桜井眞一郎
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桜井 眞一郎(戸籍上の氏名は櫻井眞一郎)(さくらい しんいちろう、1929年 - )は日本の自動車技術者。株式会社エス・アンド・エス エンジニアリング代表取締役。神奈川県出身。
旧プリンス自動車工業入社組の日産自動車社員として長期間在籍し、旧プリンス時代からスカイラインの初代から企画開発に携わり、2代目からは開発責任者(主管)として7代目の開発終盤まで長期間携わっていた事から、「ミスタースカイライン」「スカイラインの父」として自動車ファンの間からも広く知られている。
また、清水建設に勤務していた時代に、日本で初めてバッチャープラントとコンクリートミキサー車(生コン車)を開発した人物でもある。
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[編集] 清水建設時代
1951年旧制横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)を卒業後、自動車メーカーへの就職を希望したが、当時の自動車業界は不況のため新卒者を採用せず、教師の勧めで清水建設を受験することとなった。桜井自身はこの会社に興味があったわけではなく、「受験者ゼロでは翌年以降の求人に関わる、受かるわけないし受験だけでいいから」と言う学校側の事情と、「日当と弁当が出る」という条件につられて受験することになった。
「挑戦的な性格」と自他共に認める桜井は、面接では言いたい放題で「当然受かるわけがない」と気楽だったが、清水建設側は彼に内定通知をおくる。桜井はあわてて学校側に抗議するが、内定拒否などすれば受験者ゼロより悪影響なのは明らかで、学校側は「自動車会社からの求人があったら、真っ先に連絡する」と約束して説得。結局桜井は清水建設に入社する。
東京駅近くの現場を担当することになった彼は、その研究熱心な性格と、もともと機械を専攻していた技術力から、自動的にセメントをこねてコンクリートにする機械(バッチャープラント)を発明し、この現場にて使用する。これにより、工期を大幅に短縮した彼は、社内での評価を急上昇させる。
続いて担当した現場では、バッチャープラントを設置するスペースがなかった。桜井はアメリカですでに使われていたコンクリートミキサーをトラックのシャシーに載せることを発想し、国内では初めてのコンクリートミキサー車(生コン車)を完成させる。そしてこの現場も、従来の工期より早く完成を迎えることが出来た。
[編集] たま自動車~プリンス自動車工業~日産自動車時代
1952年10月、プリンス自動車工業の前身であるたま自動車の求人情報を学校から聞いた桜井は、清水建設の上司の引止めを振り切って転職。設計課に配属される。プリンスの面接でも、実質的創業者だった外山保から「なぜ清水建設を辞めてウチのような貧乏会社を志望するのか」と質問され、「私は自動車をやるために志望しました。貧乏会社? 大いに結構」と啖呵を切ったという。
配属後、すぐに、プリンス・セダンのコラムシフトレバーの改良を任せられる。このレバーは折れやすくクレームが多発していた。この設計において上司と対立。強度を上げるために太くするべきという上司に対し、桜井は細くしてしなりを持たせるべきだと主張して改良を施した結果、プリンス・セダンのコラムシフトレバーのクレームやトラブルはすぐに解消されたエピソードがある。
スカイラインには初代から開発に携わり、2代目(S50系型)から6代目(R30型・ニューマン)まで開発責任者(主管)を務めた。6代目(R30型・ニューマン)に引続き、7代目(R31型・7th(セブンス))も開発責任者(主管)として指揮を執っていたが、開発終盤段階の1984年に突然病に倒れてしまい入院。急遽、プリンス自動車時代からの仲間で一番弟子の伊藤修令に後継者としてバトンタッチした。桜井はスカイライン以外に、C31型ローレルの開発責任者を務めていた事もあった。スカイラインには、桜井自ら広告塔としても関わっていた。プリンス自動車、スカイラインについては、それぞれの項目を参照されたい。
[編集] 開発に関わった主な車両
- スカイライン(初代より開発に関わっており、2代目~7代目の発売直前まで開発主管を務めていた)
- ローレル(C31型)
- R380 1966年 1型から3型まであるが、1型が第3回日本グランプリ優勝車(11号車砂子義一)。1967年の第4回に2型が、1968年の第5回に3型が参戦しているが、これらは優勝を逃している。1998年に桜井自らの会社エス・アンド・エス エンジニアリングの手によりレプリカが製作された。
