梨田昌孝
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| 北海道日本ハムファイターズ 監督 #88 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 島根県浜田市 |
| 生年月日 | 1953年8月4日(56歳) |
| 身長 体重 |
178cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 捕手 |
| プロ入り | 1971年 ドラフト2位 |
| 初出場 | 1972年7月2日 |
| 最終出場 | 1988年10月19日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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梨田 昌孝(なしだ まさたか、1953年8月4日 - )は、島根県出身の元プロ野球選手(捕手)・監督、野球評論家。本名は「昌崇」で、1984年より「昌孝」を登録名としている。愛称は「ナッシー」。
2008年から北海道日本ハムファイターズ監督。
2004年シーズンをもって消滅した近鉄・大阪近鉄球団最後の監督であり、選手・監督両方で同球団の優勝を経験した唯一の人物である。
プロ生活でリーグ優勝を4回経験しているが日本一を経験したことがない。
目次 |
[編集] 経歴
島根県立浜田高校時代、3年生の春・夏に甲子園に連続出場。1971年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団。
1年目(1972年)から強肩を武器に頭角を現すも打撃で伸び悩み、一時は有田修三に正捕手の座を奪われるが、打席で両腕をクネクネと動かすフォーム『コンニャク打法』を開発すると勝負強い打撃を発揮し、正捕手の座を奪回。1979年には球団初のパシフィック・リーグ優勝を経験し、1981年まで3年連続ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞するなど、長きに渡って近鉄の捕手として活躍した。
1986年以降は、肩や打撃面の衰えから山下和彦、古久保健二、光山英和にマスクを譲る機会が多くなる。1988年に引退。現役最後の安打は、伝説となった『10.19』のダブルヘッダー第1試合で放った決勝タイムリーヒットであった。
- 梨田の現役時代、阪急ブレーブスには『世界の盗塁王』の異名を取る福本豊が居た。福本の盗塁にはどの球団も頭を悩ませており、当時プロ野球界で一、二を争う強肩だった梨田も例外ではなかった。梨田は考えに考え、福本が一塁に出ている際は予め右足を引いて構え、更に投球を捕ってからミットの中のボールを右手で抜き取り送球するのではなく、ミットでボールを後ろに受け流しそのまま右手で捕球することによって送球にかかる時間の短縮を図った。この工夫の甲斐あって、梨田は、福本がいたにもかかわらず5割を超える盗塁阻止率を記録した。
- 西本幸雄監督時代から、有田との併用が多く見られた。この2人は『ありなしコンビ』と呼ばれ、当時は「2人とも他球団に行ったらレギュラーは間違いない」と言われており、実際オフシーズンになると近鉄に「どちらかをトレードしてほしい」との希望が殺到していたという。この状態は有田が読売ジャイアンツに移籍する1985年まで続いた。この『ありなしコンビ』の成功以降、複数捕手の併用が近鉄の戦術の特徴となり、近鉄で規定打席に到達した捕手は1985年の梨田以降は一人も現れなかった。
- 近鉄のリーグ連覇時(1979年と1980年)の正捕手だが、当時のエースだった鈴木啓示とはバッテリーを組まなかった。理由については有田修三の項目を参照。
- 大阪府藤井寺市には、1985年に梨田が新居を建築しようとした際に発見された遺跡があり、「はさみ山遺跡梨田地点」(はさみやまいせき-なしだちてん)と命名されている。この遺跡は、2008年現在、大阪に人が住んでいた最古の遺跡とされる。
[編集] 引退後
野球評論家を経て、1993年にバッテリーコーチとして近鉄に復帰。1996年からは二軍監督を務め、2000年に一軍監督に就任。2年目の2001年はチーム防御率が4.98だったが、近鉄球団を史上4度目、球団最後のパ・リーグ優勝に導いた。ヤクルトスワローズとの日本シリーズは1勝4敗で敗退。2004年シーズン後、近鉄がオリックス・ブルーウェーブに吸収合併される際、近鉄のカラーを残すべく配慮したオリックス側からヘッドコーチへの転任を打診され、監督となった仰木彬からも慰留されるが「選手・スタッフやファンがばらばらになり、その進路も決まらないうちに自分一人が残るのは望ましくない」と辞退。あくまで「近鉄の梨田」としてユニフォームを脱ぐことを望んだため、球団解散前の10月15日付けで退団した。
