年1月 - 1998年1月)
  • 米朝落語全集(単行本、全7巻、創元社、1980年1月 - 1982年1月)
  • 日本の名随筆 22(単行本、作品社、1984年1月)
  • 米朝ばなし―上方落語地図(文庫、講談社、1984年11月)
  • 落語と私(文庫、文藝春秋1986年3月)
  • 一芸一談(単行本、淡交社、1991年2月)
  • 友あり駄句あり三十年―恥多き男づきあい春重ね(単行本、東京やなぎ句会編、日本経済新聞社、1999年3月)
  • 米朝・上岡が語る昭和上方漫才(単行本、上岡龍太郎との共著、朝日新聞社、2000年6月)
  • 桂米朝 私の履歴書(単行本、日本経済新聞社、2002年4月)
  • 上方落語 桂米朝コレクション(文庫、全8巻、筑摩書房、2002年9月 - 2003年7月)
  • 対談 笑いの世界(単行本、筒井康隆との共著、朝日新聞社、2003年9月9日)
  • 桂米朝集成 上方落語(単行本、全4巻、豊田善敬・戸田学編、岩波書店、2004年11月 - 2005年2月)
  • 落語と私(単行本、ポプラ社、新装改訂版、2005年11月)
  • 桂米朝座談(単行本、全2巻、豊田善敬・戸田学編、岩波書店、2005年12月 - 2006年1月)
  • 四世桂米團治 寄席随筆(編著、岩波書店、2007年11月6日)米朝自身の誕生日に発行
  • 米朝よもやま噺(単行本、朝日新聞社、2007年12月)

[編集] 関連書籍

  • じごくのそうべえ - 桂米朝・上方落語・地獄八景より(童心社、田島征彦作・絵、1978年1月、ISBN 4-494-01203-3
  • 桂米朝 噺の世界(写真集、宮崎金次郎撮影、小佐田定雄著、向陽書房、2002年4月、ISBN 4-906108-46-6
  • なにわ華がたり - 中川絹子 桂米朝と一門をささえた半世記(単行本、廓正子著、淡交社、2004年7月、ISBN 4-473-03182-9
  • なんでも好奇心 2005年6/7月(ムック、「米朝の上方歌舞伎案内」、日本放送出版協会、2005年5月25日、ISBN 4-14-189125-8

[編集] 脚注

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  1. ^ 米という字を崩した名。
  2. ^ 桂米朝さん、脳幹梗塞で入院 8月中の出演取りやめアサヒ・コム 2009年7月31日閲覧
  3. ^ 日沢 伸哉 (2009-01-10). "襲名悲喜交". らくごくら Web篇 上方落語こぼれ話. 2009年5月2日 閲覧。
  4. ^ 桂米朝 『桂米朝 私の履歴書』 日本経済新聞社、2002年。ISBN 978-4532164171

[編集] 関連項目・人物

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月16日 (水) 04:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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