- R381 1968年第5回日本グランプリ優勝車(20号車北野元)。左右に分割され、リアサスペンションに連動してそれぞれが独立して角度が変わるウィングを有し「怪鳥」の異名を持つ。シボレー製のV8エンジンを搭載していた。2005年のニスモフェスティバルにて、レストア車両が披露された。
- R382 1969年第6回日本グランプリ優勝(21号車黒沢元治)及び2位(20号車北野元)。600馬力超のV型12気筒エンジンを搭載。型式名から「サンパーニ」と呼ばれた。映画「栄光への5000キロ」で、石原裕次郎がドライビングしている。21号車はこの後渡米(理由ははっきりしないがCAN-AM参戦をもくろんでいたらしい)し、北米日産のレース車両倉庫にあるところを発見された。1991年に帰国し2004年にレストアされた。
- R383 1970年の主力マシンとして製作されたが、世情が排ガス問題や交通戦争など自動車に対し厳しい目を向けるようになったため、この年の日本グランプリは中止となり、ニッサンも排ガス規制の対応に追われ、テスト走行すら行うことなく役目を終えた。パワーウェイトレシオが1以下というモンスターマシンである。2006年にレストアを受け、その年のニスモフェスティバルにて走行した。なんと製作から36年目にして初めて走る姿が披露されたのである。
[編集] オーテックジャパン時代
1985年に退院した桜井は日産の開発部門に復職せず、スカイラインファン・プリンスファン・日産ファンの多くが当然と思った日産自動車の取締役に就任することもなく、翌年、オーテックジャパンの設立に携わり、初代社長に就任する。
社長とはいえ子会社に転じた事は、スカイラインファン・プリンスファン・日産ファンからは意外に思われたが、これには桜井がプリンス時代からの商品企画に継承されている職人気質である事と、大所帯の日産では彼の望み通りの仕事がなかなかしづらい環境であった事が背景にあり、実際には桜井の良き理解者でもあった当時の日産自動車社長・久米豊の計らいであったようだ。ちなみに同様の例は、ほぼ同時期にNISMOの初代社長となった難波靖治の処遇においても見られている。
また、当時の日産自動車では東京大学出身者の学閥が非常に強力であり(久米豊は東大第二工学部卒)、桜井は東大卒で無かった事と、旧・プリンス自動車の出身であった事もあって、たとえ桜井本人が望んだとしても取締役に就任できる可能性は限りなく低かったと指摘する関係者も少なくない。
桜井が社長を務めるオーテックジャパンには、旧プリンス時代からの後輩の伊藤修令が常務取締役(現在は顧問)に就任し、旧・プリンス時代から継承されている日産の企画開発部門・関連各社出身者で構成される、通称「桜井学校」「桜井ファミリー」と称される数多くの日産の社員がオーテックジャパンに出向・移籍しており、意欲的な特装車の開発や、スカイライン、シルビアなどの独自チューン、オーテック・ザガート・ステルビオの開発などで絶えず注目を浴び、日産ファンをはじめとして、旧・プリンスファン、歴代のスカイラインファン、自動車ファンなどから信頼の厚い特装車メーカーとして名を馳せる事となる。
[編集] 現在
1995年にエス・アンド・エス エンジニアリングを設立し、ボディー補強材やディーゼルエンジンの排出ガス浄化装置等を開発して現在に至る。1997年にはプリンス&スカイラインミュウジアムの館長に就任(現在は名誉館長)。2005年には、1970年代のホンダF1チーム監督を務めた中村良夫と共に日本自動車殿堂入りを果たした。
[編集] 設計思想
少年時代に大病を患い、神奈川県海老名で転地療養生活を送った。この時に自然に親しむ生活を送った経験から、自然の摂理に則り、人間の血の通ったクルマ造りを信条とする。性能向上を優先するあまり実際に運転する人間のことを考えていないとしてロータス嫌いを公言しているのも、この信条ゆえである。
市販車とレース車の開発を同時進行で進めていたプリンス時代の経験もあり、レース車の技術は市販車のためにあるべきであるとの考えに立つ。日産時代には「F1は市販車に還元できる技術が何もない」と発言した事もある。
コンクリートミキサー車の発明者である事は彼の自慢であり、オーテックジャパン社長就任の際は、パン焼き窯を装備し車内で焼いたばかりのパンを販売する自動車を構想して、夢として語っている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年10月29日 (木) 12:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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