2005年からは12年ぶりにNHK・大阪日刊スポーツの野球評論家に復帰、かんさいニュース1番の金曜日のスポーツコーナーにレギュラー出演した他、プロ野球・メジャーリーグ野球解説などを担当。他にも、2005年7月にアニメ「プレイボール」(関西テレビ放送)で声優を務め(タイヤキ屋のおやじ役)、京橋グランシャトービルやアーククエストなどの関西ローカルのCMにも出演。また2006年6月1日には大阪産業大学の客員教授にも就任し、実業家としても個人芸能事務所「トゥルーマサ」を運営するなど多方面で活躍する。
2008年に北海道日本ハムファイターズの監督として4年ぶりに現場復帰。2007年11月25日に札幌ドームで行われた日本ハム・ファンフェスティバルにて、前監督・トレイ・ヒルマンから梨田への背番号88の継承式が行われた。2009年、就任2年目で日本ハムを2年ぶりのリーグ優勝に導く。
- NHKの野球解説者を務めていた1989年、ワールドシリーズの取材のためオークランド・アスレチックスの本拠地のオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムを訪れていた梨田はロマ・プリータ地震に遭遇、急遽現地の被害状況のリポーターを務めた。
- 物腰の柔らかい温厚な人物として知られているが、近鉄の二軍監督時代に、ノックアウトされてベンチにグラブを叩きつけ荒れていた前川勝彦を殴り倒したこともあった。
- 近鉄の監督に就任した頃、近鉄は当時コーチだった小林繁、真弓明信と梨田の三人を『近鉄男前三人衆』として売り出し、近鉄百貨店の広告が近鉄沿線の駅ポスター・車内中吊りに掲げられた。また、モロゾフのホワイトデー・イメージキャラクターになったこともある。
- 近鉄の監督時代は、外国人選手に対する事前評価が実際とは正反対の結果になることが多く、近鉄ファンからは「梨田の新外国人選手評は全くあてにならない」と定評があった。例えば監督就任1年目に開幕投手に起用したボブ・ウォルコットは3勝4敗、防御率6点台で1年で解雇、2年目のキャンプで投球を見て「15勝は期待できる」と高評価したウィル・フリントは1勝も出来ずシーズン途中で解雇、更にバッティングを見て「ブーマー・ウェルズに似ている」と絶賛したフレッディ・ガルシアは打率1割台、1本塁打でシーズン半ばに解雇され、「すごい投手が来た」と評したケビン・バーンも解雇までは及ばなかったが平凡な成績しか残せなかった。なお、2年目の優勝にはショーン・バーグマンやジェレミー・パウエルの活躍もあったが、球団アドバイザーだったトミー・ラソーダの推薦で、梨田の見立てではない。
- 2001年の日本シリーズの前、ヤクルト・若松勉監督との写真撮影の際、緊張の色の隠せない若松とは対照的に、カメラ目線で笑顔を見せている。
- 2004年10月に、京都府の伏見稲荷大社に鳥居を奉納している。千本鳥居の一角に「大阪近鉄バファローズ 梨田昌孝」と記された鳥居が現存する。
- 2004年のシーズン最終戦(近鉄最後の試合)の前日に、選手に向けて「みんな胸を張ってプレーしろ。お前たちが付けている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」という名言を残している。
- 近鉄で1シーズン以上務めた歴代監督16人の中で、通算成績で勝ち越しているのは三原脩、西本幸雄、仰木彬、そして梨田の4人のみである。
- 球団合併時、仰木からの残留要請を断り、結果的に関西球界で根強い人気を持つ仰木の下につかなかったことに対し、一部から批判的な意見もあったが、当の仰木は梨田の立場や胸中に理解を示しており、梨田自身も恩師の一人である仰木の力にもなりたかったと、仰木死後に回顧した。近鉄ファンとして知られた俳優の藤田まことも、この苦渋の決断をけじめと評価した。
- NANDA!?の企画で変わった打法をテーマにゲスト出演した際、梨田のこんにゃく打法・種田仁のガニ股打法・中島裕之のぶった切り打法(この時はまだ名前がなかった)の打法比較していたが、司会の南原清隆にネプチューンの名倉潤がよく梨田のこんにゃく打法をマネをよくする事を聞いた際に股下はセクシーでなければならないと発言していた。
- 2007年、契約交渉でもめてオリックスを自由契約になったかつて近鉄時代の教え子の中村紀洋から相談を受けて、同級生で親友でもある落合博満に獲得を打診した。最初は断られるものの、最終的に中村は中日に育成選手として入団した(落合の項も参照)[1]。
[編集] 背番号
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 死 球 |
三 振 |
打 率 |
順 位 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1972 | 近鉄 | 52 | 9 | 3 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .667 | - | .667 | .667 | 1.334 |
| 1973 | 60 | 142 | 12 | 28 | 2 | 0 | 2 | 36 | 5 | 1 | 2 | 0 | 5 | 20 | .197 | - | .254 | .224 | .478 | ||
| 1974 | 8 | 115 | 247 | 14 | 48 | 10 | 0 | 2 | 64 | 18 | 2 | 6 | 0 | 27 | 41 | .194 | - | .259 | .274 | .533 | |
| 1975 | 45 | 69 | 5 | 11 | 2 | 0 | 2 | 19 | 9 | 0 | 5 | 4 | 8 | 15 | .159 | - | .275 | .247 | .522 | ||
| 1976 | 48 | 48 | 7 | 13 | 1 | 1 | 3 | 25 | 10 | 1 | 3 | 0 | 6 | 13 | .271 | - | .521 | .352 | .873 | ||
| 1977 | 80 | 190 | 15 | 47 | 5 | 0 | 0 | 52 | 10 | 2 | 8 | 1 | 11 | 29 | .247 | - | .274 | .289 | .563 | ||
| 1978 | 58 | 120 | 17 | 32 | 4 | 2 | 7 | 61 | 30 | 3 | 7 | 3 | 11 | 15 | .267 | - | .508 | .328 | .836 | ||
| 1979 | 114 | 357 | 39 | 97 | 14 | 0 | 19 | 168 | 57 | 2 | 12 | 3 | 28 | 44 | .272 | - | .471 | .325 | .796 | ||
| 1980 | 118 | 360 | 55 | 105 | 26 | 2 | 15 | 180 | 55 | 1 | 10 | 4 | 30 | 58 | .292 | 19 | .514 | .346 | .860 | ||
| 1981 | 106 | 374 | 44 | 102 | 16 | 0 | 17 | 169 | 48 | 5 | 1 | 4 | 32 | 47 | .273 | 23 | .452 | .330 | .782 | ||
| 1982 | 91 | 279 | 31 | 81 | 8 | 0 | 10 | 119 | 35 | 6 | 3 | 2 | 22 | 42 | .290 | - | .427 | .342 | .769 | ||
| 1983 | 111 | 313 | 34 | 84 | 14 | 0 | 8 | 122 | 42 | 7 | 5 | 3 | 36 | 37 | .268 | - | .390 | .344 | .734 | ||
| 1984 | 84 | 241 | 29 | 60 | 9 | 2 | 7 | 94 | 29 | 4 | 5 | 1 | 26 | 26 | .249 | - | .390 | .322 | .712 | ||
| 1985 | 118 | 373 | 41 | 92 | 15 | 3 | 11 | 146 | 51 | 3 | 10 | 2 | 35 | 46 | .247 | 32 | .391 | .311 | .702 | ||
| 1986 | 79 | 199 | 24 | 43 | 8 | 0 | 6 | 69 | 25 | 2 | 6 | 3 | 19 | 27 | .216 | - | .347 | .284 | .631 | ||
| 1987 | 35 | 64 | 4 | 15 | 5 | 0 | 2 | 26 | 7 | 1 | 1 | 2 | 4 | 19 | .234 | - | .406 | .279 | .685 | ||
| 1988 | 52 | 65 | 4 | 14 | 2 | 0 | 2 | 22 | 8 | 1 | 0 | 0 | 6 | 13 | .215 | - | .338 | .282 | .620 | ||
| 通算成績 | 1323 | 3444 | 375 | 874 | 141 | 10 | 113 | 1374 | 439 | 41 | 84 | 32 | 306 | 492 | .254 | - | .399 | .315 | .714 | ||
[編集] 表彰
- ベストナイン:3回 (1979年~1981年)
- ゴールデングラブ賞:4回 (1979年~1981年、1983年)
- オールスターゲーム出場:6回 (1979年~1981年、1983年、1985年、1986年)
- オールスターゲーム最優秀選手 (1983年第2戦)
- 通算1000試合出場 1984年6月14日(246人目)
[編集] 監督としてのチーム成績
[編集] リーグ公式戦
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2000年 | 近鉄 | 6位 | 135 | 58 | 75 | 2 | .436 | 20 | 125 | .262 | 4.66 | 47歳 |
| 2001年 | 1位 | 140 | 78 | 60 | 2 | .565 | - | 211 | .280 | 4.98 | 48歳 | |
| 2002年 | 2位 | 140 | 73 | 65 | 2 | .529 | 16.5 | 177 | .258 | 3.93 | 49歳 | |
| 2003年 | 3位 | 140 | 74 | 64 | 2 | .536 | 8.5 | 187 | .274 | 4.30 | 50歳 | |
| 2004年 | 5位 | 133 | 61 | 70 | 2 | .466 | 17 | 121 | .269 | 4.46 | 51歳 | |
| 2008年 | 日本ハム | 3位 | 144 | 73 | 69 | 2 | .514 | 4 | 82 | .255 | 3.54 | 55歳 |
| 2009年 | 1位 | 144 | 82 | 60 | 2 | .577 | - | 112 | .278 | 3.65 | 56歳 | |
| 通算 | 976 | 499 | 463 | 12 | .518 | Aクラス5回、Bクラス2回 | ||||||
[編集] ポストシーズン
| 年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 2001年 | 近鉄 | 日本シリーズ | ヤクルトスワローズ | 1勝4敗(敗退) |
| 2008年 | 日本ハム | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ(※1) |
オリックス・バファローズ (パ・リーグ2位) |
2勝0敗(2ndステージ進出) |
| パ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※2) |
埼玉西武ライオンズ (パ・リーグ優勝) |
2勝4敗(敗退) (※3) |
||
| 2009年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ(※2) |
東北楽天ゴールデンイーグルス (パ・リーグ2位) |
4勝1敗(日本シリーズ進出) (※4) |
|
| 日本シリーズ | 読売ジャイアンツ (セ・リーグ優勝) |
2勝4敗(敗退) |
- ※ 勝敗の太字は勝利
- ※1 クライマックスシリーズ1stステージは3試合制で先に2勝したチームが2ndステージ進出、2位チームにアドバンテージなし
- ※2 クライマックスシリーズ2ndステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
- ※3 4敗のうち1敗は、対戦相手の西武に与えられたアドバンテージの1勝である
- ※4 アドバンテージの1勝を含む
[編集] 著書
- 梨田昌孝の超野球学 フィールドの指揮官(ベースボール・マガジン社) 2006年6月 ISBN 4583039034
- 戦術眼(ベースボール・マガジン社) 2008年3月 ISBN 4583100833
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月9日 (月) 02:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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